穢と女人禁制とお相撲


外見だけ似るだけで悟る人がいない時代のことを末法というそうだ。伝統や作法、様式というものは経験から合理を悟ったものにより体系化されるものが多いが、時が経ち様式を真似るばかりで形骸化され、真髄から遠のけばまさに末法の世。悟るものなしの世の中である。

大相撲舞鶴場所で、土俵上で多々見良三市長(67)があいさつ中に倒れ、心臓マッサージなど救命処置をしていた女性たちに、女性は土俵から下りるようにとの場内アナウンス

主催した実行委員会の説明では、会場に待機していた消防署員が自動体外式除細動器(AED)を持って処置を交代したため、日本相撲協会の関係者が「下りてください」とアナウンスしたとしている。

 

実行委員会の説明は、現場からそのように報告され説明したのかもしれないが動画で検証されるご時世にこの言い訳はあまりにつたない。

 

土俵上で挨拶の最中に倒れた元医師である市長。駆けつけた緊急救命中の看護師でもある女性に土俵は女人禁制だから降りろと場内アナウンス。呼び出しをするだけの予定であったアナウンス担当の行司にそこまで責任を求めるのも酷ではあるが、よい機会なのでいろいろ検討してみよう。

 

救命曲線

女性はわずか数秒で取り囲むだけの人をかき分け、初見で心肺蘇生の救命処置を開始している。歴戦がなせるすばらしい判断力と行動力だ。

卒倒の原因を考えるに大別して貧血、脳卒中か心臓だろうが脳か心臓かは素人目には(プロにも)区別がつかない。一次救命処置としては、「意識も呼吸もなければ、原因にかかわらず、まずは胸骨圧迫心臓マッサージをする」のが正解だそうだ。

ドリンカーの救命曲線やカーラーの救命曲線が示しているとおり、救命処置開始時間が早ければ早いほど生存確率があがる。今回は衆人環視のもと倒れた&市長が元医師で仲間の看護師が来ていたという不幸中の幸いが効いて、この対応の速さなのだろう。市長も命に別状はないという。通常はこうはいかず、後遺症がのこったり生命を落とすことになる。

どうみても場数を踏んでる救護処置中の女性を退けさせるような行為は、この場合においては生命維持装置を外すようなもので、結果によっては保護責任者遺棄致死や殺人罪に問われてもおかしくない。アナウンスのタイミング的には後から駆けつけた直接救命には携わっていないスカートの女性達に気がついて言ったのかもしれないが、緊急救命は交代でおこなわれるべきで、ここでも判断を誤っていると言わざるをえないのだろう。

 

近代国家は、罪刑法定主義のもと運営され法律に反するルール、例えば奴隷契約を科すような従業員規則などは無効となる。規範や習慣も同様で、たとえ信教の自由が認められた権利だとしても、それは法の範囲内においてであり、生贄として殺人をおこなえば法により罰せられる。

 

ある特定の組織の規範が法律の上にくることはなく、もし、組織内の金科玉条を法律の上におけば、不法団体である。暴力団や狂信化した宗教団体のように、法体系から公然とはみ出る組織でないならば、改善するべきであろう。閉鎖性、集団凝集性が強い脳筋組織だと、うっかり法の枠を越えても気が付かないことがある。伊調馨選手におこなわれたパワーハラスメントのレスリング協会もそのたぐいかもしれないですな。

 

 

横綱 男女ノ川

女と相撲で思い出すのだが戦前、戦中、男女ノ川という横綱がいたそうな。おとこおんなでも、だんじょでもなく、みなのがわである。

この横綱、なんと我が家のお隣さんだったらしい。

空襲の匂いが色濃くなってきた頃、この横綱のお屋敷が道を挟んであったで横綱の屋敷があったので敬意をはらって家を離して建てたと聞いている。この横綱、選挙に出たりなんだりして、身を持ち崩してしまったり、いろいろ悲壮感漂うお話しがあるのだが、それはまたのお話。ググると伝え聞いている話しと違う感じなのだが、本を読んだわけでもないので、おあずけ。

相撲界に伝統があるとすれば、横綱が引退後しくじることなのかもしれない。

 

女人禁制と興行

神事の相撲もあるかもしれないが、木戸銭(入場料)が儲けられているのであるからそれは興行である。神事相撲と勧進相撲はわけられるべきものだろう。江戸時代には「一年を二十日で暮らすよい男」と謳われた力士も、いまでは全国津々浦々年中興行三昧である。こんな過密スケジュールじゃぁ格闘スポーツ化も厳しかろう。

慣例として女性が禁じられているもののなかに、歌舞伎役者がある。歌舞伎も始めは出雲の阿国という女性がおこしたものであった。河原で踊られていた歌舞伎も、やがて劣情を催す踊りに過激化し、抱きに行けるアイドルが如き遊女の見世物になり、売春巣窟となってしまった歌舞伎茶屋にたいして幕府がとうとう役者の女人禁制を言い渡したのは1629年のことである。

 

相撲という言葉も史書に最初に登場するのは采女による女相撲であったそうだ。

これも1648〜1673年頃には、勧進相撲、辻草相撲が幕府により禁じられている。女性が裸にまわしをつけて相撲をとったり、女人と男性盲人による取り組み、男女が裸で観客に劣情を催すように相撲をとるなど過激な見世物と化した結果、禁じられてしまったのだ。

その後、勧進相撲は再び許されるようになるが、女人禁制はおそらくそのころの自主規制の賜物であろう。興行でとにかく人を呼ぶことだけに気をくばれば、「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」のようにひたすら過激化していくよりない。うちはストロングスタイルで売っていますんでグロいのもエッチなものもないですと言明するのに女人禁制は便利な言葉だ。

 

ルールの形骸化

女子高生youtuberが道行く人におっぱいもませて捕まるご時世になってしまったが、View数稼ぎたいやらかし素人が無茶をするように、ルールは自己抑制できない人には必要なものだ。

賢者は歴史に学ぶというが、賢者は稀にしかいないから賢者なのであって、だとすると大半のものは体験に学ぶのが常道だ。細かい失敗の体験や失敗の共有は有意義。

ルールや法が厳しすぎると、事件が未然に防がれてしまうので、やらかしは減るが、結果への接触が減るので、なんでそのルールがあるのかわからなくなる。山火事がおきていない地域の山火事は大規模になりがちだ。ルールの緩和と、そこでやらかされる体験を繰り返して人類はちょっとづつ前にすすむのがよいのではないか。

 

各地の風変わりな俗習にしても、それがなす効用をわすれると、様式だけ伝えのこすことになる。

形骸化された習慣、型だけ残ってその真意は忘れられてしまうものである。

なんで男女で相撲をとってはいけないのかとか、子供にかんたんに言い含めるのが難しいことでも、女人禁制だからとか、神様が怒るからとか、宗教を利用して規範化するのは洋の東西歴史を問わずおこなわれてきたことである。ダメなものはダメに次ぐ便利ワードがそこにはある。

 

穢(けがれ)と神道

まず日本は明治維新という反乱革命があったことを思い出さなければならない。

明治維新の神仏分離によって廃仏毀釈運動をおこなった背景には、幕府(前政府)が寺請制度、過去帳などで住人を管理していたため、それをそのまま利用すると幕府の影響力を排除しきれなかったということがある。そこで、明治政府は神社を寺から分離独立させ、氏子制度をつくった。神社の祭神改めもおこない、二礼二拍手一礼のような参拝儀礼もこの当時様式統一されたものである。

神道自体はとても古いものであるが、明治維新により一旦一つの宗派(国家神道)にリセットされたような状態である。様式の形骸化や真意の断絶もこのとき進んだものと考えられる。

 

神道の「桟れ思想」では「死」「血」「出産」をそれぞれ「死桟(=黒不浄)」「血桟(=赤不浄)」「産桟(=白不浄)」という桟れとみなし,忌避する。そのさい,桟れには,触れることで伝染するという「触桟観」が古くからあったことから,黒不浄や赤不浄,自不浄の状態にある人々を一定期間隔離するという習慣があった。 [相撲における「女人禁制の伝統」について]

現代のバイオハザードな観点からみても、病原菌やウイルスの感染から守るために、物理的封じ込めである隔離は最も効率的かつ初歩的な正しい選択肢である。

電子顕微鏡もなかった頃に、百万分の1メートルの菌や、十億分の1メートルのウイルスを人間がみつけることはできないが、発酵や醸造の先進国である日本は、それらをノウハウ的に蓄積していたのかもしれない。お酒の醸造において、コンタミ(汚染)を避けるため、納豆(枯草菌がうつる)を食うなとか、今でもそういうノウハウ生きているのではないか。

 

死桟、黒不浄

死亡の判定は医学が発展した現代でも医師にしか許されていない、それなりの技能を必要とするものである。

いわんや中世をばである。死者が蘇った、棺桶の中から出ようとした跡があるなどの怪談奇談が伝わるのは日本だけじゃない。

 

人が死ぬときの原因は、現代のように心筋梗塞や癌などではなく、よくわからないものを食ってとか、流行り病にかかってとかそういう原因が多かった。

ペスト以前、抗生物質も死体を焼くというバイオハザードに対する生物学的封じ込め方法をもたなかった時代、宿主が死んでしまうほどまでに培養された菌や強力なウイルスは、まさに死体からも接触感染していた。現代においても、エボラ出血熱が西アフリカでなかなか収まらない理由のひとつに死者に触れて弔うという俗習が悪さをしているのである。知識があり完全防備の医療団ですら感染者がでる強力な感染力を持つウイルスの前に無防備すぎる。

正体不明の原因で病死した死体は、近代設備の整った監察医でも油断ならぬものであろう。

天然痘、結核、ペスト、コレラ、赤痢、チフス、マラリアを前に、中世において取れる技術は隔離と熱湯消毒、アルコールや塩を撒く、ぐらいしかない。

神道では修祓式で、酒や塩で清めた大幣(おおぬさ)で頭を払うが、本当に物理的にハタキのように大麻ではたいていたら疫学的にはそれなりの効果は見込めそうだ。現代のクリーンルームにはいるときのエアシャワーのようなもので、口に近い部分を手を使わずに払うことには大きな意味がある。

神道には手や口の禊の様式が多いが、こういうのも効果的である。手水舎での最後に柄杓の柄の清め方などを見るに、これが中世から教育されていたのであれば、公衆衛生的には大きな効果が見込めそうだ。

 

血桟、赤不浄

血液をタブーにしている宗教は多い。ゾンビ映画だと、噛まれたり体液を浴びたりすると感染するパターンがあるが、これも当たり前で、ウイルスの感染経路がそのようなものに代表されるためだ。

肝炎ウイルスのように、経口感染、傷口などを通じた血液感染があげられる。AIDS、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)は皮膚からの接触感染や飛沫感染はしないが、血液感染する(精液や母乳は血液が変化した体液)。血液に百万分の1メートルの菌はいないが、十億分の1メートルのサイズのウイルスはいるのである。ウイルスに皮膚を突破するような運動組織はもっていないが、傷口や、目や口、性器などの粘膜からであれば感染できる。

 

日本の中世において、屠殺が穢多の専業であった理由には、倫理的忌避感以上に、中世より世界でも最も人口密度の高かさを維持するために生まれた、おそらく公衆衛生的な合理的理由があるのではないか。

インドにいまだのこるアウトカーストにも屠殺や糞尿汚物処理を専門とする職業があるが、吐瀉物や糞尿もまた病気の元(ウイルス)の塊なのである。日常的に触れていれば、活ワクチンを日常的に打っているようなもので、ウイルスに低曝露しつづけるとその獲得された免疫から病気にはならないかもしれないが、そうでない免疫をもたないものが触れてしまうと感染する恐れがある。現代で言うならインフルエンザに感染しているのに、発症しないまま歩き回るスーパースプレッダーだ。ゴム手袋もなかった時代、触れると穢れる(触れると伝染る)はある意味で正しかった知見なのではないか。

菌は塩で殺せるケースがあるが、ウイルスを不活化させるのにはアルコールや、またはただ単に洗い流すことが有効である。土俵のそばにはそのどちらも用意されている。

ただノロウイルスのようにアルコールが効かず塩素系でしか不活化できない場合は、中世は為す術なしだな。ま、現代もだけど。

 

産桟、白不浄

初宮参りは生後31〜33日の頃におこなわれるので、白不浄はこの頃にあけるものだと考えられる。新生児が自己の免疫を獲得をするのがちょうどこの頃だと考えられる。

新生児がこれより前に人混みにでたりしてしまうと、まだ免疫を獲得していない赤ん坊や、産褥期(産後6~8週間)の母親には身体生命にかかわる重大な問題となってしまうだろう。

穢はまるで、そのものが汚れている、ご不浄かのように扱われるが、できるだけ触らない、隔離することで守られる命もあるのだ。

 

感想、その他、参考等

触らぬ神に祟りなしというが、どんな強烈な菌やウイルスも触らなければおおよそ障ることもあるまい。古の賢人の知恵は大したものだと思う。穢れとかになってしまうと、歴史的にセンシティブなので、あまり深掘りされないが科学と俗習はいちど突き合わせをするべきかもしれない。

今回の大相撲の女人禁制や、穢は、先人が後人達の命を守るに役立つであろうから作った戒めで、よりにもよって、それをつかって生命を危機に晒すようなことはしちゃならねぇと思うのでござんす。

 

人種差別や、職業差別につなげてはいけないが、どのような理由があってそのような俗習や慣例がうまれたのかを想像することは大切だなとおもう。

もしかして昔しから砂糖が豊富にあれば、土俵に撒くのは怪我の治りも早く殺菌効果もある砂糖だったかもしれないしね。

 

参考URL

ミックスファイト
ターザン後藤&デスピナ後藤VSリッキー・フジ&工藤めぐみ戦が、日本国内で初めて行われたミックスファイト
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%88

 

相撲における「女人禁制の伝統」について

クリックして59-1-zinbun-06.pdfにアクセス

女相撲
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%9B%B8%E6%92%B2

末法思想
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95%E6%80%9D%E6%83%B3

救命中「女性は土俵から下りて」 大相撲巡業、市長倒れ
www.kyoto-np.co.jp/top/article/20180404000146

意識も呼吸もなければ、原因にかかわらず、まずは胸骨圧迫心臓マッサージを
www.j-circ.or.jp/about/jcs_press-seminar/index06.html

「史上最弱の横綱」一代記
www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20070527

出雲阿国
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%98%BF%E5%9B%BD

ドリンカーの救命曲線
www.daiichi-g.co.jp/hotai/info/educare.asp?cd=070302030000


AI vs. 空気をよまない大人たち(1)


曰く、シンギュラリティはおきないそうである。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち 著:新井 紀子国立情報学研究所教授の本を読んだ。奥付を読むと、2018/2/15発行で2018/3/27でなんと既に6刷りである。


私はこの本の印税は1円も受け取らないことを決めました。// 「教育のための科学研究所」に全額が寄付されます P.286

あとがきにこう書いてあってすごいなと思ったんだけど、印税を寄付扱いだと、税がエライコッチャになるんじゃないのとか、一般社団法人の代表理事だから職務著作になるのか?じゃあ寄付がわりの贈与とかできちゃうなとか、いらんことが気になった。

 

はてさて、本論にもどる。

AIは意味を解さないからシンギュラリティはおきないそうだ。だが、自分はこの本を読んでもそれでもシンギュラリティっておきるんじゃないという結論になってしまった。きっと、なにかを読めていないのだろう。

 

シンギュラリティアレルギー

マーケティング用語としてのAIやシンギュラリティに辟易して、アレルギーをおこす気持ちはわかる。最近ほんとひどい。AIの専門家として矢面に立たされ続ければ、シンギュラリティなどおきないと強弁したくもなるだろう。

 

「真の意味でのAI」の定義を自分自身よりも少しでも能力の高い「真の意味でのAI」をつくりだせることとし、その、厳密な意味での「技術的特異点」はこないと断言できるほどに、予断を持った未来しか見れなくなっているのは荒みすぎていると感じる。可哀想だ。数学では表せないからできないからという。では、世界は数学でできているという言葉はなんだったのか。

 

数学で定義できず、統計的手法しか「ものさし」がないので意味を理解できない。だから計算機が知性を獲得することはありえない。その上で、計算機でしかない機械が「真の意味でのAI」なることはない。まぁ、わかる。

だが、それでも、ある人工の知性体が自己より「能力の高い」複製体を作る未来は、そう遠くもないよね。
理由は後述する。

 

知性と計算機

AIは計算機ですから、数式、つまり数学の言葉に置き換えることのできないことは計算できません。では、私たちの知能の営みは、すべて理論と確率、統計に置き換えることができるのでしょうか。残念ですが、そうはならないでしょう。 P.118

はたして、AIが未来においても計算機上にあるという仮説は正しいのだろうか?

 

人間には知性があると仮定する。

現在までのところ人間が人間を工業的に生産することはできない。

しかし、倫理にさえ目をつむれば技術的、論理的には人工子宮や、3Dプリンターなどをつかって細胞の積層化技術など三次元組織体構築ができるようになったことなどをみてもわかるように、ある程度のところはできるようになってきていて、人間や、人間の脳機能のみを将来部品として再現することはそう遠くない未来にくるだろうことが予想される。

小脳をPEZYのスパコンで再現できたよみたいなシミュレートの話ではなく、生化学のほうね。ちょい前のSFよりも奇妙な段階に到達していて、ネズミの脳みそのなかに霊長類のタンパク質を再現したり、豚の中で人間の臓器をつくることもできるようになっているのを踏まえると、創作の世界だって、遠慮しちゃうような奇妙な現実に我々は生きている。

工業的に生産された人造人間は計算機なのであろうか?

これはおそらく否である。

人造人間は自分よりも賢い人造人間をつくることはできないだろうか?

これもおそらく否である。

では、人造人間には知性は宿り得ないと言えるのだろうか?

人間に知性があるとするのであれば、これも否定しきることも難しいんじゃないかな。

 

AIはノイマン型コンピューターで可動するものである前提は果たして必要なのだろうか?

量子コンピュータが登場し演算能力があがったところで知性の獲得にはなんの役立にもたたないと著者は考えるようである。しかし、有機化学合成や、無機、流体や粉体、遺伝子解析や、創薬なんかは、まさに組み合わせ爆発の世界で戦っていて、いままでえっちらと失敗を重ねることで、現時点でもっとも成功にちかいようなものをとりあえずの正解としてお金を時間と運に突っ込んできた世界である。演算能力の向上は、その繰り返しの速度を圧倒的にあげてくれることだろう。

 

のこぎりの性能向上について未来予測をしたところで、家が建つ予想にはなろうはずもない。のこぎりはあくまで、家を建てるための道具である。計算機も同様にただの道具にすぎない。

 

計算機は「真の意味でのAI」にはならないだろうが、AIをつくるのには十二分に役に立つ。

「真の意味でのAI」という目的達成のために「計算機」という道具に縛られすぎてはいないだろうか。無論、上記にあげたような人造人間もあくまで反例のひとつで、そのようなアプローチではないかもしれない。技術は複合かつ有機的に発展していくもので、ひとつの道具をとらまえてその道具の性能から未来に予断をもってしまうのは、ちと科学者としては寂しい。白いカラスは一匹いれば十分だ。

 

だって、人間は仕組みを完全に理解するより前に飛行機を飛ばしてしまう生き物なんでしょ。

 

 

2007年のアニメ、天元突破グレンラガンのメインシステムは敵大将の生首を生体部品として採用していて笑った。これを見ながらこのエントリーを書いたからこんな話しになった可能性は否定しきれない。10倍返しだ!

 

創作に意味の理解は必要か

直木賞を受賞するような小説を書いたり
新境地を開く楽曲を作曲したり
ピカソばりの傑作を描いたりする
意味を理解できないAIにそのようなことができるはずがない P.130

昨今の人工ダイヤモンドはいよいよもって鑑定士でも天然と人工物の区別がつかなくなってきたそうだ。

もし、何かに特化した「弱いAI」が、確率的に創作したものであっても、アウトプットを受け取る側の人間がその区別をつけられなくなったら、ではいったい本物と偽物の違いとはなんであろうか。出処や来歴?

訓練された人でも区別ができない精巧な偽物と本物の本質的違いとはなんであろうか。

マルセル・デュシャンの「泉」っちゅう便器をおいただけの前衛アートを見て、「○○は意味を理解できない」との作文に、○○にはいるのは、AIだろうかヒトだろうか、作者だろうか観客だろうか。正解は一意に決まるのだろうか。

もしかしたら、創作はオリジナルと、そのイミテーションのイテレーションなのかもしれないが、そんなことはオリジナルがつくれる側の人間がAIを書けるのだから、強いAIである必要すらないのではないか。

ここは弱いAIでもやがて到達できる領域なのではなかろうか。

うん。この項はまだ表現が難しい。まとめきれない。

 

AIは徹頭徹尾数学だけ?

「花子は太郎に好かれている」// その通りの意味を教える道具は少なくとも数学にはありません。// コンピューター上で動くソフトウエアに過ぎないAIは徹頭徹尾数学だけでできているのです P.138

計算機は意味を理解できないというが、ソフトウエアを記述するプログラムは意味を定義したり、動作を記述するための言語で、数学にはない時間変化に応答する方法も持ちあわせている。

 

一般的にBOTなAIをつくろうとしたら、

  • 外部環境などをスキャンする(センシング)
  • 取得できた情報に重み付けする(アルゴリズム)
  • 行動する(アクション、これがアクチュエータ/動作機構になればロボットになる)

簡単に言うと、これの繰り返しである。時間応答のなかで、外部環境の変化に応じて、振る舞いをアルゴリズムに従って変える。

この場合であれば「太郎」「花子」のオブジェクトを定義してあげて、太郎オブジェクトの花子への評価値に「好き」っていう状態を書き加えてあげればよい。

太郎.likes{花子}みたいに配列にぶっこんでいく書き方でもいいし、表現方法は山ほどある。

プログラム作成者ごとに、定義が違ったり、好きクラスを実装するのかとか、そのクラスが何を意味するのか、その後の動作もことなるので文面どおりの「その通りの意味」にはならないかもしれない。

でも、コンパイル(翻訳)も実行も必要ないなら、テキストをそのまま生で保持すればいいだけじゃ??ちゅうか・・・文面通りの意味ってなんだろう?

 

 

すこし横道にそれる。

かねてから思っているのだが、法律などは自然言語ではなく、なぜ論理型言語で書かないのだろうか。

霞が関言語、官僚言葉は比較的そのようになっているらしいが、コーディング規約のない、コード(法律)なんてクソコードだとおもう。不文律に従って成文化するなんてファンキーすぎやしないか。

コードがしっかりしていれば、裁判官や学者ごとのコンパイラによって解釈がわかれたりすることもないだろう。法律の継承関係や、定義がはっきりするから、附則ばかりの法律運用やめてリファクタリングもできる。

循環参照や日本の悪名高いダブルバインドされてて何もできないとかも、テストが書けて、顕在化できるしいいことづくめじゃないか。

法律が論理記述されれていれば、交通事故などぐらいであれば状況データや写真などを数枚食わせるだけでAIが裁判官をすることもできるようになるだろう。 そうなったときに、AIができないでことは、情状酌量の余地があるのかとか昨今はやりの感情を斟酌したり、忖度である。

 

制度なんてものは、数学のようにデジタルに定義できるようにつくっておいて、伸長が必要な情緒の部分は人間がやればいいのにと思う。

「AIってのは駄目だね、粋や酔狂もわからねぇ唐変木だ。」

ここからでいいんじゃないか。20年も経てば「あいつもだんだんわかってきたじゃねぇか」ってなるんじゃないの。だって、準備された教師データ群の比ではない量のデータが世界にはあって、フィールドにこそ神は宿るんだから。

 

 

他、リンクとか

・・・。長くなってるので、そろそろエントリーをわけようかな。

 

他、リンク。

一般社団法人 教育のための科学研究所
www.s4e.jp/

 

遺伝子操作によりマウスの脳を霊長類のように変異させることに成功
sign.jp/be8760e0


森友関係文章のPDFを文章にして比較する方法


NHKがまとめページにて変更後と変更前PDFを公開した。

www3.nhk.or.jp/news/special/moritomo_kakikae/

北朝鮮関連とか、まとめページをつくってくれるようになった。NHKのWEBの中の人がんばってるよね。

 

さて、森友関係については、いろいろ言いたいこともあるのだけど、まあ、いろいろな部分はおいておいて、無駄な労力をかける人たちが出る前に、ああ、既に一日経過しているので時遅しかもしれないけれども、変更前と変更後の文章の比較をおこなう方法を案内しておいたほうがよいように感じた。

 

 

画像やPDFのテキスト化

EvernoteやgoogleDriveを使えば自動でOCRしてくれるようになった。いい時代である。
電子データを印刷して、わざわざ汚れたスキャナで取り込んで作ったようなデータでも、再電子テキスト化してくれるのである。

やり方は簡単、ぶっこんで、開くだけである。一応やり方を書いておく。

アップロードして右クリック、Googleドキュメントで開く。以上だ。

こんな感じに上に画像。下にテキストが出る。

 

 

くそ汚れた画像のテキスト化

今回のような2ページ印刷されてたり、変なところに変な記号がはいっていたりすると、文字認識アルゴリズムがうまく動かないので、ページのスクリーンショットをとって画像にしてからOCRをかけることにする
スクショは別に何使ってもいいけれども、winの場合はGreen shotをつかっているので一応案内しておく。

www.vector.co.jp/soft/winnt/art/se505369.html

問題文書。いきなり1つ目の文章がくそ汚い。
汚すぎるのでPDFを拡大してから画像化する。

 

ここまで汚れていると流出経路を特定するために、わざと汚しているのかもしれないけれども、酷いね。省庁って、もしかして、わら半紙にガリ版刷りなのかなと思う程度に酷い。

ここまで汚いのは流石のgoogleさんも想定していないので、手前で画像的な加工が必要である。こういう汚れのときは画像編集ソフトでトーンカーブをつかおう。photoshopを使ってもいいが、うちみたいな貧乏人は無料のGIMPというフリーの画像編集ソフトもあるのでそれで案内する。photoshopでも編集方法は一緒ね。

 

こういう汚れ系はトーンカーブを右上を上に、左下を下にすれば結構落とすことができる。線画とかからデジタル化したいときにつこーたらいいよ。ただ、今回みたいに文字の濃さと同じぐらい汚いと無理だね。ほんとなんだろうFAX?

 

でも、ま、ひと手間でこれくらいにはなる。

ちっとも読み取れなかったのが、まああとは文章修正ぐらいでなんとかなる程度には読み取れるようにはなった。

 

 

変更部分比較

あとはテキスト化した文章を比較すればいい。diffとかcompareって呼ばれる機能。んー。atomのコンペアのプラグイン入れてとかいうのは説明するのがしんどいので、懐かしのDFとかでどうだろう。

www.vector.co.jp/soft/win95/util/se113286.html

 

変更されている行を色違いで出力してくれる。

・・・。これじゃわかり難い?

 

wordの変更履歴

まあこんな事をしなくても、文章を作成した元の電子ファイルが残ってりゃ、変更履歴ボタンを押されていれば、いつ誰がどこを更新したかなんて残っているんだけどね。eガバメントってなんじゃったんだろうね。

 

コード管理システム

誰かがgithubにあげればいいじゃないと言っていたが、githubのようなコード管理システムをつかえば、今回のような誰が、いつ、なにを改変したんだかわからないようなことで混迷することもなかっただろう。プログラムはコードと呼ばれるが、法律もコードと呼ばれる。公文書はなんだかわからないけど。人間の法律はコンパイル通りそうもないよね。

 

震災直後、写真に写り込んだ避難所の名簿を文字起こしするとかいう、ソーシャルな働きは価値があったと思う。今回も、PDFで公開された情報をgithubで市民団体とかが、登録したりして可読性を高めるとかいう動きはあってもいいかもしれない、が、そもそもが、無駄なことだと考えると残念でしかない。オープンデータとして提供されていれば、とか、もっといろいろできることもあろうに残念だ。

 

ドイツ連邦の法律がGitHubで管理されるようになったってお話しは、もうずいぶんと昔のニュースであったように思う。gitとかで管理されていれば履歴を追うことも、どこが変更されているかも、誰が変更したかも追うことができる。

github.com/bundestag/gesetze

右上のコミットログに表示されるように文章のフィンガープリント(指紋の意味ね)もあるので、誰かが悪意をもって差し替えるには、ちと困難なようになっている。文章の内容をシードにMD5などで暗号化(ハッシュ化)をおこなった結果なので、内容を書き換えると結果の暗号化も変わってしまうわけだ。

これらの暗号は文章を種に生成した不可逆なもので、暗号を複号しても文章にはできないが、同じ文章からは同じ暗号ができあがる。ま、言ってみれば、ある文章を15文字おきに拾い読みしたら同じ文章からは同じ文字列ができあがるよねみたいなもの。するってぇと、つまり、内容を秘匿にしたままフィンガープリントだけは公開しても、いいよねっていう運用ができる。

 

ちなみにこのようなテクノロジーは15~6年も昔からある技術である。ハッシュ値をさらにシードにしてチェーン化すれば、内容の連続性担保できるし、さらにそれを公開台帳に記しておけばいいんじゃねというブロックチェーン技術は、こういうところに根ざしている。ブロックチェーンだって技術的には7~8年ぐらい前のお話しだ。

話しがそれた。

で、今の技術で何ができるか。

電子化して誰かがつくった書類をわざわざ印刷して、押印して、さらに電子化するとかいうお役所仕事がなされている。で、なにかがおきたときにはどこにあるんだかわからないとか、俺の原本は108種類あるぞ!的なことがなされるわけだし、検証も労力がかかって無駄である。無駄である。無駄である。無駄である。無駄無駄無駄ァァアアァァアアアア!

 

無用の用と呼ぶには、あまりにも。やらなくてもいい仕事をやって仕事を増やす。よくないよね。

誰かの仕事がヘリますように。