昨秋スーパーでちいさめのりんごを見かけた。JAZZというニュージーランド産の品種であった。英国人がこの小さいりんごの事をAppleではなくCOX(コックス)と呼んでいたのを思い出す。XとCKの発音を間違えると猥語になるので日本人発音では注意が必要だ。
COXとはなんであったのかと今になって調べてみると品種名のことらしい。ふじとか王林みたいなものだろう。品種名が有名になりすぎてそれそものが呼び名になるパターン。ラーメンじゃない!二郎だ!!とでもいえばよいのだろうか。
なんでも、りんごというのはカスピ海沿コーカサス地方が原産地で、その「コーカサス地方の(Caucasus’s)」から由来してCOXと命名されたそうな。コーカサス地方は白人種(コーカソイド)の分岐地でもある。アダムとイブ、林檎には、なにやら深い意味があるような気がするけれど、さすがにそこまでやると話しがとびまくりなので今回はやめておく。
はてさて、日本で林檎というと青森県が産地としても名高いが、いったいなぜ遠くコーカサス地方原産の果物なぞが青森県が名産地になったかご存知のかたはいるだろうか?
1884年ごろに旧津軽藩士族11名が本格栽培を始めたからだそうだ。やがて士族の世に終わりが来ると予見した当時の先見の明をもつリーダーが藩士たちに仕事として本格栽培を開始させたのだとどこかで聞きかじった。それが成功しついには林檎といえば青森県の名産と呼ばれるまでになったのだ。
自分がおもうに、これこそが「働き方改革」だと思う。
世の要不要は移ろいやすい。外部環境に応じて働き方を変えるのはリーダーなりの主な職責であるように思う。
昨今、国会では裁量労働制なるものが審議されているそうで話題になっている。裁量を奪って誰かの監督下で労務に従事させることが労働という日本語だと認識していたので、無料賃金みたいかんじで、もうなんていうかちんぷんかんぷん。KISS。シンプルにしておきなよ愚か者って感じ。
タスクを切り出したり分解できる能力を持つ前に、制度として「裁量労働制」なんかやっても、誰も幸せになれないよね。機能しない。売上10億あげろ。ただし手段は問わない(裁量はおまえだ)って転嫁がなされるだけな感じ。ミッションもヴィジョンもストラテジーもない根性論まだ好きなの?
労働市場が十分に流動性していれば、無茶を言うだけの企業なぞ自然淘汰がすすんでいい感じなのだけど、日本はほら、長期住宅ローンとか保険や銀行審査とかで職業選択の自由の自由こそがほぼ有名無実化しているじゃない?現実的に考えると厳しいよね。
裁量労働制が10年ぐらい前に導入されたソフトウエアエンジニア界隈などでは、誰かが20日かかって終わらせる仕事を1時間でできる一騎当千のスーパープログラマーがいたとしても、そもそも成果物で価値評価をできる仕組みなどなく、結局はその制作に必要だった時間、人月評価でしか値踏みできなかったのでエライことになった。残業し何連泊もして結果をだせない人のほうが売上あがるみたいな。しかたないので、出来るエンジニアに新人いっぱいつけて抱き合わせ販売するみたいな。
「定額働かせ放題」などと口悪くいうものもあるようだけど、ああ、この言い方は、事の本質を捉えていないように思う。
かつて士族の世が終わったように、今、終わろうとしているものは労働集約的な仕事だ。やがてくる未来、もしくはもうきている現在は何時間働いたところで、な~んの価値にもならないことが顕在化する価値評価社会である。働くという意味と、稼ぐという意味が分離しつつある。
何時間働いたところで金にならない人は金にならないし、稼ぐやつは労働時間とは関係なく稼ぐようになる。
労働がそのまま生産性に結びついた農奴の時代や、モジュール化された規格工業社会のなかでは、決められた手順でマニュアル通りに働いていれば、最終的な生産性や品質にほとんど差がでない。人間をモジュール、交換可能な歯車として運営し、組織を大規模化することで経済的メリットを得てきた。しかし、工業化が十分に進み、高度情報化がおこると、ある点から人間より機械のほうが十分に柔軟で安くなる、そんな分岐点がある。
ソフトウエア開発の現場では、平均的な100人を合計した生産性が、誰かひとりの生産性に及ばないことなど日常茶飯である。昨今、花形のコンテンツ産業で考えても労働者としてのイラストレーターを雇い入れて100人雇い入れて経済的価値を持つ労務制作がおこなえるだろうか?作曲家では?小説家では??稼ぎ頭の金融産業では?トレーダーで無秩序に100人雇い入れたりなんかしたら?99人が稼いでもバカタレひとりで吹き飛ぶよね。
スキルとリソースは経営資源になるがワークはただの経費。
労働が非採算部門の経費としてしか認識されなくなったのは20年も前だ。だから非採算部門は分社化や国外などへのアウトソースがすすみ、権利などを集約したホールディングス化がすすみ、その結果、ブルーカラーの職が奪われアメリカファーストだのとブロック経済への回帰の試みがうまれだしているのだ。
「働き方改革」なるものは「労働時間を減らして、生産性を増やしたい」がための試みなのだと理解している。
新たに林檎なる未知のものの栽培に挑むのが「働き方改革」で、その後、品種改良したり植樹に挑むのが「生産性革命」であってほしい。希望。どこかで誰かが植えた林檎の木から実をあまさず毟るのを「生産性革命」、何時間もいでよいか認可制にするのを「働き方改革」じゃああまりにも愚昧。
やがて、人口の95%ぐらいの人に働いてもらうよりもいっそのこと寝ててもらってたほうが、トータルとしての合理性があがる世の中がくるとしたら、じゃあ、どうやって既存の「労働者なるもの」をくいっぱぐれさせないようにできるだろうか?どんな仕事をつくれる?労働をどうやって再定義するのって議論をしたほうが有益じゃない?
裁量労働性がいきつくところは1to1の契約社会ではないだろうか。タスクを明確化させ、フリーランスのように達成する職務を明確にしたうえで取引するか、もしくは仕事ごとに製作委員会のような社会組織をくむのか、それとも一定の社会的地位や保護と引き換えに、職務制作や職務発明をするのかはわからんが、両極はこの2方向だろう。機能すべきは選択の余地と、発注者や請負人の公開ログ、レジュメかな。
新種の昆虫を発見することが裁量自由な仕事として任せられた場合、それは誰にでもできる仕事ではないし、誰にでも成果があげられる仕事ではないだろう。
このような仕事において成果で報酬を結ぶのか、取り掛かりで最低限の報酬を求めるのかなどは、契約者間合意による。しかし、このような卑近な契約関係にみても、個人の信用は資本の信用に及ばないので、お金を持っているほうが信用力が高く、力関係に差がでて、契約は不平等なものとなりがちだ。まあ、請負側になんらかの保護措置が必要になるのかもね。
まあ、銀行とかがギルドみたいな中間組織が依頼費をデポジットして、指名依頼かオープン依頼かにしたらいいんじゃないの。あとは働きの信任と貨幣はわけちゃえばいいじゃないとか思うけれど、これもまた長くなるので今日はおしまい。
・・・あれ、なんの話しだっけ。
# 参考
青森県庁内のりんご
www.pref.aomori.lg.jp/sangyo/agri/ringo-rekisi02.html
青森りんごの歴史年表
www.aomori-ringo.or.jp/presentation/sec03/para01/
裁量労働制とはこういう制度(佐々木亮) – 個人 – Yahoo!ニュース
news.yahoo.co.jp/byline/sasakiryo/20180222-00081906/
大胆提言!日本企業は今の半分に減るべきだ | 国内経済 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
toyokeizai.net/articles/-/209674