チャールズ・ダーウィンさんち


ダーウィンはそんなこと言ってないだの、ダーウィンも喜んでいるだのなんかいろいろ。

ホームステイ先から通ってたサマースクールへの通学路にダーウィンの生家があった。 何十年ぶりかにストリートビューで探してみたら、だいぶ雰囲気は違うのだけど見つけることができた。 そうそうこの銅像。あー、あの学校いった先にある新聞紙でくるんだだけの揚げポテトまた食いたいなー・・・。


ダーウィンの家 http:// goo.gl/maps/XC5n9s4MhKVP3V5L9

生家を見てわかると思うけど、実家はざっつお金もち。
紅茶好きなら誰もが知っている、陶器ウェッジウッドの創設者ジョサイア・ウェッジウッドの孫娘がなんとダーウィンのお母ちゃん。父ちゃんはお医者で投資家。ちなみにじいちゃんも医者。

ダーウィンの家の、お向かいにはこじんまりとしたシュルーズベリー城(この一帯はセバン川の屈曲した部分にある天然の要塞なので、館に近い)があって、お金のなかったダーウィンはここの城主とかにお金だしてもらってアフリカに冒険にでて種の起源を書くに至ったんだったと・・・思うんだけど、ウィキペディアにはそんなこと書いてないので、はて、どこで聞きかじったんじゃったか、それとも思い違いかもしれないのぅ。叔父のウェッジウッドのとりなしでってしか書いてないのぅ。んー。勘違いかもしれないのぅ。

その頃のシュルーズベリー伯は・・・、第15代シュルーズベリー伯 チャールズ・タルボット(Charles Talbot)(1753–1827)か。んー。んーー。このひとがすげぇ名君だった可能性?

ここはロンドンからは遥か西方、ウェールズに接しているシュロップシャー州ってところ。1760年代から1830年代におきたイギリスの産業革命発祥の地と言われておる。シュルーズベリーっていう街はこのシュロップシャーの州都。日本でいうとイメージ的には加賀百万石かな。

産業革命のシンボルとなってる鉄の橋が隣町のさらに辺鄙なところにある。そこには日本の皇太子(令和の天皇陛下)参上な碑石があって、はへー、こんなところにまできておわしゃるんか。すごいのぅと思った数十年前。治水の研究をしてたんだっけ? たしか世界遺産に登録されたとかなので、 今は観光地とかになってたりするのかな?

さて、さて、まさにチャールズ・ロバート・ダーウィン(1809生 – 1882没)が育った頃は、まさにそんな時代。生まれ育った土地は治水技術の粋で囲われた天然要塞、立派で長い石橋。渓谷のほうまでいくとそこには世界初の鉄の橋がかかっている(1781年開通)。親の代から時代が変わる様を身近で感じたことだろう。だから帆船のビーグル号でアフリカにまでいき、そして、科学の礎なりえたのだとおもう。

母の実家がウェッジウッドだというのも大きいだろう。
ボーンチャイナの製法は秘され、不可能とされていた白磁や青磁をヨーロッパで再現した人だ。窯の温度を測る術を発明したと言われている。つまり再現性を持った、科学者としての才覚があった人だ。

白磁をつくるためには、窯の焼成温度を上げ、酸素を大量に送り込んで還元炎をつくれるようにならなければならない。これができるようになると鉄の溶融温度にまで達するので鉄が溶けたまま出てくる。粗鉄から鋼鉄を作れるようになり、一回一回炉を壊さずとも鉄の連続的生産が可能になるというわけだ。鋼鉄が大量に作れるようになることで、鋳造ができるようなるので、 構造体として鉄が使えるようになり、 鉄の橋や鉄道のレールがつくれるようになるわけだ。

ウェッジウッドの窯元は、スタッフォードシャーのストーク=オン=トレントだそうだ。となりの県なのかな? ウェッジウッドの窯元を見学しに行った記憶はあるのだけど、正直、場所とかはさっぱり覚えていないが、そんな遠いところではなかったはずなので、ダーウィンも何度もそれを見たんじゃなかろうか。

ワットが蒸気機関を発明したのちその特許が失効したのが1800年。1804年に蒸気機関車が走り、1807年には外輪型蒸気船の航行がおこなわれた。まさにそういう技術イノベーションが起きている時代だった。1830年代には鉄道ブームになっている。ダーウィンが冒険に出たのは1831年。ビーグル号は帆船だったが、蒸気船の初航行実験ですら30年まえの出来事となる。種の起源に思い至る慧眼があるのであれば、世界が近くなる予感は誰よりも肌身に感じたはずだ。

偉人の出現はぎゅっと固まってる傾向があるように感ずる。
慧眼をもち人を育て、また財や才を結ぶ何某かの賢者がいたんでしょうかね。
聖人は聖人をつくるみたいなことを中国古典でなんかあった気がするんだけど、韓非子が言った孔子が言った、四書五経で読んだみたいなことをいうと、怒りだす人がいるかもしれないので、飛影が言ってたとでもしておこうか。余計ややこしくなるか。こういうなにがしかのブレイクスルーというか、歴史の特異点に綺羅星のごとく偉人が群生する。なんか固まるよね。不思議。俺は、天候というか気候の束の間の安定による生産余剰が原因だろうとおもってるのだけど、どうなんだろうね。

さて、「最も強い者が生き延びるのではなく、最も賢い者が生き延びるのではない。唯一生き残ることができるのは変化できる者である」をダーウィンが言ったか言わないか論争にもどる。

この論旨は適者生存論と呼ばれるものだ。

進化論の中でもあったと思うんだけど、あくまでダーウィンは自然選択理論で名をはせた人。だが「進化」という言葉ですら『種の起源』において、第5版にまで存在しないそうだ。適者生存論も数版追わないとでてこない、後から改版でたされたものだ。

適者生存論はハーバート・スペンサー(1820生 – 1903没)が『生物学の原理(Principles of Biology)』(1864)の社会進化論で書いたこと。
このハーバート・スペンサーのお父ちゃんは、ダーウィンのおじいちゃん(エラズマス・ダーウィン 1731生 – 1802没)が作ったダービー哲学会(1783年創立)のメンバーだそうだ。ちなみに、ダービーっていうのは地名ね。瞬馬のことダービーっつったりするけど、こっちの地名というかダービー卿由来。ダービーシャーはシュロップシャーからみるとスタッフォードシャー挟んだ向かい側。埼玉群馬茨城ぐらいな感じ。 それこそ競走馬、サラブレッドは1791年まで遡って徹底した血統管理がおこなわれているけど、なんで血統管理をおこなうようになったのかは推して知るべし。 ちなみにこのおじいちゃんが進化という言葉を使いだしたそうだ。

彼らは同時代に活躍した人たちなので、進化とか適者生存が種の起源でも改訂版からいはってくる。ラマルクの用不用説、ダーウィンの自然選択説、ネオ・ダーウィニズム、ネオ・ラマルキズム。

この適者生存、スペンサーの社会進化論をダーウィンにおっかぶせた意図的誤用はアメリカあたりからはじまったらしい。ダーウィンが事実言ったか言わないかは、まあ、おいておくとして、世界的にも一般人が知っているのはダーウィンぐらいなのでダーウィンが言ったにおっつけちゃってるのはしょうがないんじゃないのとは思う。実際後版のほうには適者生存に似た論旨で改稿はされてるみたいだし。

ちなみにだが、このダーウィンとスペンサーをマッシュアップした優生学(1883年)をおこしたのがダーウィンの従兄弟でもあるのフランシス・ゴルトン(1822生 – 1911没) 『遺伝的天才』(1869年)。彼も種の起源に刺激をうけ、回帰や相関係数の概念の提唱、統計的手法をもちい家畜の品種改良などをおこなった。

で、このフランシス・ゴルトンの従兄弟の嫁の従兄弟が白衣の天使フローレンス・ナイチンゲール(1820生 – 1910没)で、ナイチンゲールがコルドンに相談したことで統計学、公衆衛生や看護教育に至るのである。

さて、「生き残ることが出来るのは変化できる者である」という言葉を誰が言ったかというささいなことが、深刻ぶってだれかの口を塞ごうとする理由を、これまでに出た単語で皆様はすでに気が付かいているかもしれない。

用不用説、自然選択説、進化論、優生学、統計学いずれも現代の科学の礎にはなくてはならないものだ。だが、かの偉人等が去ったあと、アドルフ・ヒトラー(1889生 – 1945没)が選民思想(ナチズム)の論拠として、人種主義、ファシズム、そして優生学をいいように使った。

なので優生学は、家畜や植物の品種改良など現在でも基礎になっているにもかかわらず、禁忌となってしまった。社会学、歴史としてのタブーとしての優生学と、実務としての統計、遺伝や形質発現が学問のミッシングリンクになってしまったのである。理系が算術で学ぶ遺伝統計学(優生学)と文系が歴史で学ぶ優生学に断絶がある。早い馬と早い馬。早い馬と遅い馬。遅い馬と遅い馬。掛け合わせるとどうなるか、競馬だと確率的にどうなるかわかるのに、人の肌の色や人種が絡むと超絶タブーになる。そして優性遺伝という言葉は、とうとう顕性遺伝、潜性遺伝という言葉におきかわることになった。

遺伝による形質伝達と、遺伝しない獲得形質の違いもわからず、統計による想定と自分の体験の区別もつかず、公衆衛生と俺は大丈夫だったの違いもわからない。人の免疫にも血液型のように型があったりする。血液型によってもコロナウイルスの感染確率は違うというような報告もあるが、全体でみれば統計的差異でしかなかったものは個体差にまでおとしたときには差別になりかねない。ナイチンゲールは統計的手法をつかって野戦病院が不衛生だと死亡率が高いとか、検死解剖をした医師がそのまま患者をみると死亡率があがるなどと証明をすることで、野戦病院の死亡率を下げた。今は統計情報は個人情報のため伏せられていて集計結果しか知ることができない。

科学と社会の断絶。これが、もしかしたら人々のコロナウイルスへの対策を半分ぐらいは阻害している要因かもしれない。科学と社会は200年経ってもつかず離れずだ。

種の起源

だが、誰も彼も「種の起源」は読んでいないのである。みたいな。古典で、時代のエポックになった名著は読んだほうがいい。とは言え、種の起源、子供の頃読んだとは思うんだけど、ちゃんとオリジナルを読んだかはちょっと自信がないのでさっき岩波文庫版のほうをぽちった。こんだけ書いて読んでないのかよ。みたいな。ごめんな。

アンリミテッドに入ってると無料らしいので、こっちを一応貼っておく。

参考・引用

Shrewsbury Castle
en.wikipedia.org/wiki/Shrewsbury_Castle

シュルーズベリー伯爵
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC%E4%BC%AF%E7%88%B5

酸化焼成と還元焼成の違いについて
www.city.toki.lg.jp/docs/hpg000003447.html

製 鉄 技 術 史 の た め の 基 礎 知 識
www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/History_of_Technology/History_of_Iron/History_of_Iron_background01.html

蒸気機関
ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B8%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2

優生思想の論理と現代進化理論の(再)検討 -社会生物学は優生学か?
www.wrc.kyoto-u.ac.jp/kohshima/Study/abstract/oode99.html

アイアンブリッジ (橋)
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8_(%E6%A9%8B)

「ダーウィンはそんなこと言ってない」「優生学では」 自民党広報Twitterアカウントの憲法改正啓発マンガにツッコミ多数
news.nicovideo.jp/watch/nw7479896

ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、1820年4月27日 – 1903年12月8日)
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC

Herbert Spencer
en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Spencer

ラマルキズム
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E4%B8%8D%E7%94%A8%E8%AA%AC

ダービー哲学会
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E5%93%B2%E5%AD%A6%E4%BC%9A

ラマルクの用不用説
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%A8%E4%B8%8D%E7%94%A8%E8%AA%AC

「ダーウィンの進化論」に関して流布する言説についての声明
www.hbesj.org/wp/wp-content/uploads/2020/06/HBES-J_announcement_20200627.pdf

適者生存
ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A9%E8%80%85%E7%94%9F%E5%AD%98#:~:text=%E9%81%A9%E8%80%85%E7%94%9F%E5%AD%98%EF%BC%88%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%97%E3%82%83%E3%81%9B%E3%81%84,%E3%81%9F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A6%82%E5%BF%B5%E3%80%82

フランシス・ゴルトン(生1822年-1911年没)
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3

ダーウィン進化論に生じる誤解
textview.jp/post/culture/21642


グラスゴー、ナショナル・ギャラリー


わてくしが大学生のころ模写したゴッホのひまわりでございますのよ。おほほ

スコットランドはグラスゴーで6人ものひとが巻き込まれた刺殺事件がおきたと先ほど報道をみた。BBCを見て街の風景をなんとなくみていたらなんか記憶のフタがぶわりとあいた。
んー。この街並。

16歳だったかなともうのだけど、初めての一人旅はスコットランドだった。 いや、日本国内旅行や、宿泊目的地があるそういうのはおいておいて、誰のアレンジもうけない、泊まるあてもなく出たはじめての旅行。

グラスゴーの駅に降り、駅に併設されてた案内所でドキドキしながら、どこか泊まれる場所紹介して下さいとおねーさん聞き、そして、町に出た。そこが、ちょうどこの事件の起きたあたりだ。たぶん。いや、もしかしたら全然違うかもしれないけど。こういう赤茶やダークブラウンに暖炉のすすでも回ったかのような黒ずみが混じった石材でできた街。

最近になって知ったのだが、当時のグラスゴーは高失業率で全英でも最悪の治安だったそうだ。夜、窓から乾いた銃声のような音が聞こえ、怖くなってドアの前にソファチェアを移動してバリケードを作って寝た記憶がある。血が多めのソーセージ、目玉焼きと、ハッシュドポテトの朝食がついたB&B。もう一泊したら寝過ごして食べれなくて悔しかった。グラスゴー、エディンバラの小旅行。

当時親が英国に赴任していたので、親元を訪ねたまに渡英していた。ロンドンからは離れたところだったので、親の家にいくまえにロンドンで一泊程する。ついでに、大英博物館や、ナショナル・ギャラリーにいくのが好きだった。

今、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展が日本で開催されるそうだ。ナショナル・ギャラリーでは入場料はとられず、寄付金をボックスにいれるだけで誰でも入れる。あんな名画やこんなのが見放題。ゴッホのひまわりですら、人がたかっていない。まわりに誰もおらず、1人でしばらく独り占めできていた。さ・・・、げふんげふん。

中学生ぐらいの私は、おこずかいをはたいてミュージアムショップでゴッホのひまわりのポスターを買った。だが、いつしか、日にあたり赤色が飛んでしまい、色あせてしま残念なことになってしまった。

ゴッホのひまわりと言えば、 バブルで浮かれた日本の会社がオークションで史上最高額を叩き出したことで有名だ。1987年安田火災海上保険58億円。というわけで、自分にはとても手に入らないものだ。ポスターがせいぜい。しかもそのポスターですらロンドンにいけなければもう気軽に買うこともできない。
だから、大学生の時、自分で描くことにした。売れたらいいななどと邪な下心で完コピした。完コピしてわかったのは、あ、ゴッホは絵の具が買えなかったんだな。少ない絵の具で、がんばったんだなってこと。

この絵は今も階段に飾っている。
油絵は天窓からの太陽の光にさらされても色褪せない。リーズナブルだ。

最近、昔を急に思い出すのは、刺激のない生活を送るようになったからか、死期が近いからか。 そういえば、コロナ期間中に、暇になったら数十年ぶりに油絵でも描こうと、画材を中途半端に引っ張り出した。演劇や音楽、パフォーマンスなひとたちは今はなかなか厳しいかもしれない。でも、文化や芸術は専業のひとたちだけのものじゃない。いままで忙しくて仕事と関係ないことはできなかったひと。ちょっとあいた時間になにかに挑戦してみたり創ってみる。ささいなことでたぶん人生豊かになる。殺伐としたニュースが多いなかで、なんとなくそうおもった。


世界の距離と中国


まだ世界が遠かった頃、ほんの数十年前。海外渡航というのはそれなりに高価なもので、ロンドンへいくのは4~60万円が必要だった。定期的に国際電話をすると10万円コースの請求がきて、FAXだって、国を超えては送れず中継が必要だった。船便も数ヶ月かかり、ヤオハンでは緑色に変色したポカリスエットでさえもありがたく売られていた。

それから格安航空ができて、ネットができて、日本の一人負けが始まった20年ぐらい前から世界は急激に近くなった。

いまでは、うちみたいなごく小さなお店にもたまに海外から注文が入る。
国と重量によっては下手をしたら国内への配送料より安く、日数もそれほどかからない。

ところが、今年の旧正月を挟んだあたりから国際流通がおかしくなった。
茶葉を注文してもらったロシアのお客さんから「ヤカンをのせて待ってるんだけどおろしたほうがいいか」と、届かないという問い合わせにごめんなさーにゃしなきゃいけなくなり、アメリカからの注文は今3ヶ月ぐらいかかってるみたいだけどいい?と、先方からOKをもらった端から、EMS新規受付は停止ですてへぺろとなり、そして世界はまた遠くなりつつある。

ちょいと昔の中国

中国には1度だけ行ったことがある。
今からすると20年も前の事だが、夏休みに北京から上海までの道のりを20日程ウロウロした。海外旅行はすでに身近なものになってはいたが、中国はビザを大使館に取りに行く必要があるレベルには難易度高めの国ではあった。

インド旅からも帰ってこれていたので、中国なんて余裕だろと侮った若気の至り。入国3日目には北京の天壇公園でゲロをぶちまけながらぶっ倒れるという醜態を晒すことになった。命の恩人がいるとするならば、このとき通りすがりで助けていただいた日本人留学生の方だろう。あのときの亀です、その節はありがとうございました。恩返しはまだできていない。

観光地の食堂で、一口食べて、「いやいやいや、これ食用油じゃないだろ自転車の油だ。」と思ったのに食べてしまったからか、屋台街で生のパクチーののった刀削麺を食べたせいかわからないけど、まあ、日本で生ぬるく育った胃腸は耐えられず病院送りになった。

緊急避難的に上等なホテルに逃げ込んで食べたお粥の美味しかったこと。北京ダックみたいなものを出す高級飯店は美味しかったが、庶民飯との格差たるやだ。南下するに従って、市中の食堂の味も質もよくなっていった。同じ国とは思えなかった。当時において、北京が日本に追いつくには最短でもあと10年はかかるかもしれないが、上海はもう東京を追い抜いているかもしれないと思ったものだ。

道と水道

街のことは下水や道路が教えてくれる。
千年以上前の遺構の水道や道路は当時の繁栄を伺い知らせてくれる。

キレイなビルを建てたところで、上下水が整ってなければそこはスラムだ。
ビルを建てたあとから地面をかえして下水を整備することはできない。壁紙で見えないように繕っても基礎がおかしければ、遠からず結果として知ることになるだろう。買った瞬間に評価が半値になるのならば、そもそもの何かがおかしいのだ。

成長には根が必要で、都市には計画と段取りが必要だ。道路や、下水など流れるものの始末のつけかたを見ればその都市の未来が見える。政治とは本来は治水のことだ。

東京は前のオリンピックのときに、土地がないから川の上に高速道路を敷設し、下水は川にながしこみ、それにフタをして暗渠にして見えないようにするだけという取り繕っただけの最悪の場当たり対応が行われた。
現在もその負債、下水雨水合流を解消できず雨が降るとトイレットペーパーが浮く未処理の下水を東京湾に垂れ流しているのだが、そこでトライアスロン競技をやろうとしている。

その点、当時の北京は青山通りや桜田通りが片側におさまってしまうほどの道幅を確保していた。まだ車がそんなに走っていないのにである。鉄道もそんな本数はなかったが、駅舎は他の国では見たこともないほど広いものだった。

もしかしたら滑走路に転用するなど、軍事的な理由によるものなのかもしれないが、そのバカみたいに車線の多かった道路も、今ではその渋滞をおこしているそうだ。

疫病と公衆衛生

公衆衛生を見るとき、くその始末は重要な指標だ。
国や地域によっては、町中でうんこが落ちていたり、うんこをしている人を見かけたりすることがある。犬のじゃなくて人間のだ。都内でもたまに山の手線の中とかで落とし物は見かけるけど、あれは事故だとして、事故じゃなく、それが日常として鎮座ましますことがある。

ヤク中でっていうパターンもあるのだけど、普通に設備としてトイレがなかったり、教育がないためにそうして済ませることが当たり前になってしまっているのだ。日本でも立ち小便おじさんは昔しはそこらにいた。

人目を憚らずトイレを済ませるのが常識として大人になるまで育った人に、うんこはトイレでしなさいと、教え込むことはできるだろうか?もちろんできる。だが、多分、難しい。酔っ払いがそうしてしまうように、なにかの拍子にそれは選択肢たりうるのだ。そうしないために理性による制御が必要となる。なので、そうじゃないのが当たり前になるには、そうしてこなかった次の世代の台頭を待つよりない。なのでこのフラグが立ったときは最短でも30年はかかるなと思ってしまうのだ。

中国には腰高までしか壁がない、または壁そのものがないニーハオトイレ(うんこしながら挨拶できる)というものがあった。20年前にはあるところにはあったが既にそれほど使われてはいなかった。人民服の頃に行った人の話しを聞く限りでは、普通につかわれてたよと聞いた。まあ、そもそも横スリットのチャイナ服とか、子どもが着てる股間の部分をまるっとない服とか、おむつ? なにそれっていう合理さよね。

もっと扱いの厄介なもに遺骸がある。
道端に轢かれた動物の遺骸が落ちていることは日本でも田舎にいけばなくはない。だが、人間のとなるとどうだろう。インドとかだと埋葬方法としてガンジス川に流すので、プカプカと浮いて流れているわけだけど、中国も当時は交通事故があちこちでおきていて、人々は車のぶつかったのを珍しげに野次馬しているのに、そこからちょっと離れたところで人が横たわってるのは、放置されていて、なんだこの光景はと思ったものだ。
そういえばブラジルに赴任してたやつが、家の前の大きい通り沿いでは週に2回ぐらいは血だらけの人がいると言っていたのを思い出す。互いの健康に気を配れるようになるには、もっと違うレイヤーでやらなければいけないことがある場合がある。ところかわれば常識も変わるのだが、同じ文化圏しかしらないと気がつけないことがあるものだ。

・・・ほんとは、中国の経済状況とか、アメリカと中国の関係を書こうとしたのだけど寄り道したまま終わってしまった。なんの話しだったんだろう。うんこしか書いてないきがする。