住所正規化問題は住所地獄の一丁目


前回のつづき。
どこまでが町名でどこが番地名だ、みたいな、住所正規化の問題。
そんなものはコンバーターの精度を競うまでもなく、住所問題を扱うときには実はさしたる問題ではない。

半角カタカナを全角ひらがなに変化できる程度のDX人材がいないと駄目だとか、なければ人員と努力忍耐根性が必要だとか、まあいろいろあるけれども、前回書いたような基礎自治体、町名ぐらいまでの問題のほとんどは郵便番号辞書で解決することができるからだ。

パソコンなどの日本語入力IMEの郵便番号辞書をONにしていれば、郵便番号の数字をいれるだけで住所に変換することができる。

新たに作ったシステム導入の説明ついでに、日本語入力IMEに郵便番号辞書をONにするやり方を教えてあげたら、それが一番喜ばれたなんていう悲しい体験があるほど郵便番号辞書の利用はDX化においてまずなされるべきことだと思う。


だから、そんなものは住所問題地獄の一丁目でしかない。
なにせ郵便番号辞書という「正解」があるのだからそれにぶつければよいだけの問題だからだ。

ふたとおりの正しい住所

というわけで、地獄の二丁目の門をくぐろう。

日本の住所には、本籍地などで使われる「法務局(登記所)が定めた住所」と、郵便物などでつかわれる「住居表示に関する法律」により定められたふたとおりの住所というものがある。土地登記地獄のフタもあるのでこれも盛大に不満をぶちまけたいが、ここでは触れない。

◯丁目◯番地◯号みたいなのは、住居表示実施適用済みの住所。
昭和37年より前は、地番が住所として使われていた。当時は家も人口少なかったから地域名に連番を振るだけで住所が管理できた。昭和中期のベビーブーム、人口爆発により、ひとつの土地に複数家族が住み始め、連番の途中に新たに家が立ち、アパートが立ち、ビルが立ち、そして、地名+連番+枝番による住所管理は破綻を迎えた。

いまの23区は東京市で、都は東京府で三鷹が村だったり町だったりした頃から現役の表札。地番表示。

昭和37年、住居表示に関する法律が制定された。
1962年の法律なら、もういい加減一律悉皆に適用されていそうだが、実はそうでもない。

田舎などは古い地番がそのままつかっていたり、北海道みたいな非人口密集地だと、無番地みたいなエリアも多い。まあそれくらいは、実務の用であるので使いやすいほうを選択しても問題はない気もする。

だが、実際は人口が多く入れ替わりが多い新宿区ですらまだ未実施地区はこんなにもあるのだ。

東側の青紫の色のところが未実施地区

新宿区住居表示実施図(PDF)
www.city.shinjuku.lg.jp/content/000280624.pdf

新宿だよ?
乗降車人数が世界最多の一日に350万人の新宿駅を擁する新宿区がだよ?
昭和37年の住所改正すらまだ途中なのよ。
しかも厄介なことに、住居表示実施適用済みでも古い地番の住所を使う人もいる。

新宿区からの注文で、住所が新宿区**町3番みたいな。
あー、書き漏れかな? 新宿みたいな人口多い地域でこれじゃ届かないだろと確認の問い合わせしたら、「うちはずっとこれで届いてきたから」と。
あえてそれを使う側にもこだわりもある。戦争で焼けなかった地域には残されたもののプライドも継いでいるわけさ。

郵便番号の地獄

古い番地が残る新宿の東側とは逆に、新宿区の西側、都庁がある超高層ビル群に変貌したエリアは、ひとつのビルに数百の会社、数千人がすし詰まっているので、ひとつのビルにいくつも郵便番号があったり、排他的論理和みたいな「次のビルを除く」表記になっていたりしてさらに混迷の様相をみせる。

丸の内とか、西新宿とかはこんなんばっかりだ。

〒163-0701 西新宿小田急第一生命ビル(1階)
〒163-0702 西新宿小田急第一生命ビル(2階)

フロアごとに郵便番号が異なる。
郵便番号データを信じすぎるとこういうデータとも戦わなければいけない。

郵便番号辞書を信頼しなければ始まらないが、信用してしまってはだめなのだ。

郵便番号が一つのエリアにユニークに紐づいていれば問題は少なかったのかもしれないが、現実はそれを許してはくれない。同じ町名なのに、郵便番号が分かれることもあれば、一つの郵便番号にも複数の異なる町名がぶら下がるなんてこともある。

厄介なことに、例えば「山田町」と「山田」みたいに似ているけれども非なるものが同じ郵便番号にぶら下がっていることも結構な出現頻度であるのだ。

拗音促音濁点半濁点地獄

オフコンや汎用機の時代に作られたシステムでは、小さい「ぁぃぅぇぉ」や「゛」「゜」が現在のシステムの扱いのそれとは異なることがある。顕著なのが自治体や郵便局、銀行など、80年代、90年代、システム化が早かった界隈だ。ATMなど制限された平面に物理の文字ボタンの入力に対応していたため、濁点などを含んだすべての読み仮名のボタンを配置することができなかったのだ。

うちは紅茶の茶葉さんなので会社名に「茶屋」という漢字が入る。
自分はこれを「ちゃや」のつもりでつけたのだけど、銀行口座をつくるときちょっとした手違いでふりがなが「ぢゃや」になってしまった。
日本郵便などは促音にも対応していない銀行の場合は、小さい「ャ」がなく、「ヂ」が「チ」+「゛」で表現される。つまり「ヂャヤ」は「チ゛ヤヤ」となるわけだ。

システム上(文字コード上も)、「ヂ」と「チ゛」はまったく別のものなのでこれを同じものと見做すためには、同じものですよと変換してやるか、それらを同じものとしてつないで定義してやらなければ検索することもできない。だから、システム化するときに「チ゛」は「ヂ」にしてデータベースに格納することにしよう。そんな風にして、全銀聯などはデータベース連携をすすめたのだろう。

なるほど、システムの更新や仕様策定のときにそう変換するルールを決めることは大切だ。
では、「ア゛」と入力された場合は?
そして運用をはじめて具体的な例外が次々に出てきて頭を抱えることになるのである。

「チ゛ヤヤ」と登録してしまったデータから「ヂャヤ」を復号することはできないのだ。
かくして「チ゛ヤヤ」のデータも正しいものとして生存し続けることになるわけだ。

タレントの中川翔子さんは、薔子(しょうこ)で命名しようとしたが「薔」が常用漢字でないために登録できず、しかも、促音の「ょ」が「よ」になってしまい本名「しようこ」で戸籍登録されてしまったそうである。あ、ご結婚おめでとうございます!

そんな感じに、名前は役所届け出のときに使えない漢字だの、つかえない読みだのと拒否されシステムにあわせて、担当者の胸先三寸で運用され、そして「正しい」データが増えていくのである。

法務局の屋号はチャヤになったのに銀行はヂヤヤだ。果たして我が社の正しい読み方とはなんぞや?

住所には宛名も含むので当然だが、同じような問題が住所にもおこる。

日本郵便の郵便番号辞書CSVのダウンロードページに行くと面白いものが今でも見れる。
読み仮名データの促音・拗音を小書きで表記しないものと、小書きで表記するものがある。
例:ホツカイドウ
例:ホッカイドウ

何故2023年にもなって「ホツカイドウ」のデータを残しておく必要があるのか?
名寄して変換できるじゃないか!というモノのみ石を投げよ。
マサカリが投げ返されることであろうぞ。

このペースで書いていくとあと2回ぶんぐらい続きそう。

他参考

IMIコンポーネントツール
info.gbiz.go.jp/tools/imi_tools/

(前回の投稿)明るい日本の住所表記に安心してくださいはできますか
kuippa.com/blog/?p=2228


映画「来る」と祓いとか流行り病


映画「来る」の、柴田理恵がめっさかっこいいとか岡田准一の殴られの体捌きが相変わらずすごいとか、宗教習俗の人が監修がすげぇとかツイッターで話題になっていたのでAmazon Primeで見た。 なるほど細かすぎて伝わらない宗教監修w

特撮ヒーローものっぽしや

前半の人間ドラマパートは苦手な感じだけど後半の怒涛の展開がかっこいい。 なんかこの感じ子供のとき見てた特撮ヒーローものぽさがある。ウルトラマンまだかなみたいな。
宗教版シン・ゴジラだの、宗教版アベンジャーズゆーてはる人がいましたが、言うて妙。 ドラマパートで鬱積ためてからのカタルシスかや。
いやしかし、各地の宗教精鋭返り討ちってどんだけ荒御魂ってんだろう、これ。 これを超す重要案件なんてあるかえ。いや、祓うのを諦めちゃえばこれはそれほど害はないやつなのかな?

宗教と用

宗教の主な役割には、人が集まる場、価値観の共有、情報の伝達がある。
いや、この3つは今、適当に考えた。

キリスト教圏では90%は自分は信仰を持っていると答えるが実際に教会に通うのは5%。日本人は宗教をもってると答えるひとは5%しかいないが90%はなんらかの宗教行為をおこなっている・・・みたいな話しをどこかで聞きかじった。たぶんイザベラバードの日本紀行あたり。生活の一部になりすぎていて、それが宗教的な行為だと認識していないのだそうだ。

自分も宗教建築とか民俗学的なものは好きなんだけど、科学に基礎足をおいちゃってるのでどうしても、神性とか霊とか怪異とかそんなのを信じるとか信じないとかよりも、なぜそう思うんだろうとか、どうして習慣化されたんだろうみたいな事のほうに興味がむいてしまう。土着の祭りや奇祭は本当にいろいろあるが、なぜそんな風習が生まれ、かつ、継承することができたのか不思議でならない。

たとえば神社で祭壇に供物を供えるのはなんでだろうとか考えたことはあるだろうか。 神仏分離の前、神社は稲の苗とかを育てて農民にわたす種苗業者の役割をしていたという。
作物を神饌として集めその後みんなで食す直会(なおらい)なんか、まんま一度集めて選り分けて翌年の植えるものを決める作物の品評会からの品種改良のプロセス。これはこう食べるとか、誰々ん家の作物が美味いからわけてもらおうとか、育てたものを地域で一同で知識や体験として共有する。そして、毎年冷害だったり日照りだったりで不作になっても作物を選りすぐって供える。供えたあとはシェアする。結果、その風土にあった育種がなされる。

鳥居なんかはなおによし。いかにも在来工法技術の粋であろう。
ものによっては掘立てや礎石の上に建てた2本の柱の上にホゾを彫った梁をのせ、ヌキを通し、クサビをうつ。漆をぬりたるものもあるし、屋根をふくものまである。大工技術の見本市やーーっ!!

ふた柱で永年自立する構造物を建てられるなら、その技術を用いて建てた家はより堅牢なものになろう。 壁や屋根を葺いた後では構造体は見えなくなるが、鳥居は自立構造物としては簡素にして至高。

ここらへん、具体的には国譲り神話のあたり、出雲渡来系と、諏訪縄文系の礎石と竪穴の建築技術の文化の衝突だみたいなこともあるのだけど、・・・話しがそれるのでそれはまた今度。

鳥居は神域との境界だなんて理由付けがあったりするが、交通が不発達だった時代は、雨ざらしの構造体である鳥居を見れば、そのエリアの建築技術水準やそれの財政状況、趨勢がわかるわけで、まさに文明の境界域だったのだろう。

キリスト教でも12使徒で判明している職業は石切(大工)と漁師だ。
石積みの構造物の場合は、2×4工法もそうだが、こちらは壁が全体を支える構造物になる。だから教会系は壁とアーチ構造が見てて楽しい。石積みの壁に窓枠の支えなしに窓穴をあける。窓穴が先でステンドグラスは後。そういう視点でみると世界の構造物はいろいろわくわくすっぞ! ・・・めっちゃ話しがそれた。

ま、そんな感じで、修験道だったらソバの打ち方とかを伝承して山でサバイブする方法を教えるよ、とか、そういう具体的で実用的な用がどんな宗教でもそここに隠れていたりする。

忌みの意味

宗教がただのメンタルヘルス的なものに成り下がったのは大量生産時代だからだろうか。 生産技術の革命的進歩で形骸化してそれが伝える用の本質が失伝しつつあるのも背景にあるのかもしれない。

仏教が伝える大事な要素に遺骸のケアがあるとおもう。かつてまだ土葬の時代、ほにゃらら回忌で墓を掘り起こすタイミングを伝え、お骨として纏めていたりとか、そういうナレッジの塊だった。通夜で親族が不寝の番をするのも、死亡診断技術がなかったからだ。

亡くなった方の家族は49日喪に付すのも死因が判別しなかった時代の、感染症をそこの家族内で留めるためStay Home策に他ならないのではないかと思う。

除菌と禊

「使えるもんはなんでも使う」っていうんで一時期ネットで話題にもなってた「ファブリーズ除霊」を一生懸命岡田准一がシュッシュしているのをみて、ふふふってなった。「びっくりするほどユートピア」がなかったのはそれを入れるととたんにお笑いになっちゃうからだろうか。

12モンキーズは、バイオテロを背景にしたSF映画であるが、目に見えないウイルスや病原菌を信じられず「そんなものは石鹸屋の陰謀だ!」というセリフがあった。同じようなセリフをつい最近ブラジル大統領が言っていてヒックリ返った。台風なので「田んぼの様子をみてくる」ぐらいのフラグ発言である。

新型コロナウイルスの対応策や、ホラー映画の登場人物たちの行動をみていると、なぜそこでそんな判断をするのか、なぜそんな行動をするのかと突っ込みたくなる行為が多い。状況や情報が違えば判断も異なろう。傍目八目。FPSでは見えない視点というのもあるもんだ。

昔しから不思議なのだが、テレビが映ることや、携帯で話しをできることには恐怖を感じないのに、おばけとなると途端に怖がる人がいるのはなぜなのだろうか。霊的なものを怖がる人にテレビの仕組みを理解している人が多いとは正直おもえない。いや、そうか、だから霊能者がもてはやされるのか。いや、ならなぜエンジニアがもてはやされぬのだ。解せぬ。

目に見えぬものも存在する。
幽霊粒子ニュートリノの存在証明はそれこそ雲を掴むよりも難しい。
知覚できない範囲での匂い。恐怖を感じたときに分泌されるホルモン。例えばそれはほんのわずかな分泌物であるが、そこに残存する。
重力異常地点とか、異常磁場、地下水脈により流れる水により発生する異常磁場とか、もしくは、そこからおきる低周波。どれも人間の認知知覚系に異常をもたらすのは十分だ。植物毒や目に見えぬ真菌系(カビ)の毒、そして菌毒、ウイルスなどの生物毒は枚挙にいとまがない。そして、完全無音や完全無菌それがまったくないことで生ずる弊害すらある。

古い伝統宗教もこれらをよく理解している。
幻覚系成分を含む植物を火にくべる護摩や、読経や真言(マントラ)でトランス状態に持っていくようなもの、火渡りや滝行のようなドーパミンや肉体刺激系など。など。

日本酒は麹菌ででんぷんを糖化したのち、その糖を酵母菌で発酵させ、さらにはそれを火入れするという世界的にも珍しいステップを踏むお酒である。たしかこの3つを1フローでやるのは日本酒だけだったとおもう。
この日本酒、麹菌の発見まで糖化は人間の唾液に含まれる酵素でおこなっていた。口噛み酒。

日本は醸造発酵食品が幾多幾百あり、目に見えない有用微生物群の扱いには成熟していると言っていい。 そして、それらの働きを妨げる生物学的汚濁、コンタミネーションも非常によく理解していた。

腐敗と醸造、腐敗と発酵、その違いをもたらすものが穢れで、穢れを祓うためには禊で綺麗にしなければならない。コンタミを避けなければならない現代のバイオハザードと基本的考え方は一緒である。作法とは手順の再現で、現象の再現の積み上げがエンジニアリングである。現象の理解とは別のものだ。

神社の参拝儀礼に手水場での手洗い口漱ぎがあるが、外(外界)から来たら、手洗いうがいをする文化はこうして二千年前から広められていた。なぜこれができたかと言えば、崇神天皇(第10代天皇)の頃に疫病が流行ったために造らせたからである。

センメルヴェイス・イグナーツが手洗いの重要さを産婦人科医に説いて回ったのはわずか100年程前であるが、パスツールがその理屈を発見するまえに、理屈はわからないけど何故か使いこなしていたのが伝統の収斂に耐えた作法なのである。理屈はわからないけど効果があるものはおまじないとして残ることがある。
お辞儀やブルカ(ヒジャブ)といった、ソーシャルディスタンシングの解決方法はもしかしたら既に世の中のどこかにあるのかもしれない。

ウイルスは紫外線で壊れる。新型コロナウイルスの場合は太陽光で1分半で不活化する。 Dead by Daylight、それは陽の光で死ぬである。

鶏鳴三声、かぁーーけぇーーーこぉーーーー

ところで、芋虫の種類がわからなくてモヤモヤしています。
あれ、なんの芋虫?


日本文化と感染症


海外で新型コロナウイルスの感染症対策として、「挨拶としての握手、ハグやキスもやめよう。」という周知がなされている。

握手をしない、ハグやキスをしない。
それって元来の日本風ですよね。
握手ではなくお辞儀をする。
おそらくだけれども、お辞儀が挨拶の主流のアジア圏は過去にひどい感染症が流行ったのではないか。

動物が行うキスやハグは相手との細菌交換の助けになるので、結果として免疫をあげることに寄与する。 類人猿などのコミュニティがそうするように、生まれたばかりの赤子が免疫を獲得するために母子がそうするように、本来はこちらが自然な形なのだろう。
だが、なぜかフィジカルコンタクトをしない文化圏が生まれる。

類人猿はもともとはお酒を分解する酵素をもっている。
果物などの糖を含むものが腐る(発酵する)と酒、そして、酢になるので、冬場の食物が少ない時代を生き抜けるように、もともとはアルコールを分解する能力があるのだ。

アルコール中毒にみられるように、脳みそも糖で動く回路と酢酸回路がある。飢餓状態になると、酢酸回路に切り替わりなかなかもとに戻せなくなるのだ。

だがアジア人の大半はウワバミと呼ばれる人以外はお酒に酔うし、そして何割かは下戸だ。アルコールをアルデヒドに分解できず、またアルデヒドを酢酸に分解する酵素を生成する能力もたないない。

長江周辺で米作りと伴に分岐したと思われるこれらの人類グループはある種の熱帯域特有の感染症を本来は毒物でしかなかったアルデヒド(二日酔いで頭ががんがんするあれね)を利用して、防いだのではないかと言われている。

ここで日本の文化を振り返ってみる。
お米によって作られる、お酒、日本酒というのは酒造りのなかでもかなり特殊な製造方法によってつくられる。
でんぷんを糖化する過程と、糖をアルコールに醸造する過程、さらにはできあがったアルコールに火入れして発酵を止めるなどの工程がある。これら3つがひとつの醸造の過程でおこなわれるのは日本酒だけだという。ちょっと不正確。わすれた。

でんぷんを糖に分解することは、麹菌をみつけるまでは人間の唾液に含まれる酵素を利用しおこなってきた。(口噛み酒)
酒、酢、そのほかにも味噌、醤油、納豆、糠味噌、粕漬け、鰹節をつくるためにカビを利用するなど、日本はこれら微生物を利用した発酵については、いまでも世界に類を見ない多様性をもった文化圏である。詳しくは「もやしもん」でも読んで。

酒造り杜氏はお酒づくりの期間は納豆を食べられないという。
体についた納豆菌が麹菌に勝ってしまって、お酒にならないのだそうな。
菌をいじる界隈にはコンタミネーションという言葉がある。目的の菌以外による汚染のことで、酒造りもコンタミをしてしまうとお米もお酒にはならずただ腐るだけになってしまう。

日本には防疫の概念がないというが、醸造や発酵で目に見えない世界があることを知っていた日本人は、それについての振る舞いをいくつもつくった。

人間は古い時代から病気になってきた。
外的理由によってその原因を類型すると、寄生虫によるもの、カビなどによるもの、病原菌によるもの、ウイルスによるものがあげられる。

穢(けがれ)とはつまるところコンタミだ。ウイルス感染。宿主がウイルスに侵された場合、生物汚濁状態になり、その穢れは伝染る。 ヒトヒト感染する病気の場合は穢が再生産されることと同義だ。

これを防ぐには禊(みそぎ)、水浴により身を清めることだが、まあ、綺麗にしなればならない。
寄生虫であれば煙であぶったり、日に当てて紫外線にさらしたり、火で清めたり、髪の毛をエアシャワーで払うように、大幣で祓ったり、まあ様々あるけれども、やり方さえ間違えなければ現代の化学でも似たようなことをやる。

忌み(いみ)というものは、「死・産・血などの汚れに触れた人が一定期間、神の祀(まつ)りや他人から遠ざかること」ということになっているが、まあ、ていのよい隔離だ。忌みの人は人混みにいくんじゃねぇよと。公共交通機関の利用は控えてくださいみたいなことだ。

現代でも監察医はもっとも未知の感染症にかかりやすい職業であるが、専門教育も専門知識もなかった時代はなにやら伝染る目に見えないものは、人から遠ざけて隔離するよりなかった。

動物の死骸、皮なめしなどをするひとが差別された時代があるが、衛生環境がよくなかった時代では、動物の死骸から寄生虫だけでなく、肝炎ウイルスやその他の病因源となった。専業従事者は低暴露をうけているのでいずれかの段階で抗体をもち無症状であるが、これが抗体をもたない人と接触してしまうと劇症化してしまうことがある。
知識もなかった時代の人たちが隔離というわかりやすい策で身を守るのも、まあ、やむないことだ。それが現代まで続くのは違うとおもうが。

神道ばかりをみたが、仏教はこれら死についてはもっと踏み込んでノウハウがあるようにみえる。坊主が来ている袈裟はウコン染めだが、うこん染めは殺菌効果ばつぐんだ。

死体処理についての、ノウハウの塊といっていい。
初七日や49日、回忌など、火葬の前の土葬の時代は、埋めた死体を掘り起こして、お骨にして再埋葬するなどという手間が必要であった。ここらへんも踏み込んだら多分すごいおもしろいんだろうけど文字数とおれの知識不足。

やがて末法の世ということで、なんでそうやっているのかもわからず様式だけを真似る世になる。

烏帽子をかぶり頭髪をみせないのが最低限のマナーであった時代がかつての日本にあったように、やがてマスクをせずに唇を見せたりすることが激しく礼儀違反とされる時代がくるかもしれない。

家に入る前にスギ花粉を落とすように、肩を払うのがそのうち儀礼様式化する時代がくるかもしれない。

あ、そうそう、ちょっと計算してみたところ、スギ花粉ひとつにはコロナウイルスが2700万個ほど入るようだ。スギ花粉でひーひーいってるひとたちがマスクで立ち向かう姿は勇ましい、まあなんだ、そんなヒステリックにならずに。喧伝におどらされないようにしてね。