第一夜 自然科学と経済の白熱教室


朽木とは徐々に腐るものであるが、崩れるのは突然である。

フランスの詩人はこういったという。
・・・たぶん。
まぁ、そんなような事を言ったやつもいただろう・・・。

だから、NHK のパリ白熱教室を見逃すのもいたしかたのない話しである。だってチャーリだもの(Je Suis Charlie、、黙祷)

経済と科学

経済を考えるときにいつも考えてしまうことがある。これはいったいなんであろうかと。

化学で言えば、溶液を混ぜあわせるのに割合、%だけで論じてコントロールしようとしているレベルに見える。
溶液AとBを30:70で混ぜてみよう! っと。溶液Aの濃度も定義されていなければ温度もわからない。かろうじて体積がわかる程度。それを割合や率だけで論じて、混ざった溶液を味見して「しょっぱすぎた!」だの、「薄めすぎた!」だのやっている。
なんだかよくわからないものが混じって「すっぱくなっちゃった!」とかパニックになっている。

経済は人間同士の営みであるのだから互いに緩衝しあう緩衝系溶液のようなものである。
反応をすすめたいと滴定をしてもしばらくは緩慢な反応しかしないが、当量点に達したとたん反応が一気にすすむ。化学的な単純なモデルですら非連続なのだが経済などの評価は連続的にすすむものとして扱われることが多い。だが実際は腐った木が倒れるように、自然では変化面は非連続となるほうが一般的なのだ。


中和滴定曲線
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%92%8C%E6%BB%B4%E5%AE%9A%E6%9B%B2%E7%B7%9A

結果からしか評価できない

経済活動なんてないような限界集落も、1キロ四方に6,200人以上を詰めこんだような都市もおどろいたことに同じ制度で運用がされている。率があてはめられ、ざっくりとした割合で論じられている。

生活様式も違えば生産様式も違う。だけれども出てきたものを同じ通貨で評価して、稼ぎに応じて%を変えたり、控除を設けたりして、そしてまたごちゃまぜにして分配したりしてなんとか均衡を保っている。

広大な大地がある北海道の土地と都内が十把一絡げに同じ税率になる。目的も中身も違うものを一律で、しかも割合で管理しようというのだ。なかなか豪胆なしくみをつくったものだ。修正修正を繰り返し職人技による運用でなんとか制度を維持している。

あぁ、で、やっぱりこれはなんだ?

エネルギー交換則とピケティの原則

ピケティがうたった原則はシンプルだ。

r > g (資本収益率 > 成長率)

という式、資本がもたらす利益は成長率を常に上回るというものである。

自然科学からすると、この式にすらなっていないように見えるなにかはきっと時間での積分を考慮する必要があるのだろう。確かにそのような仮定であれば格差は開く一方であるし彼が示したデータもそれは一定正しいように見える。

経済のいやなところは、物理学でいえばまだ第一法則の範囲内で”もちゃもちゃ”しているところだ。そのほとんどが等加速度的な単純なモデルを提示することで終わっている。ずっと利子と格闘していて%と指数だけが支配する世界にいる。
正か負のフィードバックがかかるかはすれ、なんらかの近似線に収斂するものと仮定される。そして循環、再帰する。

このような理路で物事を捉えると、坂道を下る車はずっと加速し続け、細胞分裂はとまらず、火がついた森は時間とともに火勢がましつづけ、温めた水は温度があがりつづけることになる。しかも循環するだって?

だが、実際は坂道を下る車はどこかでコースアウトするし、森林火災は燃える森がなくなったら鎮火し、水は沸騰して相がかわる。過去100年に一度も観測もされなかった現象は毎年のようにどこかしらで発生するものだし、白い鴉は居るものだ。(( ヘンペルのカラス ))そしてアキレスだって亀を追い抜くだろう。((ゼノンのパラドックス))

人工知能がディープラーニングにたどり着く手前でビッグデータパラドクスに捕まっているかのようだ。猫についてあらゆる特徴を定義していけばいつか猫を認知できるに違いないと細かいラベリングに苦心している。だが事象の観察から特徴量が多い部分を抽象化してラベル付けし、モデル化しただけでは定義同士の衝突がおきてしまうのだ。

そのやわっこい土台をもつ経済に、それをなんとかコントロールしようというさらによくわからない政治や政策が絡む。なんかもうちょっと悲惨な事態だ。

政策というやつは失敗しようものならすぐさま認知され非難されるが、上手くいったものについては注目されもしない。もっと言うと上手く回っているもことすら気がついてもらえないがために、そこに仕組みがあることに気がつくのも困難なのだ。

経済なるものは時間とともに変化し、ほんの少し予測をしただけで容易に結果に干渉してしまうやわっこいものだ。

再現性と客観性がないものは科学ではないという。
ん~、であるならば、経済とはやはり一体なんなのであろうか?

お金と相転移

お金を稼ぎたいのであればお金を使ってお金を稼ぐのが一番効率がいい。お金にお金を連れて帰ってきてもらうのだ。例えばお金を貸し付けて利子をもらうなどのやりかただ。(お金→お金)
流動性を落としてリスクを分散したいのならば株券などの有価証券をつかうのもよいだろう。国債に投資すれば不確実性は無視できるほど小さくできる。(お金→流動資産→お金)
流動性はさらに犠牲になるが不動産に投資することもできるだろう。(お金→固定資産→お金)
権利に投資するという方法もある。(お金→権利→お金)

では、お金を稼ぐのにモノをつくったり、サービスを提供したりするのはどうだろうか?(お金→人→労働→モノ→お金)(お金→人→サービス→お金)

これらには人の仕事が介在することで価値創造分が付与されるので、収益率からだけで投資効率を比較をすることはできないが、人がそこに労働価値を付与しなかったらどうなるかを想像してもらうだけで十分であろう。

お金を熱エネルギーとして考えれば、熱エネルギー交換則よろしくエネルギーの形が変わるごとに無駄が発生する。閉鎖されていない系ではエネルギーの完全交換は成立せず、永久機関が完成することはないからだ。

お金が人間の労働力にかわり、労働力がモノにかわり、物がお金になって再投資される。この相転移の過程でロスが発生する。仲介者や中間業者がはいればはいるほど効率は悪くなるのだ。

財産と労働資本

若い人は労働資本というものを持っている。
この労働資本というのは働けるという可能性のことだ。
労働資本は実際に労働をすることで資産と交換することができる。
交換された資産は貯めることができる。

やがて年をとって労働資本がなくなるころには人によって残酷な現実がありこそすれ資産が貯まっていることになる。その資産をつかって若い人に働いてもらうという連綿とした流れがある。

1872-1912年ごろの大戦以前のフランスでは裕福層は労働資本をつかうことなく、その資産の一部をわずかに再投資するだけで、労働者が労働資本から得る効率の100倍近い所得を得ていた。

この時代は労働資産をいくら積みあげても、g(労働資本の蓄積成長率)がr(資本収益率)を上回ることはなかった。

相場を動かせるほどのまとまった財があれば、その投資効率は極めて高く、一部を再投資して財をさらに増やすのが実に容易なことであるというのは歴史的にみても自明である。ピケティの資本論でも中心的にかかれていたが、何故そうなるのかについては、すこし内容がそれるので後述することとする。

しかし、これも大戦後崩壊する。財閥は解体され、累進課税がつくられ、不労所得生活者は事業所得者ほどの収益をあげることができなくなった。

資産で資産を稼ぐのは効率がよすぎるので、税金という%での負荷がかかる、お金同士の反応を制御する半透膜がつくられたのだ。

そして21世紀は大戦により吹き飛ばされた裸一貫の男たちが能力主義的希望に基づいた所得格差社会となった。

つづく

次は、能力主義的社畜についてでも書きます。

関連しそうな参考引用

(**16章33)
Google「利潤や給与よりも多くの富を社会に対して貢献しているのだから、われわれが税金をあまり払わないのも合理的なことだ」
企業や個人が製品の値段よりも大きな限界厚生を経済全体に貢献しているのであれば、税金は減るし補助金をもらってもいい。正の外部性。本当にしていると証明する根拠など提出していない。各個人が自分自身の税率を自分で決められるような社会を管理するのは容易ではない。

P385
ベル・エポック期パリ市民で最も裕福な1%は当時の平均賃金の80-100倍の資本所得を得ていた(1872-1912)
ごく一部を再投資して相続した富を増やせた。
大戦間で崩壊
次世代に平均賃金の30-40倍の資本所得をどうにか生み出す程度しか遺せなくなった
1930年代末期には平均賃金の20倍にまで減じ不労所得生活者にとってこれは終わりの兆しとなった

なるほどわからん。頭がカオス化する、気の遠くなるような10のパラドックス(論理的矛盾)の世界 : カラパイア
karapaia.livedoor.biz/archives/52182078.html


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