人権という発明と奴隷制やら身分制やら


奴隷解放宣言よりわずか前、米国議会では真面目な討論がされていた。

「奴隷を鞭打つとき、女性であった場合、裸にするのは紳士的ではないのではないか?」

わずか200年前の出来事である。
後世からすると滑稽とも言えるような議論を真面目にする時期というものがある。そしてまだその議論をするにまで至っていない国や地域というものも存在する。

 

アメリカの奴隷制

初代大統領のジョージ・ワシントン、アメリカ独立宣言(1776年)のトマス・ジェファソンも当然のように奴隷所有階級だ。エイブラハム・リンカーンが1863年に奴隷解放宣言をしたときもリンカーンのまわりに奴隷商はいたし、義父は奴隷売買業者だったのではないかとも言われている。開放宣言というエポックになる程度にその時代まで奴隷制というのはごく当たり前に社会制度として存在した。

 
奴隷制度があった時代の欧米の資産家の複式簿記でしるされた帳簿には奴隷という勘定科目が乗っているという話しをきいたことがあるが、19世紀に隆盛した複式簿記よりも奴隷のほうがあとだとは、いやはやである。

 
米国南部の奴隷の多い地域、1750年ヴァージニア州の黒人奴隷が102,000人、総人口231,000人である。奴隷の割合はなんと人口の44.15%にものぼる!1860年まで時代を下って、米国全体平均でも12.57%(3,953,760/31,443,321)が奴隷である。

 

奴隷推移2015-12-24 19_58_25-スタート

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労働力が直接、生産力に直結していた時代。家内制手工業から工場制手工業に変遷する未満の時期は、労働資本=人間の頭数である。この割合で奴隷が必要であったようだ。

 

 

日本の身分制と人口割合

日本でも領民は財産だった。もっとも支配層も「よき支配者」であることが求められたわけで、一揆やお取り潰しなどもあったので支配地域ごとに見れば絶対王政といえるようなものでもなかったようだが、統治体系として支配層(家)の財産として勘定された。庄屋には郡役所に収める財産目録には抱えている領民や小作農そのものや、そこからの上がりを”確定申告”することが責務付けられていた。律令制下での荘園制の時代は言うにおよばず、労働力が生産性に直結していた時代のあいだは文字通り領民こそが財産であったのだ。

 

1831年 墓石制限令 ← 平民の墓石を許可
1863年 アメリカ奴隷解放宣言
1869年 四民平等 ← 皇族・華族・士族・卒族・平民・賤民という身分制は残す
1870年 平民苗字許可
1871年 卒族、賤民を平民に編入(新平民)、平民と華族・士族間との通婚許可
1872年 皆学、職業転居の自由を制定
1875年 平民苗字必称義務令
1876年 秩禄処分 ← 華士族に対する家禄支給の全廃
1947年 第1回参議院議員選挙、日本国憲法施行 ← 皇室以外の世襲身分の廃止

 

四民平等とされた明治維新であるが、実際は身分制度は残って華族や士族という身分制度が廃されたのは1947年の戦後になってからである。
明治維新で秩禄処分で対象になったのは支配階級である。この明治3年ごろの士族+卒族は人口比率で6.4%程度であったようだ。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F

 

賤民制が制度としてあった時代の人口割合をすこし調べてみる。
佐貫藩(千葉県/上総国)1万6千石(領民1万6千人相当)で穢多97人、非人26人とある。人口比で考えると0.76%にしか相当しない。久留里藩(千葉県/上総国)3万石に対し、穢多入口74人、非人人口128人でこちらも人口比0.67%程度。

c.f. 明治初期における穢多・非人の人口分布に関する一考察(3) 松井 茂樹
ci.nii.ac.jp/els/110004687558.pdf?id=ART0007422310&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1450953551&cp=

江戸の人口で検討してみる。町方並寺社門前人口と、弾左衛門・車善七・松右衛門の手下(いずれも世襲の江戸の穢多頭、非人頭役職名)と当日寄非人(無宿人など)を合計して計算する。

c.f. 江戸の人口
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3

1692年江戸の門前人口353,588に対して、非人頭手下勢4,329人、当日寄非人1,037人、これは人口に対して1.52%に相当する。1835年の2.6%を最大として、割合でみると都市部でも人口比1%代後半から2%前半で推移しているようだ。wikipediaから数字を参照しグラフにまとめた。

 

穢多非人人口比率2015-12-27 20_23_39-フォト

※左側縦軸:門前人口、右側縦軸:手下、当日寄人口

 

グラフの1750年とか、1777年とかの当日寄非人の数字が極端に減っているのを見ると、当時の役人が鉛筆をナメた数字のような気もするが、wikipediaからのデータをつかったに過ぎず、引用文献から精査したわけではないので、郊外都市、千葉県のようなところで1%未満、江戸で2%前後というぐらいの割合なのであろうという規模感がつかめれば充分である。

 

保護必要層とアウトサイダー

***手下勢と言うと、現在では指定暴力団を連想する。

クリックしてh26_jousei.pdfにアクセス

日本で公的に現認されているアウトサイダーは指定暴力団であるが暴力団構成員数は、警察庁の統計によれば平成26年で構成員(22,300)と準構成員(31,200)を合計して53,500人である。平成3年には91,000人であったが減少の一途をたどり現在最小値を記録している。人口比では0.045%しかいない。江戸時代の手下勢と比較すると最低でも20倍以上の差がある。

 
当日寄無宿人は今でいうところのホームレスを連想する。
ホームレスは厚生労働省平成24年度調査では全国に9,576人しかいないことになっている。そんな少ないわけもないだろうと思うのだが、この数字を信じれば人口比に直すと0.0079%程度しかいないことになっている。

www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000027ptf.html
なんか、どっちの数字もお役人の数字の取り方への誠実さが江戸時代以下な気がするのだが・・・、どうかな?

 

米国ではソーシャルセキュリティーナンバーを持つためには住所が必要で、住宅を借りるには銀行口座が必要で、銀行口座を開設するにはソーシャルセキュリティーナンバーが必要で、このサイクルから弾かれるとアウトサイダーになってしまうという流れがある。江戸時代で言うならば寺請してもらえないと長屋でご隠居から部屋も借りられず、部屋もなければ身請けも口寄せもしてもらえないので生業ができず、社会的にはアウトサイダーになってしまうのと似ている。
歴史からみると社会構成的には人口の2パーセンタイルぐらいは社会保護が必要になるはずなので、かなりの数を取りこぼしているのではないだろうか?マイナンバーの発番とかで住所が確認できない層を認識できるようになれば漂流民の社会統計もとれるようになるかな?

 
見落としているのかなと、生活保護世帯数について調べたら、平成26年の速報値では2,163,716人となっていた。人口比に直すと1.8%であった。

クリックして0000062671.pdfにアクセス

 

労働層と奴隷と見習い身分

さて、保護層とアウトサイダーをあわせても人口比2%程度なので、米国などで奴隷制が必要としていた12-44%とは大きく異ることがわかる。現代のイタリアの例だが、都市労働者階級(37%)+農村労働者階級(9%)で労働層の合計がちょうど46%となっている。

 

ブルジョアジー(労働人口の10%)[4] – 上流階級の起業家・管理職・政治家・自営業など
ホワイトカラー中流階級(17%) [4] – 肉体労働ではない中流階級労働者など
都市プチブルジョア(14%) [4] – 商店主・スモールビジネス起業家・自営業など
農村プチブルジョア(10%) [4] – 田舎で農林業に従事する、小規模起業家・不動産オーナー
都市労働者階級(37%) [4] – 都市で肉体労働に従事する人々
農村労働者階級(9%) [4] – 農業・林業・漁業などの第一次産業に従事する人々
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%9A%8E%E7%B4%9A

 

現代のわれわれの「奴隷」という言葉への価値観からすると、鉄球を足につけ鞭で打たれながら強制的に労動を強いられているイメージはあるが、酷い経営者なんていうのはいつの世にもいるわけで、奴隷を殺してしまうまで鞭打つか、従業員を鬱になるまで追い込むかぐらいの差でしかないのかもしれない。

 
労働層、これらは江戸時代で考えるとどの層であったのだろうか?
小作人、住み込みで働く職人見習いや丁稚という身分の人たちには決められた給金というものがなかった。いや、そもそも明治維新前までは人の流動がすくなかったために、お金の掛取り(集金)は盆と暮れの年2回程度で、他はツケの信用でまわる社会であったので給金が払われないことは労働衛生環境的にはなんの問題もなかったのやもしれない。

 
現代まで残っている職業でみると、お相撲さん、力士の給与は幕下にはつかなくて、幕内も引退するまで部屋預かりにして独立するときに初めて現金でもらうみたいな運用がされていると聞く。これが昔しながらなのやりかたなのだろう。衣食住が確保されていれば、毎月の決められた金額を与えられるより、小遣いでこと足りる。

 

この手順を踏まずに飛び出したりすると、身請け人もおらず、寺請証文を書いてもらえないので転居も新しい生業もすることができない。核家族化の前の長屋の時代、まさに「大家といえば親も同然、店子(たなこ)といえば子も同然」の時代であった。親方は親で、弟子は子なのだ。

 
借金のかたに吉原に身請けされるなどとあるが、結局そこで読み書きや礼儀などの教育を受けて、嫁ぎ先をみつけて最終的にはいずこかに身請けされる。当時の世俗を調べてみると、人身売買のような悲壮感は感じない。ただし飢饉の時はかなりの悲惨さがある。
古代アテネの時代から、楽しい奴隷ライフをおくれせてくれない雇い主は結局殺されるかなにかするので、どんな生業でも、持続可能性がない人の道にそれたことを長くは続けることは難しい。

 

 

身分がある家の身分の無い人

現代の人権感覚から考えると、奴隷制より恐ろしいなと思うのは身分や財産がある家の身分がない人への扱いである。財産を散逸させないために、家督を継がない次男以下には婚姻や外働き、分家を許さず部屋住みの下男のような扱いをしていたという記録がある。独立を許さない分下男より辛い。

 
耕作面積が少く田分けが難しかった山間部の地域では財産を散逸させないために、農家ですら厳格な家長制度を運用する必要があった。比較的近世まで続いた長野の風習「おじろく」「おばさ」で、記録を追うことができる。

 
名家や武家の次男は家督を継がせないために、仏門に出家させ女人禁制の山に幽閉し、結婚させないことが常道とされた。ここらへんは有名所だと真言宗の総本山高野山などのご由緒で伺うことができる。院や房は、学を収めるための場として機能し、長男に何かあったときのために待機場であるだけでなく、図書館や叡智の集積地修練場となり、多くの人材も排出装置として機能した。

 
長子相続制は、世襲にまつわる係争を回避するための経験則からの発明なので、日本だけでなく英国などの爵位などの身分制を置く地域に広く見られるが、今回はちと本筋からそれるので言及するに留める。

現代の身分制

現代の身分制は職業が代替しているということに異存がある人はいるだろうか?ニュースでも犯罪者は無職**、自営業**、公務員**だし、ニュースソースとして重要なのは職業と年齢だ。

 

家内制手工業から工場制手工業にかわり、そして工場制機械工業にかわり、これら過去の身分制度はあまり用をなさない意味のないものになった。江戸時代から人口が4倍になっても、お米の生産量は1.4倍程度にしか増えていない。貿易という手段で、資源を手にいれることができるようになり、機械のほうが労働力より安くなったからだ。
この200年で人口が4倍に増え、平民にも苗字が必要になったし、墓も必要になった。
この100年で農作地よりも職住近接が重要になり、土地のほうが資産価値をもつようになった。
この50年で身請けしてくれる家の身分よりも、身請けしてくれる企業での役職が重要になった。
この30年。工場制機械工業は成熟し、労動組合などが組織され労働者の権利が確立し、正社員だの非正規だのと新たな身分制度がうまれてきている。
だが、しかし、この10年。
人頭の時代も土地や設備などの資源の時代も終わり、金融と情報の時代になった。
科学技術の発展をみると工場制機械工業すらも終焉の様相が伺える。工業化の時代(Industrial Age)は一段落し知財の時代(Transfer of knowledge)になったそうである。情報革命(Information revolution)では、工場は完全無人化され、コンピューターの頭脳ICは既にコンピュータによってつくられている。工場制機械工業から自動制機械工業になったと言っていい。これらが代替するのは労働層だけでなくホワイトカラーだ。人切り(首切り)がまるでリストラクションの唯一の手段かのように、評価される現状は、モジュール化できない労働層には経済性がないと判断されているからだ。

 
企業同士がM&Aをするときに、当然、無形資産の価値評価(日本がとてつもなく弱い分野)をする必要がある。これには「のれん代」だけでなく、そこに勤めている人材の価値評価(valuation)をする必要がある。人材価値評価は、言葉悪く言えば、まー、奴隷という勘定科目よろしく、企業財産目録に人のリストと値札をつけるような話しなのではあるが、経済的に評価するために必要な仕組みだ。こういう流れは未来においてどうなるであろうか?

 

 

情報化がすすむこれからの10年、職住近接の意味は変わるであろうし、われわれが人権だとおもっているものの常識も50年後にはまるで違うものになっているに違いない。「うわ、この時代の人たちお金で時間を拘束されてたみたいよ」とかいわれるのかもしれない。

 

 

… あと書き。

内容にかなーーりセンシティブなものを含んでいる箇所があるので、かなり回りくどく書いたら、思っていた数倍の長さになってしまった。でも、六曜が差別だとかで揉める地域もあるらしいので正直もう意味わかんないんだけど・・・こんなんでどうだろう?

 


妖怪はいつから墓場で運動会ができるようになったのか


墓場として認識されている現在の形。
四角い石でできた墓の歴史は存外浅い。ここ180年の事である。

603年 冠位十二階
646年 大化の薄葬令 薄葬令、公葬制 ← 豪族の大規模な墓の禁止、庶民土葬指示
685年 冠位四十八階
701年 大宝律令 ← 30位階制、喪葬令
757年 養老律令 喪葬令 ← 庶民の墓の禁止
1612年 寺請制度 ← 領民の戸籍管理
1831年(天保2年) 墓石制限令(葬式石碑院号居士等之儀ニ付御触書)による庶民の墓石許可、 百姓院号禁止令
1873年 火葬禁止令 ← 神仏分離令の関係でだされたが都市部で混乱が発生
1875年 火葬禁止令を廃止
1984年 東京都など土葬禁止(墓地等の構造設備及び管理の基準等に関する条例)

 

薄葬令で豪族が古墳のように大規模化してきたトレンドにはじめて法律という形で終止符がうたれる。
喪葬令では身分のあるものは墓(碑)を立てなさいよという指示がなされた、そして過度なものを禁じた。
これと同時に身分制がつくられたので、身分のないもの(庶民)は身分のあるものと同じようなことをしちゃダメよという命で、事実上庶民は墓を建てることが禁じられた。階層的秩序導入の一貫として碑や墓石が禁じられたわけだ。

 

そこから江戸時代に入り、寺請制度で戸籍(出生転入転出死亡)を管理するようになり仏教と近しくなった庶民。とりわけ地方の豊かな百姓が過度な院号をつけたり墓をつくるようになってしまい、時の政府、幕府は百姓の院号禁止を命じた。その時に同時に墓石の大きさの制限を命じた。「4尺(1.2m)よりでかくすんな!」と制限を課したわけではある。逆にそれ以下のサイズであれば墓を建てていいよということであり、これがどうも歴史上は庶民の墓(墓石)を許した日本でのはじめての制度らしい。これが180年前。

 

由緒のある寺などに行っても、あって天保年間ぐらいでさして古い墓がないのはここらに由来する。偉人クラスでも後世に建てられた碑や墓のようなものはあったりするが、西洋の偉人のように「ここに埋めてあります(物理)」というような墓はほとんどない。徳川将軍家でも霊廟という形で寺と空間そのもので祀るものであり、墓石という形をとるのは将軍家でさえ明治時代まで存命し、神道形式で谷中墓地に埋葬された最後の将軍、徳川慶喜まで時代を下る必要がある。

 

軽く調べるられる範囲で、検索すると、5代将軍徳川綱吉の母 桂昌院(1627年 – 1705年)京都府京都市西京区の善峯寺の墓ではなく遺髪の塚である「桂昌院廟」が、現在の墓石に近しいもののように見える・・・。

 

akkamui212.blog86.fc2.com/blog-entry-663.html
んー、石が新しそうだから再建かなぁ?

 

 

blog.goo.ne.jp/oyamada920/e/0235c712ac6682805930d165c1682cbf

増上寺の宝塔(こちらが墓)を見る限り、仏舎利、ストゥーパに近いものであり、現在のような直方体ではない。

 

東京の祖師谷霊園や谷中墓地には、なかなかに古い墓はあるのだが、300年を遡るような古い墓は・・・?はたしてどうであったか。

 

反例をなにかないかなと探そうと思って、徳川の前、豊臣秀吉の墓とかどうなっているのかなと検索してみた。負ければ賊軍とはよくったもので、そもそもの霊廟は墓は打ち捨てられていて、明治30年になってから再建されたもののようだ。哀れ秀吉。

豊国廟
中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿
明治30年(1897)、秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建され
kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=10&ManageCode=250

太閤にまでなった身分のある人でも山麓に葬るのが通常であったので庶民の墓など推して知るべし。もし、もっとも古い現存する現在のような四角い墓石を知っていたら教えてほしい。
いったい誰の墓なんだろうか?

 

個人の墓石

うちのすぐそばに森鴎外や太宰治の墓がある。著名人の墓といっても明治以降まで生きた著名人でなければ個体識別可能な墓という形での碑はなかなか存在しない。
これより前になってしまうと、土葬が主流だし、そもそも庶民には墓石が存在しないし、これより時代を下ってしまうと、大正中期からは墓地土地不足のために「~家の墓」と纏めていくスタイルになってしまい個人の墓ではなくなる。個人の墓石というと、大正時代から昭和初期のごく限られた時代。
現代はさらなる墓不足のために、集合墓地や宗旨・宗派を飛び越えて、樹木葬だのまででてくる始末。郵パックで遺骨を送って、墓じまいをするだのの話題が社会問題として顕在化してきている。永年永代供養とはよく言ったもので、それまでそうじゃなかったらそう言う必要があり、永続性という観点からもそれは困難であるわけだ。

 

古典落語などを聞いていると、土葬時の手順で、何周忌とかで棺桶の蓋が腐って落ちるから遺族であつまって掘り出して、仕上げるなんて表現がでてくる。なるほど、49日だとか一周忌だのには経験則にもとづいた合理的な意味があったのだなと思うよしである。土地の再利用というかなんというか。棺桶をつくったり埋葬しているならまだよし、雨戸に乗せて、野原に打ち捨てに行くとかまあいろんな弔い方法の風俗が落語程度の古さの口伝では残ってる。

 

火葬が主流になるまで日本では、丁寧に埋葬するのでも土葬がメインで丸桶+座屈の埋葬地に重たい墓石なんて上に置いたら、腐って「仕上がった(落語風言い回し)」時に墓石ごと落ちこんでしまう。半生のときに掘り出したら大変なことになる(落語風言い回し、繰り返すが死者への冒涜とか悪意はない)ので、再度掘り出す時のための目印石がせいぜいであろう。

 

今後100年、長期人口推移からみても、予定される死者数から大正時代から続く墓制度は大きく変わることは容易に想像できるが、じゃあ実際に墓がどう変化していくかの想像はなかなかつかない。いま多磨霊園にいくとかつての分譲地はどんどん小さくなっていっているし、それにともない墓石のトレンドもずいぶん変化したように感じる。

土地用地の問題から山岳信仰的な山中埋葬に戻るような気もするし、遺伝子学的に生体サンプルだけ残しておけばいいやとか、今からは想像もつかない方向になる可能性もある。ま、どうなるんだろうねぇ。我々の生きてるうちの話しじゃねぇから関係ないかもしんないけど。

 

キューブモノリス、四角い墓

仏教はヒンズー教のリンガ(男根象徴崇拝)に強い影響をうけている。なので仏塔は円柱か円錐を模している。卒塔婆(仏舎利塔、ストゥーパ)からもわかるとおり、日本の墓も初期は屋根をつけたりして、いわゆる、えっと、そのような形であった。原始宗教として子孫繁栄を祈念する男女対になったりしているご想像の道祖神に近い。

ちなみにこちらは昨日畑から届いたご立派様である。ぼくは人参の写真を貼っただけで、なので、ある。

 

ま、、、なので当然、四角くはない・・・はずなのだが。

まあ、「何言ってんのコイツ?普通は四角いよな??」っていうなら、わしゃあ全力で土下座せにゃならん・・・が、四角くなったのは、石材屋さんの切り出し都合であろうなというのは想像に難しくはないのだが、他に理由がなにかあるだろうか?地震や雪で屋根をつけてもすぐ壊れちゃうとか、そういう理由で先端部分の屋根がとれていったのは想像はつく。しかし、なぜ四角四面になったのだろう?

 

水戸黄門が1692年に兵庫県神戸市の湊川神社、楠本稲荷神社に建てさせた楠木正成(1336年没)の墓。

「嗚呼忠臣楠子之墓」と墓石に直筆を刻ませて碑石を建立している。水戸光圀公の時代からすでに数百年前に没した人物なので墓というよりは碑である。これが当時たいそう人気になったそうで参拝名所になったそうだ。さすがご隠居さま。名プロデューサーである。で、この「墓」、四角くてなんか「~之墓」も「四角い墓」も日本の初めてを探すとかなりの確率でたどり着いてしまうこの爺さんが四角い墓の犯人なんじゃねぇかという疑惑が・・・。

もしかしたら碑というよりは、馬鹿でかい篆刻(印鑑)なのやも。

kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic27.html
www.minatogawajinja.or.jp/history/

 

西洋の墓

特にキリスト教圏は、来るべき最後の審判、復活の日のために土葬すべしという風習がある。そのため、後世になってから再評価されたような偉人でも墓というのを各所で確認することができる。
ゾンビとかドクロとかあいつら好きすぎんだろと思うのだが、骸骨寺とよばれる納骨堂が骸骨で彩られた教会というのが実にあちらこちらにあることを考えれば文化的背景から当然なのかもしれない。

もっとこれらの墓も東ローマ帝国後期(1204年 – 1453年)や黒死病(1347年ごろ)以降なので、せいぜいが4~500年程度なのではあるが、それでも遺伝子検査するねってレベルで墓所が残っているのはすげぇなと思うのである。

科学者 レオナルド・ダ・ヴィンチ 1515年頃没
文筆家 ウィリアム・シェイクスピア 1616年没
科学者 チャールズ・ロバート・ダーウィン 1882没
画家 クロード・モネ 1926年

教科書にでてくるような人物の、「ここに埋まってます(物理)」は、ちょっと日本人からすると、新鮮な驚きがある。1888年の切り裂きジャックのDNA検査して犯人特定したとか、ありえないじゃないですか。

吉田兼好ここに埋まってます、とか、俵屋宗達はここですよとかはちょっと日本だと無いじゃないですか。
まあ、石の文化圏の話しですね。日本も仏像の中に塗り固められたりするのかな?

 

風化と腐敗

日本は風土の関係から木材だけでなく、腐るのが早過ぎるんですよね。
高温多湿なだけじゃなくて、多雨と冬場の寒さと夏の暑さ。
岩石の風化年数(化学的風化、物理的風化)は何年なんでしょうか?ちょっとぐぐった範囲ではみつけられなかったけど、構造物としては日本だと1000年持たない気がする。超高層ビルとかは限界耐用年数300年想定ときいたことがありますが、墓石も自立構造物として残れるのは300年ぐらいとかなんじゃねぇかな?どうだろう?どうなんですか??

 

東京都 「墓地等の構造設備及び管理の基準等に関する条例」
www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/g1010893001.html

土葬(死体(妊娠四箇月以上の死胎を含む。)を土中に葬ることをいう。以下同じ。)を行う場合の墓穴の深さは、二メートル以上

なんで2mにしたんだろうか??

好酸素菌である腐敗菌が活動できるのが地下30-50cmぐらいの深さまでなので、2mもの深さに掘ったら、腐敗菌が生息できる有酸素土壌より下になっちゃって腐敗にすごく時間かかかまったく腐敗しない可能性が・・・。コンポスト(生ごみ堆肥製造機)とかでも、深く掘り過ぎると、腐ってなくてやり直しになったりするんだけど、今も深度2mで昔みたいな掘り返し運用していないのだとしたら、結構怖いことになってるんじゃないかと思った。1980年からだから・・・。あー・・・。まあそんな運用されてないのかな。。。。

 

 


どこのだれだかを識別するための記号としての名前と歴史


明治維新以降100年かけて増えた人口はこれからの100年でどかんと戻る。

日本長期人口推移2015-12-15 19_10_48

クリックして000273900.pdfにアクセス

総務省 我が国における総人口の長期的推移より

 

人類史上このような大規模な人口減少というものは、破局噴火が理由による飢饉や黒死病などのパンデミックを含めても歴史上類を見ない。75,000年前のトバ山のカタストロフィ破局噴火来だ。もしかしたら情報爆発というのは、噴火と同じ程度のパニックを人類にあたえているのかもしれない。

人口減少、多老化は、未来の各年齢の最大値が決まっている確定事項なのでどうしょうもないとして、問題はそれに伴い何がおこるか?である。

 

近代のシステム、政治システムや、社会保障、または企業の雇用形態、義務教育の形など、仕組みと呼ばれるあらゆるものが明治維新以降につくられたものである。明治維新から2004年に人口がピークを迎えるまで一貫して急激な勢いで人間は増えた。その増える仕組み下で社会を回すためにどんな仕組みがつくられたか、名前や戸籍を中心に歴史をみてみよう。

 

戸籍制度など人々の身分を示す仕組み

1612年 寺請制度 移住、婚姻、死亡時にその地域の寺に請証文を書かせる(←合法的な転居制度の確立)
1871年 戸籍法
1875年 平民苗字必称義務令
1947年 戸籍法(現行法) 戸籍に入った原因と年月日で個人を記録
1967年 住民基本台帳法 氏名、生年月日、男女、世帯主や続柄、戸籍や本籍、住民となった年月日
1985年 グリーンカード構想(廃案)
2015年 マイナンバー法施行
2016年 改正マイナンバー法施行

2015/12/16、つまり今日、最高裁判断で夫婦別姓は合憲という判断がくだされた。
昨今は女性の社会進出が盛んになると夫婦別姓の議論がされるようになったが(労働人口的にはほぼ今がピーク)、そもそも平民に苗字を名乗ることが許されるようになったのは急激な人口増加がおこった1875年。遡ること140年前である。

 

それまでは江戸八百八町とよばれる世界最大の都市でも、「本郷八百屋お七」だの、「質屋遠州屋梅乃」だのと「在所+屋号(生業)+名前」とするだけで、どこの誰だかを一意に特定できた。
産業革命後、工場制手工業から工場制機械工業に産業の主体がうつると、雇われ労働者が増え、人々の所在も動くようになる。「どこの誰べえ」だけでは特定できないようになってしまった。
で、平民にも苗字をあたえて、居住地ごとに戸籍管理をしていく。「苗字(ファミリーネーム)+名前(ギブンネーム)」で、特定するようになった。
さらに社会がすすみ数万人単位の会社がうまれてくると、「どこの」「どちらの」が所属を意味するように変わる。
サラリーマンなら誰しもが持っている名刺という文化をとりあげても「会社名+所属部(+課)+役職+氏名」までが個人の特定情報に必要なものになったしまった。かつて有力氏族のみがもっていた「苗字」という勢力をあらわす記号を「企業名」が代替するようになる。氏名のうち、苗字が結婚などにより変わってしまうと混同や特定が困難になり経済的損失をこうむるってんで、夫婦別姓が議論されるようになった。住まう場も所属もかわりうる現代において、場所と名前だけで一意個体識別できない以上、苗字の変更は社会的立場の消失につながりかねないからだ。

 

海外の歴史をみても、ナザレのイエスのように、「地名+名前」程度で識別が可能だった時代から、ファミリーネームやミドルネームだの洗礼名だの短縮名だの、時代を追うごとにいろいろ増えている。定住地を持たない民族などでは、親の名前を先入先出法でエンキュー、デキューしていく方法などもある。例えば、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ(アブドゥルムッタリブの息子アブドゥッラーフの息子ムハンマド)「本人名+父名+祖父名(+部氏族名)」など。サウジアラビア、アラブ圏や~スタンのペルシャ語圏などでみられる。父親名や母親名を継承し、名前のチェーン数を増やす(フォローキーを増やす)ことで一意に特定できるユニークキーにしているわけだ。

 

日本も人口が一国で1億人とか超えると、もはや、名前という伝統的な限定数のハッシュキーだけでは、個体識別が困難になってきた。戸籍ではふりがなを必要としないハックを利用して、読み方で差をつけるキラキラネームが増えたのなんかは同名の存在で苦労した親世代の現れなんじゃないかとも考えられる。

大規模にお金と人を突っ込んでも、社会保障の名寄せができなかったことは既に立証済みだ。もはや氏名だけでは特定できなくなっている。だから運営のためには16桁の番号が必要なのだ。名前や戸籍は、我々人類の数が増えてきたことに由来する仕組みによる解決法なのである。

 

でも、それもこれも人口が増えてたから必要なしくみなのである。これからの100年、日本では極端に人口が減る。今、我々が常識だとおもっていることの大半はこの100年の急激な人口増加という文化背景のもと培われたことだ。

これまでの常識よりももしかしたら、コミュニティの広さという意味では江戸時代ぐらいが近い。

 

そうなったら何がおこるか??

 

人口が減少し、さらにはフラットに世界と繋がったネット社会になると、「あざな、いみな」なんかがハンドルネームとして復権してくるかもしれないね。真名(マイナンバー)がバレると魔法に掛けられちゃう世界。いや、まあ冗談だけれども、まー、それくらい現代からすると突拍子もない社会的知性の変化が訪れるんじゃないでしょうーか。

 

さ、どう思います?