祖母が亡くなられた。享年102歳の大往生である。
100歳を越えてからは養護施設に入っていたのだが、亡くなられる直前まで夜勤のかたと普通に会話をしていて、夜の見回りの際に亡くなれているのを発見したそうだ。
深夜12時20分ごろ家の固定電話が鳴る。たまに深夜に変な宣伝FAXが紛れこんだりするのが、その日は留守電を残している気配があったので階下に降りて確認したら介護施設から。至急連絡を下さいとのことで折り返したところ、夜勤の方から上記を告げられた。
幸い極近所の施設なので一人深夜に駆けつけ応急対応させてもらった。医師の死亡確認や両親は明朝になってからの対応。深夜にあなたの親が死んだと叩き起こしても、寝不足の人間を増やすだけだ。
亡くなられる前日、37度代の発熱があり翌日には下がったと両親から聞いていたので、深夜の電話にも予感はあったのかもしれない。
最後のお世話をしてくださっていた夜勤の方によると、熱は下がったのだけれども、血圧は高い状態は続いていて、本人も食欲がないから夕飯はいらないよとなどと話していたそうだ。寝る間際にベッドをリクライニングから戻し、点滴のガイドベルトなどなどが緩んでいたのを自分で直されているぐらいには元気で、ほんとしっかりしていて・・・普段と変わりがなかったのになどと会話。多くのかたを見送られたであろう施設のかたにも動揺があった。最後まで丁寧に仕事をしてくださって感謝しかない。
家から出ることもなかった専業主婦。著名人でもないごく普通に生活をし、ただただ長生きした祖母。ここで私が書き記してでもおかないと誰が追悼文をあげてくれるわけでもなし、記憶とともに偲ぶことにする。
いっとき書道が趣味で、家にいくつか作品がある。
なんて書いてあるかは読めない・・・万葉集とかかな?
最晩年
施設でも最高齢の102歳だが、頭のほうはかなりしっかりしていた。
入所されている方は70歳代でも痴呆と見受けられるかたもいらっしゃり、人の老い方には様々だと知らせてくれる。身内贔屓かもしれないが、101歳ぐらいまでは歩行補助具だけで自分でトイレに一人で行けていたのは、普通にすごいなとおもう。
耳は遠く、ほぼ聞き取れていないなかったのではないか。
最初のうちは会話はなかなか成立しないのだが、やり取りしていくうちに意思疎通できるのは、本人の推測による補完なのかもしれない。認知能力はたいしたもので、ホームでは掛け算とか漢字の読みとかを答える問題などがリクリエーションとしてあったのだが、正直、漢字などは高校生でも読めない子が半分以上いるぐらいのレベルの問題をやっていた。お花の名前の漢字シリーズなぞ俺だって危うい。
連れ合いの祖父に先立たれてからは100歳まで一人暮らしができていたというのが、そもそも驚異的なのかもしれない (しっかりしていたため要介護認定がとれなかった) 。もちろん、訪問介護やデイケアなどを利用しつつではあるし、別棟ではあるが私の店というか小屋や家があるので、目が届く範囲であったというのはあるが、足腰が立たなくなり呆けてしまうと、こうはなかなかいかない。
祖父の最晩年も頭は比較的しっかりしていたが、だんだん歩けなくなったり、電子レンジの使い方がわからなくなってしまった・・・とか、尻もちをついたとき立ち上がりかたがわからなくなってしまったとか、本人が自覚しながら自分の体の機能がだんだん停止していく。そんな風に老いがすすんでいった。祖母の場合は最後まで認知はしっかりしていた。死ぬのを忘れているんじゃないかとか、このままのペースでいったら120ぐらいまで余裕なんじゃないかとか思ったりもしたが、そんなことはないわけで、胃腸が機能不全におちいり栄養吸収ができなるパターンでいっときは個室で看取り待機となっていた。まあ、持ち直したんでそっから8ヶ月ぐらいずっと看取り用の個室だったんだけど。さすがに100歳をすぎれば時間の問題ではあった。最後は心臓が鼓動を。もしくは肺が呼吸を忘れたんだと思う。死因には老衰と書かれていた。
私の直系尊属はみなさん長生きで、102、98と99、95かな?
長命種のエルフとかドワーフなんじゃないかと思う。さしずめ母型がエルフで父型がドワーフかな。手先器用系だからって冗談だけど。単に医療技術の高度化が甚だしいのだとおもう。そして戦中を生き抜いた人たちの逞しさよ。現代科学は遠からず不老ぐらいは実現するかもしれないが、それはそれで恐ろしい世界だ。ご長寿老の人達をみてきて、長生きの秘訣があるとすればストレスのない生活と、不健康から離れていたからの結果でしかない。ストレスだらけで不調を抱え、欲望に飲まれ、ただ生きながらえるだけならば、それはそれは本当に恐ろしいことだ。胃ろうとかの延命治療だけは絶対にしないでくれとは俺が申し使っている両親からの数すくない希望ではある。
個人像
名前を「さい」と言う。わたしがごく幼少の頃は「さいは何歳?」とか、そんな言葉あそびをしていたな。
栃木の生まれで、「い」が「え」になるので、もしかしたら親とかは「さえ」と呼んでいたのかもしれない。あるいは「い」ではなく、「ゑ」「ヱ」なのかもしれないが戸籍上は現代ひらがな。ちなみに祖父は「ひ」が「し」になる江戸っ子なので子供の頃は二人にいろんな言葉を言わせるのが面白くてしょうがなかった。
祖父とは見合い結婚。両親だかが決めた結婚で、目黒雅叙園でやった結婚式だか、その前日に初めてあったと聞いた。結婚式当時どのひとが旦那かわからなかったと婆さん談。昔しっぽい。
そう、ドワーフ。
かつて士農工商に身分制度が別れていた頃なら双方間違いなく職人系の家系で、祖父方は金細工、祖母方は人形師だったと記憶している。(確認したら正式には農家?)
多分だけど、手先の器用さとか幾何系理解には遺伝要素がそれなりにあって、そういう職能目的で昔の人はインブリードしてたんじゃないかと思う。幾何系に興味を持つのはスキゾイドパーソナリティ障害(社会的関係への関心の薄さ、感情の平板化、孤独を選ぶ傾向を特徴とする人格障害)などと現代では分類されたりするが、職人像とか職人気質がまんまあてはまるよね。アスペかスキゾイドみたいなのしかいない理系男子は恋愛とかに興味が薄いひとが多いので、放っておくとオタク趣味に走るだけで結婚とかに興味を持たないことも多い。だから親というか家が適当に結婚させちゃうっていうのは、まあ、ある点では昔ながらの知恵なのかもしれない。孤独が好きっていう配向性をパーソナリティ障害とか言われてもねぇ。恋愛至上とか経済至上とかと別の世界線に混ぜても肉食に狙われるだけだし不幸だとも思う。
まあそんなわけで、祖父も祖母も喧騒とか怒りとか諍いとか妬みとか嫉みとかそういう負の感情からは程遠い人たちだった。家を建て替えるときとかに祖父母達とも一緒に住んだこともあるのだが喧嘩とかしているのもみたことがない。にこにこと穏やか。感情が平板とかいわないで欲しいな。
二竿の和ダンスを背にこたつを横に2つ並べ、電気ポットを真ん中に挟んで、ちょっと高くした座椅子に横に並んで座る。祖父が向かって右側、祖母は左側。七福神が揃いで宝船に乗っかってるぐらいの福徳さ。じいちゃんが縁側で一人囲碁の棋譜を並べているときは、ばあちゃんはお茶を飲みながらただ穏やかに眺めてたな。
私が子供の頃からお年寄り然としていて、そして亡くなるまでおじいちゃんおばあちゃんだった。
祖母の弟が家を訪れたとき、この二人を評して「なんとも福徳」と言っていたが、まさに言うて妙だとおもった。さすが人形師は言うことが違う。
さてこの、大叔父が来たときが私にとってはほぼ唯一の祖母方の実家家業を祖母以外から聞く機会だった。
祖父の金細工の商売はモノがモノなのでどちらかというと皇族とか華族、国外の王族とかが相手だったので戦争を挟んで贅沢品と禁止され、戦中は手先の器用さのために軍需に駆り出され、戦後はあれもそれもGHQに禁止されと、細工技術としては断絶した。生き残りはやがて時計メーカーとかに纏まっていって活路を見出したと聞いている。電気とか半導体とかもか。逆に人形のほうはそのまま職能として残り、なんか私が子供の頃はテレビCMとかしていたようないくつかの人形メーカーに纏まったと聞いた。最近は少子化の関係で産業事態もうないかもしれない。ひな祭り人形とか五月人形とかまだ職人さん達つくっているのだろうか? 上野の東側に仏壇屋と並んで専門街があった気がするけど、買ったなんて話しは、あまり聞かなくなったね・・・。
大叔父も、その時は、文化財みたいなすごく古い人形を直すぐらいだなぁと言っていたが、そういう伝統技術もやがては失伝していく。息子さんも継いではおられないそうだ。その時こられていた大叔父のお子さんは、数学だかの学者になったとかそんな事をいっていた。旧姓でciniiとかでググってもでてこないし違うんじゃないかと思うんだけど。まあ、ここでは本題ではないので置いておく。
旧姓を調べたら、全国人数400人しかいないみたいたので伏せておかないとね。もっとポピュラーな名前だと思ってた。ちなみに現在の姓は約7000人だ。そりゃ氏族としてはうちは繁茂はしねぇわな・・・。絶滅しかねん。
・・・。
英語だったら出てくるかなと調べたらなんかいっぱいでてきた。音でしか聞いてなかったから漢字を間違えていたみたい。こっちの漢字だと1700人はいるみたいだ。栃木に多いみたいだし、こっちか。ググったらインタビューとかが出てきちゃうし、ちょっと立場のある人みたいなので文中の特定に結びつきそうなところは遡り削除しました。ああ、出てきた顔写真の目元とかばあちゃんに似てるな・・・。・・・。ホロリとする。
兄弟間では、頭しっかりしていうるちにと別れは済ませ没交渉にするようなことを言っていたので、これからどこまで訃報をまわすかは悩むところだが、連絡先がわからないと思っていたので有名人だと少し助かる。
うちの雛人形は、人形だけじゃなくて、藁にさしこんだ人形の首がいくつもあるなと子供心に不思議に思ってたんだ。三人官女とかのさらし首かな、おっかねぇなと。お金がなくて体が買えなかったのだろうか。とか。だけど、そういうじゃなくてばあちゃんの実家が人形師だったんだね。さらし首にどんな意味があるのかは聞いておけばよかったな。・・・。ちょっと調べてみたけど、人形師でも頭師ってやつなのかな??
栃木の実家では家の中の土間のようなところに小川が流れていて、そこに金魚とかが泳いでいたそうだ。橋のたもとかなとも思わなくもないが、事実だとしたら風流なもんだね。どんなものだったのか見てみたい。
水道がなかった時分は家の中に小川を引き込んでいたものなのだろうか?
なんか富山あたりには今でも炊事場用の共同利用の井戸端小屋があるのを見聞きしたことがあるが、寡聞にして家の中を小川が流れるなどという屋敷は聞いたことがない。湿気で建物が傷んでしまいそうだ。いや、それを寛容するぐらいのなにかこだわりがあったのだろうか? 思えば自分も店に木を生やしてるし血は争えないのかも。
祖母は水戸黄門の「ちゃんばら」すら怖くてみれないレベルの怖がりだった。
驚くほどの心配性。
だから祖父が亡くなるのが怖すぎて見舞いにいけず祖父も呆れていた。いよいよ臨終というときに家のすぐそばの病院に駆けつけようというときも、何も聞こえないふりをして、どん兵衛にお湯を足しだしたときは、さすがにそれに付き合って自分も死に目に立ち会えないのは嫌なので置き去りにしてしまった。ごめんなさい。
祖父が亡くなれてから数十分後、ばあちゃんが遠方から駆けつけた叔母に連れられて病院に来た。祖母はただ家の前で待っていたそうだ。ただ、ただ、心配で、怖かったのだと思う。
召集令状の赤紙を片手に走って爺ちゃんを迎えに行った話しや、息子を栄養失調で殺す気かと医者から怒られ自分の実家に疎開させた話しなどは何度も聞いた。もしかしたらそういう経験が死に対する激しいトラウマになっていたのかもしれない。だけどもう何も心配はいらない。しっかりものの爺ちゃんもそばにいるはずだ。なんの心配もいらない。
この1年はコロナの影響もあり、ほとんど面会をすることもままならない状況であった。
面会にも予約が必要で、最大で1家族で2週間に1度という制限。面会も玄関のガラス越しにタブレットで最大15分のみ通話会話。亡くなれた翌朝も施設に行ったのだが、多くの家族が面会時間のため建物の外に列をつくっていた。
養護施設はどこも入ったら最後、認知症の老人がどこかにいかないような造りになっている。エレベーターのボタンを同時押ししなきゃいけないとか、下駄箱の中のひとつに文字ボタンがあって決められた順番でおさないと自動ドアが開かないとか脱出が困難なつくりになっている。だが、コロナ下ではそれに加えて入るのも困難な建物になっていた。ほんの気軽な訪問が多くの老人の命を奪いかねないのだから致し方がない。
うちからも近い施設だったので、1~2週間にいっぺんぐらい出荷のついでにちょっと足を伸ばして顔を見にいっていたのだが、この一年は数ヶ月に1度程度の頻度となっていた。ばあちゃんが事態を理解していたかはわからないが、さみしかったことと思う。
生前は、お正月の面会が最後か。緊急事態宣言がでていたので、ガラス、マイク越しの面会。 俺が生まれる前に閉店した祖父母がやっていた時計屋があるのだが、それを改修して、開けるねって話しをした。太宰治なども来ていたお店なのだが、シャッターを閉めたまま当時のまま数十年。だが家主が不在の1~2年で建物は人が住んでいないと途端に痛むのだということをまざまざ思い知らされた。風はときどきは通してはいたんだけどね。
ばあちゃんはできあがったら写真を撮って見せてねと言っていた。
間に合わなかった。見せられなくてごめんなさい。
その何回か前の面会のときは、俺が生まれた子供を紹介してくれた夢をみたと言っていた。 見せられなくてごめんな。
ばあちゃんのことだからあらゆることが心配だったに違いない。
だけれども何の心配もいらない。生きている人たちでなんとかするよ。心配しないで。だだ、すれば。