第二夜 社畜という現代奴隷の重要性


正社員になれないのなら株主になればいいじゃないの。

ダイヤモンド就活ナビで就職したい企業ランキング現在1位の住友商事でみると一株あたりの配当利回りは4.23%である。
(( navi15.shukatsu.jp/15/contents/special/ranking/2014/ ))

2015/1/8現在の株価は1,181円であるので、2億3,600万円分の同社の株式を保有していれば、年間約1,000万円の配当金を寝てても受け取ることができる。
(( stocks.finance.yahoo.co.jp/stocks/detail/?code=8053.T ))

大企業に就職すれば安泰だというが、そこで働きたいと志す若者は居ても株主になりたいという若者の数は少ない。労働力はひとつの企業にしか提供できないが、資産であれば複数の会社に分散することができる。であるならば、これは、どう考えても株主のほうが安定的ではないか。

資産の無い者たち

だがしかし、これは先立つものがないと叶わないお話しである。
前段の「お金と相転移」で話したように、資産に働いてもらうのが資産を増やすにはもっとも変換ロスがすくなく効率がよいのだが、そもそも若者は資産を持っていないので労働資本をつかって資本を稼ぐよりほかない。

大戦以前はこの労働所得をいくら積み上げても、一端の資本家とよべる資産にまで達することはなかった。しかし、現代の日本では所得収益と資産収益はコントロールされており10倍の差もなく収まるようになっている。

資産のある者たち

他方、既に資産を持っているものたちにはその効率の良さを潰すべく累進的な負担が強いられる。
座して食らわば山も虚しということわざがあるが、現代先進国では正規分布から外れれば外れるほど難しい対応が必要となる。なんせ負担は%で増えるのだ。
例えば相続税、6億円以上にかかる税率は55%、1,000万円以下は10%であるが、20世紀のように一族で資産を守るべく代襲相続制、限嗣相続制などで資産を守ろうとしても前者は減らさないように努めようとしたら最低でも3億3千万をどうにかして増やしてこないと目減りしてしまうのだ。

持っていれば持っているほど累進的な負担を迫られる。その資産を現状有姿で維持し続けるのは、資産が大きくなればなるほど難易度があがる。大きな資産を防衛できるぐらいの才覚があるなら、新たにその分を稼ぎだしたほうが、資産を増やせる程度の割合に設計されている。数億円ならいざしらず数百億円規模となるなら資本では再投資しただけでは間に合わず法人などにして事業所得にしないと維持もできないのだ。

これは個人の裕福層を封じ込める網としてはなかなかのものだ。
日本は最も成功した社会主義国家だというジョークがあるが、あながち間違ってもいない。

例えば、かなりまとまった額のお金を持っているのに企業に勤めていないがため入居審査が通らずマンションも借りられないと嘆く投資家がいた。身内でも働いている人がいないので連帯保証人を求められてもマンションも借りられない。無論住宅ローンなど望むべくもない。社会として保有資産よりも安定所得に価値が認められている。とかく日本は少しでも型から外れてしまうと社会生活を営むコストは格段に跳ね上がるようになっている。

個人から法人へ

資産がある者は大きく奪われ、資産の無いものは働くよりない。ではこの2つを満たすために何が残るのか。資産は個人が所有・維持するものから法人のものとなる。これが先進国での21世紀の資本主義の潮流である。
法人の事業形態は様々であるが、活動する場所は世界中好きに選べるし、何にお金を使い、何で稼ぐかも自由に選べる。そして、国際租税条約下にある近代国家間では税率も自由に選べるといっていい。

そのため、富は資産家のものから事業家のものへと替わった。
現代日本でのお金持ちは事業所得により資産を得たGreeの田中氏やソフトバンクの孫氏のように自らの才覚で稼いだ者達であり、旧家で資産家だからということでその財を増やし続けるというようなことは叶わなくなっている。これは世界的にも同じ潮流である。それがフェアかはともかくとして一応は能力主義的平等に基づいているという前提だ。

これは能力主義に基づいたとても公平なシステムのようでいてそれなりに残酷な現実でもある。
建前上、金持ちが貧乏人にお金を分けることができるが、能力がない人へ能力をわけることはできないのだ。

つまり、能力がないものが資産を得ようとしたら、能力があるものと仲間になり、おこぼれに預かるのが唯一の方法となってしまう。しかも、何を能力と評価するかは成果という結果からの評価からでしかなく、事前に決定することは難しい。ウォーレン・バフェットはかつて世界一位の資産家にも輝いたことがある能力のある投資家であるが、彼が成功を収めるより先に彼を見出すのは困難である。ゆえに彼が一定の成功を収めたのち彼に相乗りできるか否かが、フォロアーとしての重要な能力となる。

かつての農業のように労働と生産が密接に相関している社会ではなく、現代は資本増強型の工業世界である。その実、労働資本は価値生産の重要な要素とは言えなくなってきている。しかし、資本の受け皿として生き残るものが法人、組織だけである以上、提供されるそれを労働資本として受け入れるよりない。であるとするなば、ファウンダー以外、フォロアーの能力は、価値を生産できる組織にいかに所属しているかが”能力”という意味を強めていくという可能性がある。

実際に価値生産をできるかどうかなどは二の次として、社畜となってでも稼げる組織にしがみついたほうが、不確実性も低く生存合理性が高いという社会弊害を同時に生み出す。
ああ、なんてこったい。

規制と収益

冒頭の株のように資産を 4.23%で運用できるのであれば17年寝かせるだけで配当利回りだけで資産を倍にできる。他方、日本の円預金金利は現在年率0.02% である。これを利子で倍にしたければ3,600年またなければならない計算だ。

外部要因によりどのように振る舞うのが合理的かはリニアに決定される。
低成長、デフレ下では現金を持つのが振る舞いとしては合理的であり、逆にインフレ下ではモノに投資するのが合理的である。外部環境が変化しても資産をどのような形にも変換せずに置いておくのは資産運用上はありえない選択肢である。収益率によりお金の現在価値、将来価値は変化するのであるから効率性が重要となる。((今の日本はちょっとスタグフレーションに陥ってる可能性もあるので外部環境の評価が困難かもしんない。))

で、合理的な振る舞いというので思い出して欲しいのだが、お金はお金で稼ぐのがもっとも効率がよいという話しをした。
では、ここで、上場している企業の業種別の利益率(ROE)を業界別に見比べてみよう。 (( www.tse.or.jp/market/data/examination/tanshin/ ))

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平成25年度や平成26年3月期をみると、お金を貸してお金を稼いでいるような金融業と、お金を労働力に替えて、労働力をモノに替えて、再びお金を稼いでいる製造業や全産業の収益率がほぼ同等であることに気がついていただけるだろうか。

自由競争が行われた場合、完全競争市場下では他の業界の標準的な利益になるまで新規参入が絶えないので、収益率がほぼどの業界も均一になる。逆に、収益差が維持されているような業界には政府による競争障壁などが設定されているケースがある。

しかし、実際のところは産業種別ごとに資本回転率はことなるので景気動向など外部環境への官能速度は異なってくる。在庫のようなモノとして保持する業界、労働力を所有する業界とでは外部環境への調整スピードがかわってくるのだ。国の政策などにより大きく外部環境が変わると、その収益率には差がでてくる。

企業という富を保有する組織。資本社会では富の受け皿として重要な意味をもつようになった。
この企業のステークホルダーたる労働力を提供する従業員、資本を提供する株主、そして制約をあたえる国、地方自治体。この関係は個人の富の形成についてとても重要な意味をもつようになったのである。

奴隷と雇用

社畜や奴隷という表現は人によっては嫌悪感をもよおす過激な言葉かもしれない。なぜなら現代において、従業員の時間をお金で買いとるというのはまったくの合法であるからだ。

しかし、わずか数世代前、奴隷解放運動につとめたトマス・ジェファーソン大統領は600人を超す奴隷を所有していた。これは奴隷所有が彼が解放運動をするまえはまったくの合法であった時代があったからだ。アメリカの議会で女性の奴隷を鞭打つときに上半身を裸にさせるのは是か非かについて真面目な議論が繰り広げられていた時代はそんなに昔しではない。

ブラック企業だの社畜という言葉が既に生まれているように、個人を資本で購入し、時間拘束するのが100年後も合法であるとは限らない。

かつて水飲み百姓は、耕作地を耕しても庄屋さんに年貢 for Youであった。

現在、雇用されている従業員が職務中におこなった著作物は職務作成としてあつかわれるし、職務発明であればその発明から莫大な利益を生んだとしても個人に還元されるものは給与のみである。日本では白色ダイオードで揉めたため今後そのように法規制が強まる予定である。子門真人はおよげたいやきくんを買い取り契約であったため歌唱印税を得ていない。

これらの事実から鑑みるに、知財ではまだ墾田永年私財法以前であるともいえる。

つづく

ほぼ日でシリーズで書いてます。
次回は所得と格差あたりについて書こうかいな。
[財福主義]タグでまとめてます。

参考引用など

日本型社会主義
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9E%8B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9

三菱東京UFJ銀行 円預金金利
www.bk.mufg.jp/cdocs/list_j/kinri/yokin_kinri.htm

ピケティ 21世紀の資本論より

P377
イギリス 限嗣相続制(げんし)
フランス 代襲相続制
財産の断片化を避け、家族の富を維持、増大させる。

P148
図4-1 ドイツの資本
19世紀後半 1870年代 国民資本の価値約300%が農地由来

P166
新世界と旧世界 奴隷制の重要性
トマス・ジェファーソン 600人超の奴隷を所有
米国1770年 40万人 1860年 400万人超の奴隷 人口の40%
農地にはたいした価値がなかかったが、土地利用に必要な労働力も所有する

P217
富裕国の富は不動産と金融資産にほぼ均等に二分されている。
金融資産のほとんどは株、債権、投資信託、確定年金、年金基金などの長期金融契約である
無利息の当座預金は国民所得の10-20% 総資産の3-4%
普通預金も含めると30%超、総資産の5%
預金金利は資本の平均収益率によってあまり重要ではなくなる。
総国富を占める住居の賃料(持ち家により所有者が賃料を払わなくてすむのを選ぶ人も含む)5%相当
民間財産、不動産や金融商品への投資


第一夜 自然科学と経済の白熱教室


朽木とは徐々に腐るものであるが、崩れるのは突然である。

フランスの詩人はこういったという。
・・・たぶん。
まぁ、そんなような事を言ったやつもいただろう・・・。

だから、NHK のパリ白熱教室を見逃すのもいたしかたのない話しである。だってチャーリだもの(Je Suis Charlie、、黙祷)

経済と科学

経済を考えるときにいつも考えてしまうことがある。これはいったいなんであろうかと。

化学で言えば、溶液を混ぜあわせるのに割合、%だけで論じてコントロールしようとしているレベルに見える。
溶液AとBを30:70で混ぜてみよう! っと。溶液Aの濃度も定義されていなければ温度もわからない。かろうじて体積がわかる程度。それを割合や率だけで論じて、混ざった溶液を味見して「しょっぱすぎた!」だの、「薄めすぎた!」だのやっている。
なんだかよくわからないものが混じって「すっぱくなっちゃった!」とかパニックになっている。

経済は人間同士の営みであるのだから互いに緩衝しあう緩衝系溶液のようなものである。
反応をすすめたいと滴定をしてもしばらくは緩慢な反応しかしないが、当量点に達したとたん反応が一気にすすむ。化学的な単純なモデルですら非連続なのだが経済などの評価は連続的にすすむものとして扱われることが多い。だが実際は腐った木が倒れるように、自然では変化面は非連続となるほうが一般的なのだ。


中和滴定曲線
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%92%8C%E6%BB%B4%E5%AE%9A%E6%9B%B2%E7%B7%9A

結果からしか評価できない

経済活動なんてないような限界集落も、1キロ四方に6,200人以上を詰めこんだような都市もおどろいたことに同じ制度で運用がされている。率があてはめられ、ざっくりとした割合で論じられている。

生活様式も違えば生産様式も違う。だけれども出てきたものを同じ通貨で評価して、稼ぎに応じて%を変えたり、控除を設けたりして、そしてまたごちゃまぜにして分配したりしてなんとか均衡を保っている。

広大な大地がある北海道の土地と都内が十把一絡げに同じ税率になる。目的も中身も違うものを一律で、しかも割合で管理しようというのだ。なかなか豪胆なしくみをつくったものだ。修正修正を繰り返し職人技による運用でなんとか制度を維持している。

あぁ、で、やっぱりこれはなんだ?

エネルギー交換則とピケティの原則

ピケティがうたった原則はシンプルだ。

r > g (資本収益率 > 成長率)

という式、資本がもたらす利益は成長率を常に上回るというものである。

自然科学からすると、この式にすらなっていないように見えるなにかはきっと時間での積分を考慮する必要があるのだろう。確かにそのような仮定であれば格差は開く一方であるし彼が示したデータもそれは一定正しいように見える。

経済のいやなところは、物理学でいえばまだ第一法則の範囲内で”もちゃもちゃ”しているところだ。そのほとんどが等加速度的な単純なモデルを提示することで終わっている。ずっと利子と格闘していて%と指数だけが支配する世界にいる。
正か負のフィードバックがかかるかはすれ、なんらかの近似線に収斂するものと仮定される。そして循環、再帰する。

このような理路で物事を捉えると、坂道を下る車はずっと加速し続け、細胞分裂はとまらず、火がついた森は時間とともに火勢がましつづけ、温めた水は温度があがりつづけることになる。しかも循環するだって?

だが、実際は坂道を下る車はどこかでコースアウトするし、森林火災は燃える森がなくなったら鎮火し、水は沸騰して相がかわる。過去100年に一度も観測もされなかった現象は毎年のようにどこかしらで発生するものだし、白い鴉は居るものだ。(( ヘンペルのカラス ))そしてアキレスだって亀を追い抜くだろう。((ゼノンのパラドックス))

人工知能がディープラーニングにたどり着く手前でビッグデータパラドクスに捕まっているかのようだ。猫についてあらゆる特徴を定義していけばいつか猫を認知できるに違いないと細かいラベリングに苦心している。だが事象の観察から特徴量が多い部分を抽象化してラベル付けし、モデル化しただけでは定義同士の衝突がおきてしまうのだ。

そのやわっこい土台をもつ経済に、それをなんとかコントロールしようというさらによくわからない政治や政策が絡む。なんかもうちょっと悲惨な事態だ。

政策というやつは失敗しようものならすぐさま認知され非難されるが、上手くいったものについては注目されもしない。もっと言うと上手く回っているもことすら気がついてもらえないがために、そこに仕組みがあることに気がつくのも困難なのだ。

経済なるものは時間とともに変化し、ほんの少し予測をしただけで容易に結果に干渉してしまうやわっこいものだ。

再現性と客観性がないものは科学ではないという。
ん~、であるならば、経済とはやはり一体なんなのであろうか?

お金と相転移

お金を稼ぎたいのであればお金を使ってお金を稼ぐのが一番効率がいい。お金にお金を連れて帰ってきてもらうのだ。例えばお金を貸し付けて利子をもらうなどのやりかただ。(お金→お金)
流動性を落としてリスクを分散したいのならば株券などの有価証券をつかうのもよいだろう。国債に投資すれば不確実性は無視できるほど小さくできる。(お金→流動資産→お金)
流動性はさらに犠牲になるが不動産に投資することもできるだろう。(お金→固定資産→お金)
権利に投資するという方法もある。(お金→権利→お金)

では、お金を稼ぐのにモノをつくったり、サービスを提供したりするのはどうだろうか?(お金→人→労働→モノ→お金)(お金→人→サービス→お金)

これらには人の仕事が介在することで価値創造分が付与されるので、収益率からだけで投資効率を比較をすることはできないが、人がそこに労働価値を付与しなかったらどうなるかを想像してもらうだけで十分であろう。

お金を熱エネルギーとして考えれば、熱エネルギー交換則よろしくエネルギーの形が変わるごとに無駄が発生する。閉鎖されていない系ではエネルギーの完全交換は成立せず、永久機関が完成することはないからだ。

お金が人間の労働力にかわり、労働力がモノにかわり、物がお金になって再投資される。この相転移の過程でロスが発生する。仲介者や中間業者がはいればはいるほど効率は悪くなるのだ。

財産と労働資本

若い人は労働資本というものを持っている。
この労働資本というのは働けるという可能性のことだ。
労働資本は実際に労働をすることで資産と交換することができる。
交換された資産は貯めることができる。

やがて年をとって労働資本がなくなるころには人によって残酷な現実がありこそすれ資産が貯まっていることになる。その資産をつかって若い人に働いてもらうという連綿とした流れがある。

1872-1912年ごろの大戦以前のフランスでは裕福層は労働資本をつかうことなく、その資産の一部をわずかに再投資するだけで、労働者が労働資本から得る効率の100倍近い所得を得ていた。

この時代は労働資産をいくら積みあげても、g(労働資本の蓄積成長率)がr(資本収益率)を上回ることはなかった。

相場を動かせるほどのまとまった財があれば、その投資効率は極めて高く、一部を再投資して財をさらに増やすのが実に容易なことであるというのは歴史的にみても自明である。ピケティの資本論でも中心的にかかれていたが、何故そうなるのかについては、すこし内容がそれるので後述することとする。

しかし、これも大戦後崩壊する。財閥は解体され、累進課税がつくられ、不労所得生活者は事業所得者ほどの収益をあげることができなくなった。

資産で資産を稼ぐのは効率がよすぎるので、税金という%での負荷がかかる、お金同士の反応を制御する半透膜がつくられたのだ。

そして21世紀は大戦により吹き飛ばされた裸一貫の男たちが能力主義的希望に基づいた所得格差社会となった。

つづく

次は、能力主義的社畜についてでも書きます。

関連しそうな参考引用

(**16章33)
Google「利潤や給与よりも多くの富を社会に対して貢献しているのだから、われわれが税金をあまり払わないのも合理的なことだ」
企業や個人が製品の値段よりも大きな限界厚生を経済全体に貢献しているのであれば、税金は減るし補助金をもらってもいい。正の外部性。本当にしていると証明する根拠など提出していない。各個人が自分自身の税率を自分で決められるような社会を管理するのは容易ではない。

P385
ベル・エポック期パリ市民で最も裕福な1%は当時の平均賃金の80-100倍の資本所得を得ていた(1872-1912)
ごく一部を再投資して相続した富を増やせた。
大戦間で崩壊
次世代に平均賃金の30-40倍の資本所得をどうにか生み出す程度しか遺せなくなった
1930年代末期には平均賃金の20倍にまで減じ不労所得生活者にとってこれは終わりの兆しとなった

なるほどわからん。頭がカオス化する、気の遠くなるような10のパラドックス(論理的矛盾)の世界 : カラパイア
karapaia.livedoor.biz/archives/52182078.html


序論 盗人と資本主義


プロローグ?

「失礼しますよ。」

日本庭園に面した縁側から音もなくあがりこんできた男をみてギョっとする。
およそ料亭には似つかわしくないシルクハットに片眼鏡。
部屋の中の男達が反応もできずにいるうちに、狼藉者は帽子を外し席についた。

誰かいるか!と大声をあげども誰もはいってこない。
向かいに座る男も唾きを飛ばしながら何やら叫んでいるようであるが声が聴こえない。
大きな声が、まるで掻き消されるように口から出た途端に霧散する。

「お静かに、おやめなさいな。危害など加えませんよ。ちょっとお二方のお話しに混ぜてもらおうと思いましてね。呼ばれてはいないのですがお邪魔した次第です。なに、経済なるものについてお話しをしたいと思いましてね。」

狼藉者はよく磨かれた天然木一枚板の長机に人を殴り殺せそうな厚みがある本を置く。

「あなた方もその物騒な武器をおろしていただけますか?
そんな、三本の矢を同時につがえたって全部なんか飛びやしませんよ。
そちらのお方もバズーカーなんておやめください。お味方ごと吹き飛ばすおつもりですか。」

トマ・ピケティ LE CAPITAL 21世紀の資本

アメリカ人が書いたら数ページのエグゼクティブ・サマリーで終わりそうな内容をフランス人に説明させるからこういうことになる。700ページぐらいあったであろうか。ながら読みとはいえ正月三ヶ日だけは読み終わらず一週間ぐらいひらいていた。なかなか読み下すのに根性がいる本である。ようやく読み終わったと思ったら注釈のページが100ページ待っていた時はどうしてくれようかという気持ちが味わえるので是非君も読んでくれたまえよ。

この本がベストセラーになっていることは私にはにわかには信じられない。アメリカ人の好きな格差論に触れたからであろうか、面白い記述はいくつか見つけることはできたが、全体を通せばそれほど新しい知見でもない、ひたすら回りくどい。なにせ結論は表紙に、序論に書いてあるのだ。それについてご高説をたまわる形だ。

それと、日本語翻訳の版で読んだが運のつき「トップ百分位」という語が1頁中に10個ぐらい並ぶ。頁中のトップ百分位単語百分率でも算出しなければいけないのだろうかという使命感に襲われる。なにもフランス人のまわりくどい言い回しに付き合うこともあるまいて。「上位1%」とでもして、後は「あいつら」だとか「それ」とか言っておけばよいものを。

いや、なに、なんだ、そう結論を急くこともあるまい。フランス流のエスプリに習ってつれづれ綴ってみようではないか。きっとLE CAPITALを読み下した読者の方々ならこれくらいの回りくどさにもつきあってくれるに違いあるまいさ。

さて、この資本論が導こうとしていた結論を考えると、「資本のそれは成長のあれよりもでけぇから、なんじゃかんじゃ、ずっとその差は大きくなっていくよ」程度の事が書かれている。それに物理的な厚みと重量を持たせることで、説得力を獲得できるというリアリズムも同時に学ぶことができるだろう。なんだったら、「ちみは資本論は読んだかね?ふむふむ。」とスノッブな振る舞いをするのにもあの本の厚さは役立つのかもしれない。

だが、しかし、まことに残念なことにピケティさんは予想もしていなかったかもしれないが、この本が読まれている遥か極東2015年の日本なのだ。この国は世にも珍しい、資産のほうが預金よりも伸びるというピケッテイが出しているひとつの重要な結論 (( youtu.be/h7X_vbexeaY?t=12m48s )) が通じない経済圏なのだ。

2015年1月 住宅ローンフラット35 はとうとう1.47%となった。 (( www.flat35.com/ )) リスクフリーレートとも呼ばれるリスクの基準となる新発10年ものの日本国債の金利は応募者利回りで年0.254% (( www.mof.go.jp/jgbs/individual/kojinmuke/shinmadohan/issue/ten/h27/January.html ))
そして2014年日本の短期国債取引においてとうとうマイナス金利を記録した。わずか0.0018%であるがマイナスなのだ。言っている意味がわかるかい?国債の金利がマイナスなのだ。
(( www.nikkei.com/article/DGXLASGC30H0V_Q4A031C1EE8000/ ))
一体何がおこっているのだろうか? ピケッティの導いた結論と、まるでここは異次元ではないか。でもここは日本なのだ。この国から眺めたら資本論はどのように咀嚼できるだろうか?

すべてのカラスは黒いという命題に、いとも簡単に反例をあげることができてしまう国だからこそ真剣に考えなければならない。日本人から見れば、この日本でおきたことを無視して、舶来品の21世紀の資本論としてただご拝領いただいて喜んで終わりというわけにはいかないのだ。てやんでぇ、いきがけの駄賃だ、ってんで、おフランス流を噛み砕いて日本の味付けにしなきゃと思えたのである。

つづく

全X回にわたってほぼ日で書き綴ることにした
データ集めてちょっと真面目に書くよ!

[財福主義]タグで書いていきます(予定)