ほうんとうは怖い朝三暮四


『ねーねーパパ。朝三暮四がわからないんだ』

『朝三暮四ね。
猿にエサを朝3つ夕方に4つと言ったら怒ったので、朝に4つ夕方に3つにしたら喜んだっていう、結果が同じなのにお猿さんったらおかしいね、というお話しだよ。』

『違うよ。それがなんでおかしいのかわからないの。将来価値と現在価値の話しだよ。
あなたは定年退職時に退職金でまとめて払うから、給料をその分減らすと言われていいよと答えるのか』

『ちょっと待って。ママっ!!』

 
2%ぐらいにしか伝わらない珍説をいいたくなったので書いてみることにした。
まず、朝三暮四という故事成語の時点で2割ぐらいの人を振り落としてしまう気がする。
複利と単利の説明でさらに2割ぐらいを振り落として……、指数関数とかをだしたら4割ぐらいがさらにいなくなって、現在価値だの将来価値だの割引率やらWACCだのなんだのの説明が必要になったところで自分でも何をいっているのかわからなくなるきがする。2%どころか自分が理解できるか自信がない。うききっ!!

 

朝三暮四という故事成語の意味は、辞書や教科書などでは結果は同じなのに表面的な利害にとらわれることなど、猿だなと嘲っている。しかし、はたして本当に猿と一笑にふしていいものなのだろうか??
「朝3つ」と「夕方4つ」と
「朝4つ」と「夕方3つ」は
いずれも合計は7だが時間経過をともなうのであれば結果はまったく違うものになる。3+4と4+3が一緒でいいのは小学生までだ(!?)

これの違いは、寓話で登場した猿を人間にして、日の暮を年の暮にしてみればいくぶんわかりやすくなる。
一年分の食料に必要なお米を7つに分けた袋で、お給金をもらえるものが、年の最初のほうに1袋余計にもらえれば、そのお米を種籾にして稲作したり、他の人に貸し付けるなりして増やすこともできる。すくなくともその可能性がある。もし、一年に必要な食料(必要経費)が6袋だとしたら余剰分の1を年始にもっているのか年末にもっているのかで結果はまるで違うものになる。

 

報酬がお金になって運用が考えられるようになった現代ではもっと露骨にその違いを計算することができる。例えば、冒頭にも出したようなサラリーマンパパの30年後にもらえる退職金で3000万円とする。

3000万÷30年で、毎年100万報酬をプラスするけど退職金なしというのと、30年後に3000万渡すから毎年年俸から按分して100万円マイナスするねというのは、最終的に貰える額は一緒だからという説得に納得しまってはどちらが猿だかわからない。

 

これを説明するには金利や割引率を考えなければならない。
例えば、1000万を金利(内部収益率)6%で30年運用した場合、
複利であれば

1000万×(1+0.06)^30年=5744万

※^は指数
参考までに単利であれば

1000万+1000万×(0.06)*30年=2800万

 

 

この30年後の5,744万のことを将来価値

逆に30年後の5,744万の現在価値は1,000万という。
現在価値の計算方法は

現在価値=将来価値 / (1+金利)^運用年数

30年後のパパの3,000万の退職金も収益率を6%で計算するならば現在価値にすれば522万円にしかならない。
比較するのであればNPVやIRRを考えた上で損得勘定をせねばならない。
朝三暮四も朝四暮三も合計すれば一緒だからという考え方は、手に入る合計額(Net Present Value)を考慮すればまったくナンセンスであるということがわかる。時間経過が考慮されていなければ、運用益や割引率の考慮もされていない。
朝三暮四にこだわることを表面的な多寡にこだわったウルサイ猿のようだと嘲笑することもできるが、例えば日本のインフレ率は2%を目指そうとしているし、実態としてはデフレだしで、これからますます率の変化が重要になりそうだ。税金にも復興増税などで率にも大きな変化がある。理解できるできないにかかわらず朝三暮四が生活に影響を与える影響はますます大きくなってくる。
猿と揶揄され現代につたわった故事のウラには、食客を養う人の苦労や、それを理解しない層との乖離があったのではないか。結果は一緒なのに、そのようなことで騒ぐはまるで猿だなという表の意味と、将来価値やリスクを考えた裏の意味があったのではないかと思う。この将来価値を含んだほうの朝三暮四の裏の解釈がなければ、なぜ故事としてわざわざそれを記そうと思ったのかや、これが現代まで伝わってきているのかなどについて疑問がわく。文学の人からすると珍説以外のなにものでもないかもしれないが、俺はこちらのほうに由来があるとおもうので珍説をぶちあげてみた。

 

もし、ここに書いてあることがなんとなくわかっちゃったとしても、これをセンター試験の回答などに書いても点数はもらえないし、まわりに説明しようとしてもみんなのポカン顔を総取りするだけなので注意が必要なんだぜ。

 

闇金融のひとたちはお金を貸し付けるときに、先に金利分を貸し付ける額から抜くそうだ。どうせ返すのだから一緒だろうと。国はどうせ払うのだから一緒だろうと、受け取るべき報酬から先に源泉徴収をしたうえで税還付をする。生活に必要なコストが3だとして、残りの1を収益率何%で何回まわせるかが生産性にかかわる部分だが、余剰余力の差になるが、もし生活に必要なコストの余剰分が後から与えられるのだとしたら何度回そうとも将来価値は1から動かない。

朝三暮四と朝四暮三は実態はいっしょではないが、がんばろうががんばるまいが結果としての平等という意味ではみんないっしょになる。ほんとうは怖い朝三暮四のお話しでございました。


時代でかわる都会という言葉


 

田舎都会論がもりあがっているようです。

d.hatena.ne.jp/chnpk/20130115/1358204323
d.hatena.ne.jp/mizchi/20130115/1358216244
lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/01/15/143959

 

都市部の悩み

昨日は東京にしては珍しく雪が降った。雪が降る中数百メートル分を雪かきをした。時間貸し駐車場の前まで一応道をつくった。駅前通りなので雪が降り続いていても歩くひとは絶え間ない。綺麗に雪かきされた道を歩くが、しかし、一時間以上雪かきをしても、手伝ってくれる人もいなければご苦労様の一言も声をかけてくれた人はいなかった。

 
10階建てぐらいのビルが立ち並ぶこの通りに住んでいる人は多いが雪かきをする人は地場の商店主ぐらいしかいない。それも致し方ないことなのだろう。他からきてたまたまここに住んでいるだけの他所様なのかもしれないし、そもそも土くれもない場所でスコップを持っている理由もない。人口あたりのスコップ保有率を調査したいぐらいだ。盲人用の点字ブロックは雪などが降り積もることを微塵も前提としていない雪が振らない場所では雪かきをしなければという発想もないのだろう。

 
近くの消防署から消防隊の人たちが大勢スコップを持ってでてきたのをみて「援軍か!」と思ったのだが、防火水槽のまわりだけゴソゴソやって帰っていった。あぁ、そこはさっきやっておいたのだよ…。

 

 

 

ここは三鷹。新宿というところから電車で20分程度離れた都下の街である。吉祥寺の南側が三鷹だといえば、なんとなくわかってもらえるかもしれないが住まうにはほどよくいい場所だ。

 
しかし祖父が三鷹に移転してきたころはまだ村で、たぬきがでるほどの田舎であった。
祖父は千代田区の銀座界隈で育っている文字通りの都会っ子だ。しかしかつての実家は空襲で綺麗にすべて焼けてしまい、面影を残すものは何一つない。
「都会」がすべてが焼けたわけではないはずだが面影を残していないもう一つの理由がある。不動産価格の上昇だ。かつては日本は土地が価値をもっておらず、純粋に建物の価値であったが戦後それが変わった。贈与、相続で猫のひたいのような土地に細かく切り分けられ鉛筆みたいなビルばかりがたった。

 
うちの祖父は百歳近くまで生きた長生きであったのだがとうとう先日亡くなり、我が家もその洗礼を受けることになる予定だ。地価公示価格で平均40万/㎡、坪145万としても100坪ぐらいはあるので億円クラスになる。相続税だけでちょっと普通に生きてたら無理な額だ。収益性の建物にしてビルを一棟建てるにも4億円ぐらいかかる。

 
年寄りもいるしできればこのまま住んでいたいのだが、あまりうかうかもしていられない。固定資産税の支払いだけでサラリーマンの可処分所得がなくなるような土地で、大根やら小松菜やらの家庭菜園をつづける経済的無駄をぶちかます余裕はさすがに相続税相手には無い。税の支払いを銀行から借り入れてしまったが故、数年でケツの毛まで抜かれたという家もある。税を払うために借入をおこして、この経済情勢、人口動態下で現在価値で数億クラスの不動産にコミットすることにあまり合理的理由もないだろう。

 
そもそも祖母や両親のような年齢の人間には、住み慣れた土地や家から離れるというのはお金でどうにかなる問題ではないのだ。形が変わってしまえばそこに価値はない。経済価値以外の評価についてこの国は制度設計上、想定もしていない。当時田舎だった場所に住まいをうつし、愛着があった銀座という名前をつけて、商店街をつくり街を育てたらあとから人が増えてきて、自分が死んだら女房が家から追い出される。祖父からすると、いったいどんな皮肉だろうかと思わなくもない。

 
富裕層への課税が45%だどうのとのめくらましの元、しれっとその対象となる贈与税の控除額が大幅に変更になることが決まっている。おそらく一般的な資産を形成する家庭でも親子3代もすればすべてお上に召し上げられることになっているので、あまり話題にもなっていないが注意が必要だ。注意したところでどうしょうもないけどな!! まあ都市部でのこるのは社寺地か土地成農家ぐらいだよ。つか、俺も店なし家無しになっちゃうんだけど、どうすべぇ……。ほんと税金っておっかねぇべ。

 

 
都市部の形成について

都合がいい環境だと後から勝手に人がどんどん増えて都会になっていく。働くのに都合がいい環境とか、静かに暮らすのによい環境だとか、子供を育てるのにいい環境だとか遊ぶのに都合がいい環境だとか人に評価尺度が違う。これらをどれも高い位置で満たすところに人があつまり環境投資された都会といわれるものになっていくのだと思う。

 

 

縄文時代であれば飲水にアクセスしやすいハケ地であったり、水害に襲われない場所が重要であった。中世にはいり外敵から攻められにくいことが重要となり城下が形成され、城壁や堀、運河が形成された。工業化社会を迎えて、資源は労働力になり、人間の集積化がすすんだ。

 
原材料や消費者アクセスに優位な地理的ロケーションかどうかが、いつの時代も評価軸なのだろう。しかしながら、工業化社会から情報化への変遷にあたり、「供給先」や「供給元」の定義は非常に大きくかわりつつある。工業化やユニット化で労働力は海外にも移転可能、代替可能な資源とみなされ、ホワイトカラーの知識産業はノマドよろしくロケーションフリーになりつつある。

 
都会の条件も医療や治安、教育のような無形財へシフトしていくことだろう。
よく整備された道路や鉄道のような交通網。デザインされ人が多くあつまる商業ビルディングは現在の都会の象徴である。六本木ヒルズは300年持つように計算されているし、東京スカイツリーは東日本大震災にも耐えた。

 
だが、いずれも耐久消費財なのだ。維持することにもお金がかかる。
100年後のヒルズは最新ではないし、地上波デジタル放送のアンテナも必要とされていないことだろう。そして、耐久消費財は壊すことにもお金がかかるのだ。

 
エンパイアステートビルはいまだ現役の世の中において、高度経済成長期に立てられた集合団地のいくつかにはすでに打ち捨てられる徴候がある。なんらかの資源へのアクセスに優位であったロケーションからはずれた街から破棄され、新しいところに人があつまる。都会と呼ばれる巨躯は人があつまらなくなるだけで著しく荒廃する。
あすの軍艦島(かつて海底炭鉱で栄えた島)はどこだ?
あすの人々が重要視する資源はなんでしょうかね?

つか、俺どうしようかなー


社会人としての大人現在価値


元旦ですね。
年の計画を立てるにはちょうどいい時節です。

人生計画表を作ろう!エクセル1シートでできる私の計画表と運用方法を紹介します。
crossmodelife.com/2013/01/02/3141/

こんなエントリーがあり、エクセルシートが配られていたのですが、しみじみなんか考えなきゃいけないねと思いました。計画を立てるのもいいけど、人生の棚卸、自分のステータスがはっきりしていないと計画もたてようがありません。

 

そこで、社会人の大人価値ということで、自分の有形無形の技能や資産を評価して現在価値やら将来価値やらうんぬんかんぬんをできるエクセルテンプレートを真似っこしてつくってみました。
ここからダウンロードできます。
docs.google.com/open?id=0BzsCrr8T7mPeVVFSWC14YTNwQUU

こんなかんじ↓

無題

 

 

 

テンプレートをつくってもぅ満足・・・。
人間は自分は死なないという安全バイアス、楽観バイアスがかかるそうです。そうしないと恐怖に震え行動できなくなるからだそうで、同じように自分がみすぼらしく年老いて、貧困に喘ぐ姿というものは想像するのが難しいものだと思うのです。家族など親しい人を死なせないという関係性において、人間は客観性を取り戻し現実味を帯びた計画設計が可能になるのではないでしょうか。
故に、単身者が計画性を感ずることなく無為に過ごしているように見えるのもやむないはなしですね。(俺のことかっ!)

 

 

客観性をもった評価はとてもむずかしいところです。
客観的に資産などの有形価値評価については将来価値は計算しやすいのでしっかり書きだしてあります。
人脈などを資産などを資産として数えるのは馬鹿らしいとも思うのですが、可視化、可算化することで再認識させることが目的であるので無理にでも欄をもうけました。

技能や知識の評価はとてもむずかしいので5段階で評価できるものとしました。

つまり現状の把握をおこなって、競争優位性を確認して将来の戦略をたててください。
俺はもう「社会人としての大人現在価値」を測ったら棚卸できるほどの価値もなくて正月そうそう泣きたくなりました。