世の中の大半はプログラミングを理解できない人間ばかりだ


商店街みたいなオールドエコノミーの飲み会でうっかり「プログラミング言語」と言ったら、「FAXみたいにピーヒョロロロロってやつ?」と言われたことがある。冗談半分にだけれどもたぶん半分は真剣だ。世の中にはプログラミングを理解できない人間が存在するというが、そもそも世の趨勢はプログラミングどころか、コンピューターに系統指示をするなんてことに触れたことがない人のほうが是である。ギーク界隈は忘れがちだが、プログラミングがもつ論理構造が理解できない以前にその機会に触れられないない人達のほうが依然多い。

世の中にはプログラミングを理解できない人間が存在する
cpplover.blogspot.com/2018/05/blog-post_29.html
人間には、それらしくでっち上げられた偽物と、本質を理解した上で作られた本物を判別するのが難しい。一方コンピューターは違う。コンパイラーはソースコードがいかに本物のソースコードらしい見た目をしていようとも、文法違反のソースコードを判別できる。

就職適正試験を抜けプログラマーとして職を得るような人でも、採用後に真に適正があるとおもうような人は20人に一人もいないんじゃないのかなとのが体感だが、これは小学生が分数を理解できるかどうかで躓く「9歳の壁」に似たものがあるように感じる。抽象化という概念を獲得していないと、何をやりたいのかという要求定義できないし、仮説の設定ができないの機能設計に必要な共役化ができない。冗長なプログラムでも書ければまだましなほうで、そもそも、先のブログで指摘されるようにsyntaxの壁を越えられない。

 

「AI vs 教科書が読めない子どもたち」での調査でも話題になったが、文字は読めているけれども文意が拾えない子たちがかなりの割合で存在するそうだ。意思疎通のプロトコル変更に対応できる人類の割合は、さらに少ないだろう。「赤信号だったがいけると思った」という、重大な認知過誤をのぞけば、言語による意思疎通の齟齬をある程度は互いに許容しあって成立しているのが現代社会である。

 


cf.平成29年版 情報通信白書:情報通信機器の普及状況
www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/h29/html/nc262110.html

日本のパソコン普及率は75%程度あるが、ごらんの通り日本は情報通信関係の教育においては圧倒的後進国であり、また、22歳以上の大学への入学率もOECD加盟諸国で最低である。つまり、一度大学などを卒業してしまうと、再教育を得る機会がないままに老人になっていく。新しい技術や技能を習得する機会がないのである。

 

今後、社会の制度設計などを担う現在40歳以上に、一体誰がプログラミングを教えるというのか。教師には強制的なファカルティ・ディベロップメントがあるかもしれないが、それ以外の人への教育は?

 

スマホの使い方がわからず、ドコモのサービスセンターに並ぶ老人はまだ向上心がある。しかし、同じような道具の進歩においてけぼりなっては、深刻なデジタルデバイドで社会全体が機能不全におちいることは目にみえる。

セキュリティや社会機能はそれを構成する要素の一番低いところが最低水面になる。厳重な鍵がいくつもついたドアの横に空けっぱなしの窓があれば、それがその家のセキュリティレベルだ。

人間の足の速さや頭の良さなどは、道具や機械をつかうことで、個体差など誤差の範囲にするほどに平準化できる。
弱視であってもメガネがあればいいし、デスクレシアであっても補助器具を使えばいい。
計算が遅くても電卓を使えばいいし、字が汚くても口述筆記や印刷ができれば機能は満たせる。

こうすると道具を使っても乗り越えられないものを障害し、介助を必要なものとも言い換えるこができるのではないか。

 

移動速度という観点かれみれば自転車や自動車や電車の前に、個人の足の速さや自走持久力はあまり関係がないが、なにがしかの理由があって乗り物を利用できない場合にはそれはが障害になる。

記憶力の多寡はネットにつながった端末が利用な人とそうでないの前では、足の速さのように生体機能を競う程度のものであろうが、これも、情報端末がそもそも利用できないのであればこれももはや障害だ。

 

生体機能などは成長や加齢、傷病によって変化する程度のものだ。道具の利用によって向上した機能は、その性能差によってその分布は分散を取るが、その分散に、道具を利用できない人たちの群があると、それはとても離れた二項分布になるだろう。

 

道具が機械になってそれが結果に寄与する影響が大きいほど、深刻な問題となる。どんなに片方がドリブンして先にすすんだところで、結局のところ社会の基準水面は低い方に合わさるのである。

 

公共情報網無き都市は、地上に如何なる文化施設を持つも、それはスラムである

三鷹市が公共下水道普及率100パーセントを達成したのは昭和48(1973)年。当時の市長、鈴木平三郎は公衆衛生を専門とする医学博士でもあり「公共下水道無き都市は、地上に如何なる文化施設を持つも、それはスラムである」として、受益者負担金制度や市政運営への企業性の導入など大胆な手法で、全国初の下水道完備都市を達成した。
www.city.mitaka.tokyo.jp/c_service/011/011729.html

これを現代風に言い換えるならば、「公共情報網無き都市は、地上に如何なる文化施設を持つも、それはスラムである」ともいうことができる。というか積極的に言っていきたい気分。

ちなみに、三鷹市は世界情報先進都市とか表彰されたそうだが公共施設でwifi利用可能なところは一個もない。なんたるちあ。

プログラミングは反復継続することを処理するのにはとても便利なものだ。

税務署上の定義で商売というのは反復継続するもののことを言うそうであるが、であるならば、プログラミングは経済にも大きく効いてくるはずなのだ。だが、そもそもプログラマー界隈以外でプログラミングの重要性を訴える人をなかなか目にしない。

そりゃそうだ。世の中はプログラムがなにものであるかを理解する機会もなく、ワードやエクセルを教えてくれだとか、ホームページをつくってくれだとかはまだ可愛いほうで、パソコン直してだとか、スマホの使い方がわからないだとかの、ちょっとパソコンに詳しい便利屋さんになってしまうのである。

 

でも、まあまずは隗より始めよ。ってことで、みなさん草の根でがんばりましょう。草が生えすぎて、草葉の陰になるまえに、なんとかなるといいねww


科学技術週間国立4研究施設の一般公開


JR中央線沿いの三鷹と京王線沿いの調布は電車などがつながっておらず南北の行き来が困難である。その交通の空白地とも揶揄されるエリアになかなかおもしろい研究施設などが集まっていて4月22日、科学技術週間の恒例行事として、海上技術安全研究所(NMRI)、交通安全環境研究所(NTSEL)、電子航法研究所(ENRI)、そして、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の4研究施設の一般公開がおこなわれた。

このエリアは武蔵野台地のヘリとなっていて崖地となっている。そのため井の頭や深大寺のように掘らずとも自然と湧き水が出て綺麗な川が流れ出る地域である。青森についで日本で二番目に古い土器は井の頭公園でみつかったものだそうで、縄文時代には湧水が文化揺籃に重要だったことが推測できる。

湧水と緑豊かなのでわさび田などがいまだにあり、昔の人がここに国立の天文台を立てようと考えたぐらいには空がよくみえた山の稜線なのである。江戸期は一泊ぐらいでいける行楽地として、明治後期には別荘地として開拓され、その後、中島飛行機などの軍需工場として住民の流入が相次いだ。江戸の大火や、東京大空襲のときの疎開地として街が興った。

東京と八王子を結ぶといっておきながら三鷹と府中で終わっている東八道路は通称30メートル道路とも呼ばれ、比較的道幅が広くまっすぐな道路だ。真偽は定かではないのだが、一説によると、戦時緊急時に滑走路としても転用可能なように考慮されているとかなんだとか。本当のことはわからないけれども、多分転用はできるようにはなっている。

上記の4つの国立研究所はその30メートル道路沿いにある。滑走路をそこにつくるなら、駐機場にするにはこれくらいの土地は必要だってくらいバカ広い。

なぜ三鷹みたいな内陸に海の研究所や、宇宙の研究所があるんだよ!?と思うかもしれないけれども、おそらく戦中戦後、まだ人口密度が高くなかったころの名残だろう。現在、学園研究都市といえば、筑波だが、それくらいの郊外感覚で、電気通信大学や国際基督教大学、そして国立の研究所がたてられたんじゃないかなと推測する。全部推測だ。あはは。

 

毎年、商店街に科学技術週間のポスター貼ってと送られてくるので存在はしっていたのだが、今回始めて見に行ってきた。これはいいものだよ。うん。前置き長くなりまくってしまったけれども、写真でもアップしようとおもう。

 

海上技術安全研究所(NMRI)

この馬鹿長い建物は、長さ400m×幅18m×水深8mもある水槽がはいっている建物。いっそあと600m足して東京オリンピックのカヌー会場にしよう。

高校生時分水泳部だった自分らは、この近くの25mプールでせこせこ泳いでたので、一度でよいからこの400mプール泳いでみたかった。

 

波の発生装置とかがある。お魚ロボットとか。

極地の氷の上をどうやって進むかとか、氷が貼られているプールとかがあった。めちゃめちゃ暑い夏日だったが、圧扉のなかは寒い。宇宙よりも遠い場所だ。

 

交通安全環境研究所(NTSEL)

時速60キロ相当の風洞体験とか、交通シミュレーターとか。こちらも、鉄道運転体験装置とかあったのだけれども、子どもたちが写り込んでいるので、後ろ姿だけのこの写真だけ。

電子航法研究所(ENRI)

管制系とかシミュレーター系は子どもたちに大人気で、長いことならばいないといけなかったので残念ながら、駆け足にてちら見。

 

宇宙航空研究開発機構(JAXA)

宇宙より遠い場所から、宇宙へ。

みんな大好き。スパコン。

みんな大好き大きなタービン。

みんな大好きばかでか風洞。

まあ、他にも機体とかいろいろあったけれども、まあこんな所で。

 

あんま人がはいらないからか、よくわからない植生になっていて、雑草の一本から楽しかった。

背高泡立草の群生とか、やたら茎の細い酸葉(すぱんぽ)の群生とか、15cmも背丈がない菖蒲だかあやめだかあからない紫の花とか、で、この紫のこいつは何者だろう。あんま見かけたことがない気がするので、パシャリ。

 

 

まあ、そんなわけでみんなも来年はいけばいいとおもうよ!

 


穢と女人禁制とお相撲


外見だけ似るだけで悟る人がいない時代のことを末法というそうだ。伝統や作法、様式というものは経験から合理を悟ったものにより体系化されるものが多いが、時が経ち様式を真似るばかりで形骸化され、真髄から遠のけばまさに末法の世。悟るものなしの世の中である。

大相撲舞鶴場所で、土俵上で多々見良三市長(67)があいさつ中に倒れ、心臓マッサージなど救命処置をしていた女性たちに、女性は土俵から下りるようにとの場内アナウンス

主催した実行委員会の説明では、会場に待機していた消防署員が自動体外式除細動器(AED)を持って処置を交代したため、日本相撲協会の関係者が「下りてください」とアナウンスしたとしている。

 

実行委員会の説明は、現場からそのように報告され説明したのかもしれないが動画で検証されるご時世にこの言い訳はあまりにつたない。

 

土俵上で挨拶の最中に倒れた元医師である市長。駆けつけた緊急救命中の看護師でもある女性に土俵は女人禁制だから降りろと場内アナウンス。呼び出しをするだけの予定であったアナウンス担当の行司にそこまで責任を求めるのも酷ではあるが、よい機会なのでいろいろ検討してみよう。

 

救命曲線

女性はわずか数秒で取り囲むだけの人をかき分け、初見で心肺蘇生の救命処置を開始している。歴戦がなせるすばらしい判断力と行動力だ。

卒倒の原因を考えるに大別して貧血、脳卒中か心臓だろうが脳か心臓かは素人目には(プロにも)区別がつかない。一次救命処置としては、「意識も呼吸もなければ、原因にかかわらず、まずは胸骨圧迫心臓マッサージをする」のが正解だそうだ。

ドリンカーの救命曲線やカーラーの救命曲線が示しているとおり、救命処置開始時間が早ければ早いほど生存確率があがる。今回は衆人環視のもと倒れた&市長が元医師で仲間の看護師が来ていたという不幸中の幸いが効いて、この対応の速さなのだろう。市長も命に別状はないという。通常はこうはいかず、後遺症がのこったり生命を落とすことになる。

どうみても場数を踏んでる救護処置中の女性を退けさせるような行為は、この場合においては生命維持装置を外すようなもので、結果によっては保護責任者遺棄致死や殺人罪に問われてもおかしくない。アナウンスのタイミング的には後から駆けつけた直接救命には携わっていないスカートの女性達に気がついて言ったのかもしれないが、緊急救命は交代でおこなわれるべきで、ここでも判断を誤っていると言わざるをえないのだろう。

 

近代国家は、罪刑法定主義のもと運営され法律に反するルール、例えば奴隷契約を科すような従業員規則などは無効となる。規範や習慣も同様で、たとえ信教の自由が認められた権利だとしても、それは法の範囲内においてであり、生贄として殺人をおこなえば法により罰せられる。

 

ある特定の組織の規範が法律の上にくることはなく、もし、組織内の金科玉条を法律の上におけば、不法団体である。暴力団や狂信化した宗教団体のように、法体系から公然とはみ出る組織でないならば、改善するべきであろう。閉鎖性、集団凝集性が強い脳筋組織だと、うっかり法の枠を越えても気が付かないことがある。伊調馨選手におこなわれたパワーハラスメントのレスリング協会もそのたぐいかもしれないですな。

 

 

横綱 男女ノ川

女と相撲で思い出すのだが戦前、戦中、男女ノ川という横綱がいたそうな。おとこおんなでも、だんじょでもなく、みなのがわである。

この横綱、なんと我が家のお隣さんだったらしい。

空襲の匂いが色濃くなってきた頃、この横綱のお屋敷が道を挟んであったで横綱の屋敷があったので敬意をはらって家を離して建てたと聞いている。この横綱、選挙に出たりなんだりして、身を持ち崩してしまったり、いろいろ悲壮感漂うお話しがあるのだが、それはまたのお話。ググると伝え聞いている話しと違う感じなのだが、本を読んだわけでもないので、おあずけ。

相撲界に伝統があるとすれば、横綱が引退後しくじることなのかもしれない。

 

女人禁制と興行

神事の相撲もあるかもしれないが、木戸銭(入場料)が儲けられているのであるからそれは興行である。神事相撲と勧進相撲はわけられるべきものだろう。江戸時代には「一年を二十日で暮らすよい男」と謳われた力士も、いまでは全国津々浦々年中興行三昧である。こんな過密スケジュールじゃぁ格闘スポーツ化も厳しかろう。

慣例として女性が禁じられているもののなかに、歌舞伎役者がある。歌舞伎も始めは出雲の阿国という女性がおこしたものであった。河原で踊られていた歌舞伎も、やがて劣情を催す踊りに過激化し、抱きに行けるアイドルが如き遊女の見世物になり、売春巣窟となってしまった歌舞伎茶屋にたいして幕府がとうとう役者の女人禁制を言い渡したのは1629年のことである。

 

相撲という言葉も史書に最初に登場するのは采女による女相撲であったそうだ。

これも1648〜1673年頃には、勧進相撲、辻草相撲が幕府により禁じられている。女性が裸にまわしをつけて相撲をとったり、女人と男性盲人による取り組み、男女が裸で観客に劣情を催すように相撲をとるなど過激な見世物と化した結果、禁じられてしまったのだ。

その後、勧進相撲は再び許されるようになるが、女人禁制はおそらくそのころの自主規制の賜物であろう。興行でとにかく人を呼ぶことだけに気をくばれば、「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」のようにひたすら過激化していくよりない。うちはストロングスタイルで売っていますんでグロいのもエッチなものもないですと言明するのに女人禁制は便利な言葉だ。

 

ルールの形骸化

女子高生youtuberが道行く人におっぱいもませて捕まるご時世になってしまったが、View数稼ぎたいやらかし素人が無茶をするように、ルールは自己抑制できない人には必要なものだ。

賢者は歴史に学ぶというが、賢者は稀にしかいないから賢者なのであって、だとすると大半のものは体験に学ぶのが常道だ。細かい失敗の体験や失敗の共有は有意義。

ルールや法が厳しすぎると、事件が未然に防がれてしまうので、やらかしは減るが、結果への接触が減るので、なんでそのルールがあるのかわからなくなる。山火事がおきていない地域の山火事は大規模になりがちだ。ルールの緩和と、そこでやらかされる体験を繰り返して人類はちょっとづつ前にすすむのがよいのではないか。

 

各地の風変わりな俗習にしても、それがなす効用をわすれると、様式だけ伝えのこすことになる。

形骸化された習慣、型だけ残ってその真意は忘れられてしまうものである。

なんで男女で相撲をとってはいけないのかとか、子供にかんたんに言い含めるのが難しいことでも、女人禁制だからとか、神様が怒るからとか、宗教を利用して規範化するのは洋の東西歴史を問わずおこなわれてきたことである。ダメなものはダメに次ぐ便利ワードがそこにはある。

 

穢(けがれ)と神道

まず日本は明治維新という反乱革命があったことを思い出さなければならない。

明治維新の神仏分離によって廃仏毀釈運動をおこなった背景には、幕府(前政府)が寺請制度、過去帳などで住人を管理していたため、それをそのまま利用すると幕府の影響力を排除しきれなかったということがある。そこで、明治政府は神社を寺から分離独立させ、氏子制度をつくった。神社の祭神改めもおこない、二礼二拍手一礼のような参拝儀礼もこの当時様式統一されたものである。

神道自体はとても古いものであるが、明治維新により一旦一つの宗派(国家神道)にリセットされたような状態である。様式の形骸化や真意の断絶もこのとき進んだものと考えられる。

 

神道の「桟れ思想」では「死」「血」「出産」をそれぞれ「死桟(=黒不浄)」「血桟(=赤不浄)」「産桟(=白不浄)」という桟れとみなし,忌避する。そのさい,桟れには,触れることで伝染するという「触桟観」が古くからあったことから,黒不浄や赤不浄,自不浄の状態にある人々を一定期間隔離するという習慣があった。 [相撲における「女人禁制の伝統」について]

現代のバイオハザードな観点からみても、病原菌やウイルスの感染から守るために、物理的封じ込めである隔離は最も効率的かつ初歩的な正しい選択肢である。

電子顕微鏡もなかった頃に、百万分の1メートルの菌や、十億分の1メートルのウイルスを人間がみつけることはできないが、発酵や醸造の先進国である日本は、それらをノウハウ的に蓄積していたのかもしれない。お酒の醸造において、コンタミ(汚染)を避けるため、納豆(枯草菌がうつる)を食うなとか、今でもそういうノウハウ生きているのではないか。

 

死桟、黒不浄

死亡の判定は医学が発展した現代でも医師にしか許されていない、それなりの技能を必要とするものである。

いわんや中世をばである。死者が蘇った、棺桶の中から出ようとした跡があるなどの怪談奇談が伝わるのは日本だけじゃない。

 

人が死ぬときの原因は、現代のように心筋梗塞や癌などではなく、よくわからないものを食ってとか、流行り病にかかってとかそういう原因が多かった。

ペスト以前、抗生物質も死体を焼くというバイオハザードに対する生物学的封じ込め方法をもたなかった時代、宿主が死んでしまうほどまでに培養された菌や強力なウイルスは、まさに死体からも接触感染していた。現代においても、エボラ出血熱が西アフリカでなかなか収まらない理由のひとつに死者に触れて弔うという俗習が悪さをしているのである。知識があり完全防備の医療団ですら感染者がでる強力な感染力を持つウイルスの前に無防備すぎる。

正体不明の原因で病死した死体は、近代設備の整った監察医でも油断ならぬものであろう。

天然痘、結核、ペスト、コレラ、赤痢、チフス、マラリアを前に、中世において取れる技術は隔離と熱湯消毒、アルコールや塩を撒く、ぐらいしかない。

神道では修祓式で、酒や塩で清めた大幣(おおぬさ)で頭を払うが、本当に物理的にハタキのように大麻ではたいていたら疫学的にはそれなりの効果は見込めそうだ。現代のクリーンルームにはいるときのエアシャワーのようなもので、口に近い部分を手を使わずに払うことには大きな意味がある。

神道には手や口の禊の様式が多いが、こういうのも効果的である。手水舎での最後に柄杓の柄の清め方などを見るに、これが中世から教育されていたのであれば、公衆衛生的には大きな効果が見込めそうだ。

 

血桟、赤不浄

血液をタブーにしている宗教は多い。ゾンビ映画だと、噛まれたり体液を浴びたりすると感染するパターンがあるが、これも当たり前で、ウイルスの感染経路がそのようなものに代表されるためだ。

肝炎ウイルスのように、経口感染、傷口などを通じた血液感染があげられる。AIDS、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)は皮膚からの接触感染や飛沫感染はしないが、血液感染する(精液や母乳は血液が変化した体液)。血液に百万分の1メートルの菌はいないが、十億分の1メートルのサイズのウイルスはいるのである。ウイルスに皮膚を突破するような運動組織はもっていないが、傷口や、目や口、性器などの粘膜からであれば感染できる。

 

日本の中世において、屠殺が穢多の専業であった理由には、倫理的忌避感以上に、中世より世界でも最も人口密度の高かさを維持するために生まれた、おそらく公衆衛生的な合理的理由があるのではないか。

インドにいまだのこるアウトカーストにも屠殺や糞尿汚物処理を専門とする職業があるが、吐瀉物や糞尿もまた病気の元(ウイルス)の塊なのである。日常的に触れていれば、活ワクチンを日常的に打っているようなもので、ウイルスに低曝露しつづけるとその獲得された免疫から病気にはならないかもしれないが、そうでない免疫をもたないものが触れてしまうと感染する恐れがある。現代で言うならインフルエンザに感染しているのに、発症しないまま歩き回るスーパースプレッダーだ。ゴム手袋もなかった時代、触れると穢れる(触れると伝染る)はある意味で正しかった知見なのではないか。

菌は塩で殺せるケースがあるが、ウイルスを不活化させるのにはアルコールや、またはただ単に洗い流すことが有効である。土俵のそばにはそのどちらも用意されている。

ただノロウイルスのようにアルコールが効かず塩素系でしか不活化できない場合は、中世は為す術なしだな。ま、現代もだけど。

 

産桟、白不浄

初宮参りは生後31〜33日の頃におこなわれるので、白不浄はこの頃にあけるものだと考えられる。新生児が自己の免疫を獲得をするのがちょうどこの頃だと考えられる。

新生児がこれより前に人混みにでたりしてしまうと、まだ免疫を獲得していない赤ん坊や、産褥期(産後6~8週間)の母親には身体生命にかかわる重大な問題となってしまうだろう。

穢はまるで、そのものが汚れている、ご不浄かのように扱われるが、できるだけ触らない、隔離することで守られる命もあるのだ。

 

感想、その他、参考等

触らぬ神に祟りなしというが、どんな強烈な菌やウイルスも触らなければおおよそ障ることもあるまい。古の賢人の知恵は大したものだと思う。穢れとかになってしまうと、歴史的にセンシティブなので、あまり深掘りされないが科学と俗習はいちど突き合わせをするべきかもしれない。

今回の大相撲の女人禁制や、穢は、先人が後人達の命を守るに役立つであろうから作った戒めで、よりにもよって、それをつかって生命を危機に晒すようなことはしちゃならねぇと思うのでござんす。

 

人種差別や、職業差別につなげてはいけないが、どのような理由があってそのような俗習や慣例がうまれたのかを想像することは大切だなとおもう。

もしかして昔しから砂糖が豊富にあれば、土俵に撒くのは怪我の治りも早く殺菌効果もある砂糖だったかもしれないしね。

 

参考URL

ミックスファイト
ターザン後藤&デスピナ後藤VSリッキー・フジ&工藤めぐみ戦が、日本国内で初めて行われたミックスファイト
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%88

 

相撲における「女人禁制の伝統」について

クリックして59-1-zinbun-06.pdfにアクセス

女相撲
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%9B%B8%E6%92%B2

末法思想
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95%E6%80%9D%E6%83%B3

救命中「女性は土俵から下りて」 大相撲巡業、市長倒れ
www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180404000146

意識も呼吸もなければ、原因にかかわらず、まずは胸骨圧迫心臓マッサージを
www.j-circ.or.jp/about/jcs_press-seminar/index06.html

「史上最弱の横綱」一代記
www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20070527

出雲阿国
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%98%BF%E5%9B%BD

ドリンカーの救命曲線
www.daiichi-g.co.jp/hotai/info/educare.asp?cd=070302030000