ワーク・シフトを読んでおもったことなど書く。
**序章
16歳のころ私はアイアンブリッジとよばれる鉄でできた橋を見上げていた。18世紀後半、産業革命が起きた象徴なのだという。渓谷にかかる姿こそ優美ではあるが文明を誇示するような感じはない。だがこの橋こそが純度の高い鉄が生産、加工できるようになり、鉄で橋をかけられるようになったという人類の文明進歩の重要な証なのだ。
この橋があるウエリントンという古きよき片田舎の駅から、しばらく行くと州都のシュルーズベリーに出る。ここには、『種の起源』で名をのこしたチャールズ・ダーウィンの生家がある。図書館のような生家のまえには銅像があった。それが誰の銅像だったのかいま思い出した程度の記憶なのだが、この像を右手にゆるやかな坂をのぼり川をわたり学校をすぎるとフライドポテト屋さんがある。50ペンスで新聞紙の包装紙いっぱいにポテトを揚げてくれるのだ。塩をわしゃわしゃかけて、ポテトをひたすら食べる。めっぽううまい。産業革命も種の起源も腹ペコの前には無意味なのである。産業革命を得て中産階級は食うために働くようになったが中3階級はいつだって腹ペコなのが世の常なのである。
**働くという意味の変化
人類の平均寿命が30歳にも届かなかった2万年以上前の狩猟採集社会においては労働とはすなわち食べるものを確保するということとほぼ同義であった。初歩的な農耕が発明され保管可能な麦やトウモロコシ、米のような穀物が生産され交換が可能になると、直接生産とは結びつかない生産の効率をあげるという作業も社会的に価値を持ちだした。より多くの木の実を運ぶためのカゴを編む作業であったり、効率的に耕すための道具をつくるという仕事である。
それそのままでは食べることができないモノをつくったり、コトを務めて食べ物と交換する。その交換手段として貨幣がうまれた。お金はその流動性の高さからより多くの種類の仕事をつくりだした。余剰生産が保管蓄積され交換することができるようになった。
産業革命を迎えるまで、たいていの仕事には熟練までに永い期間が必要だった。非熟練者がつくったものとの間に明確な性能差があったからだ。ヘンリー・フォードがベルトコンベアーをつかいひとつの仕事を誰にでもできる仕事に分解したときから、労働の効率が分析評価されはじめた。熟慮された生産管理システムは成果物に非熟練工と熟練工の間に顕著な差をなくす方向に改善を重ねられた。作業手順はマニュアル化され機械化され個人の技量が最終製品の品質の差とならないよう部品はユニット化された。そして誰にでもできるように規格化された仕事はやがて誰がやっても成果物が均一化されたものになっていった。
働くということの意味も食べ物に結びつくものから、お金と交換するために労務を提供するという意味合いへと変遷した。20世紀終わりから21世紀はじめにかけて情報革命が起きると、さらなる変化がおきた。距離による差が奪われ、作物は実る前から取引され、お金は空を飛び、設計図は海をわたり、物が陸を巡るようになった。
そのような追求された効率化は働くことが意味のないひとを生みだしてきている。その人物が関与しないことにより結果として全体の生産性があがる事態がおきだしたのだ。またはその頻度が増え傾向にある。距離を超えて、依頼をできたり簡単に複製できる世の中において、相対的に価値が劣るものしか提供できない非熟練者に経済的な価値をつけることが難しいのだ。
効率化が進めば進むほど経済的な価値を守るために会社組織は絶え間ないリストラクションを強いられるようになった。企業の存在価値を守るためには投下した資本より生産したものの価値が少ない縮小再生産はなされるような振る舞いはあってはならないのだ。無駄は常に削ぎ落とされ最適化されていく。
シェイクスピアの作品をつくれるのはシェイクスピア一人で、凡百の人物を集める意味はない。多くのものが作られ作ったものの成果が傑物であったためにシェイクスピアはシェイクスピアとして名を残しただけだ。しかし現代では雇用を守るというために一つの仕事をよってたかって分けあっている。労働集約型の重工業社会ではそれが通用したのだが知的労働に求められる職能がシフトするとそのごまかしは困難になりつつある。
複雑な計算を小学生に手伝ってもらう余地などはないのである。距離が仕事の遷移を妨げていたころはその地域で上位に入っていればよかったが、情報革命以後は競争の範囲は世界にひろがる。世界で上位にはいらないのであれば、その労働が生み出す価値は大きく下がることになる。
もし社会全体が全くもって一分の資源の無駄のない究極に最適化されたとしたならば、2番手以降の経済価値はどうなるであろうか?
田舎の個人商店の品揃えはその国で最高の品揃えができる店と比較され、何か製品をつくっても大型資本が作成した量販品と比べられ、芸能などにおいてもは最盛期の過去の自分と比較される。相手はいつだって最高のパフォーマンスをするどこかの誰かだ。過去の自分とさえも競合する。
機械化や情報システムは、反復処理することに圧倒的な強みをみせる。このような発展が予測される基では近い将来、「働く」ということの意味はさらに変化することになるだろう。同時に「働かない」という言葉の意味の変化にも直結することになる。働けるけど怠惰で働かない。病気や老齢で働けない。そして、新たに『働いても経済価値を生み出せないから働けない。』
**トランスヒューマン
火も扱えず農耕もできなかったころの人類と産業革命をした人類は同一であろうか?生物学的に?社会学的に?
籠屋の担ぐカゴで移動してた旅人と超小型モビリティでスマートフォンのナビに従う我々ははたして同一であろうか?わずか数百年で食べているものも変化し骨格も違う。このまま変化がすすめば、人類そのものがいずれ現生人類からは遺伝的に異なるものとなるかもしれないし、医療による遺伝子治療やバイオテクノロジーの発達により、ホモ・サピエンスの亜種がうまれるかもしれない。または生体電子デバイスを組み込んだサイボーグのようなものもでてくるかもしれない。遺伝的に近縁種がでてくるだけでなく、有機体ですらない可能性もある。
亡くなった人の位牌にその人の生前の人格情報がすっぽり収まってしまうことが技術的に可能になったとして、現代人には肉体を失っても永遠と話しかけてくる故人など悪夢でしかないが、だがしかし、いったいその位牌から話しかけてくる「人格情報構成体」は一体何と定義したらよいだろう?我々はソレにいったいどのように接したらよいだろうか?
倫理的にはともかく、そのような現生人類とは本質的に異なったデミヒューマン、トランスヒューマンが将来現れないとする可能性は排除できない。
インドネシアなどではサルを訓練しヤシの木を登らせ実をもいでもらうのだそうだ。サルは人間の庇護をうけるかわりにヤシの身を取るという労働を提供する。共助共生関係にあるといえる。
奴隷制度や荘園制度にも同じような共助関係があったとも、その再興があるとも思わないが、トランスヒューマンと現生人類は今後どのような関係を築くのか?
人類ではないナニか別の高度知的構成体の誕生まで現行の科学技術の発展を見越せば30年もかからないだろう。その時、人間が働くという意味にはどういう意味が生まれているのだろうか。生産はAIにより管理される。しかし、人々は働くことの意義はうしなっていないだろう。サルにサルの本分があるように人間には人間の本分があるのだ。
**人工知能アシスタント
バーチャル秘書「おはようございます、ご主人様。ご主人様の能力は本日も統計上、人類の下位40%に属したままですのでご主人様にやっていただく必要のある仕事はありません。チームメイトのために仕事には参加されないほうがよろしいかとおもいます。おやすみなさい。」
2005年NASAのディープ・インパクト計画では地球から一億3000万キロ離れたテンペル第一彗星にインパクターを撃ち込み彗星が巻き上げる粉塵の成物が調べられた。光の速さで通信できたとしても7分以上かかる距離で衝突のベストポイントを最終決定したのは搭載された自動制御AIであった。
アメリカがアフリカやパキスタンなどで反政府組織の幹部らを無人偵察機による襲撃で謀殺してまわった軍事介入は果たして人間同士の争いと記録されるのであろうか?遠隔操作され自動制御で動く飛行機が人を殺す。 これがもっと効率化されたら?人間の命を奪う最後のボタンを押すのはいつの時代まで人間であり続けることができるのだろうか。
効率が最優先された未来社会では、小人が閑居して不善をなさぬためだけの目的で仕事が与えられるかもしれない。絵柄を揃えるためにボタンを押したり、クリックするだけの簡単なお仕事です。
「ねぇ、AI、ぼくの仕事はいつになったらまわってくるのかな?」
**コ・クリエーションの未来
ミニ起業家が活躍する未来というのは既に兆しがあって、SOHO(Small Office、Home Office)という形や社会起業家などという言葉にも象徴される。地域ごとのクラスター(集合)こそできつつあれど、相互依存、共存共栄を築くような「エコシステム」(生態系)はまだ日本ではできあがっていない。
「インパナトーレ(Impannatore/イタリアの繊維産業由来の単語)」ミニ起業家たちを結びつける仲介にあたる部分についてはコワーキングスペースがそれにあたるのではないかと思うが現段階日本においては機能するまでには至っていない。人々の働き方は部品、ユニット化して、技能や労務の提供が必要に応じて提供されるオンデマンド化することになりそうだ。
次はコ・ラボラトリー・カフェができたらよいなと考えている。いろいろな人の実験的な取り組みのハブになるようなカフェ、人が出入りする空間。コ・ラボラトリーでコラボでもすすめば楽しそうではないか?
研究開発というのはコストセンターだ。非採算部門ではあるが、これがなくては進歩がない。製造の仕事、設計やデザインの仕事、できあがったものをサービスする仕事。これらは生産性というものさしで価値評価できる。
しかし研究などについては投下資本に対して効果予測がおこない難いし、基礎研究などにいたってはそれが重要な発見であっても商品化まで30年かかったりすることがある。資本の回転効率が求められる近代企業活動には難しい投資だ。短くなりつづけるプロダクトサイクルと真っ向からぶつかる分野である。
将来価値が予測しにくいものについては偶発性も重要な競争資源となる。偶発性はダイバーシティ(多様性)を重要な要素とする。コ・ラボラトリーができれば組み合わせにより、その多様性の母数を増やすことができるのではなかろうか。
**スペシャリストとゼネラリスト
私は今必要なのはゼネラリストだと思う。全体をバードビュー、鳥瞰できるゼネラリストが必要だ。
特定分野に熟練し専門技能という武器を持てば「使える人材」として重宝される。その技能の需要と技能市場への新規参入が難しく希少性が高ければ食っていけるだろう。食い扶持を確保するために「連続スペシャリスト」であろうとするのは社会人として正しい生存戦略だとは思う。
だがゼネラリストなのだ。
ここで考えなければいけないのは、競争の源泉である自己の資源と、他者の新規参入の脅威や参入障壁についてだ。
特定の分野に自己のリソースを集中することで学習効率をあげることができる。いろいろな分野に同時に熟練しようとするよりも熟練までの期間は短くて済む。しかし、自己のリソースを特定分野のみに特化投資をおこなうことは、財務投資における卵をひとつのカゴに盛った状態であり、管理や運用は楽だが同時にリスクも大きい状態にある。タマゴが入ったカゴを落とせばすべてが割れてしまうからだ。安定性の高い社会であれば、何年もかけて習熟した資格や技能を頼りに食い扶持にできたが、せっかく習熟してもその需要そのものが消えてしまえば、潰しが効かない状態になる。
例を考えてみよう。技能のシフトが恐ろしく早いソフトウエア産業。古い技能ややり方を固持することで後発の新規参入者に対して不利になることが往々にしてある。うかうかしているとマーケットそのものが代替物の登場により無くなってしまう。そのような業界では、できるだけスイッチングコストを低い状態に保ちつつ、コアバリューをユーザーに提供できる体制をつくることが求められる。このような分野で習熟したスペシャリストは後続で出現した類似の新規分野でも高い位置からスタートを切れるので連続したスペシャリストとして活躍することができる。ここまでは連続したスペシャリストでいい。
しかし、このような連続したスイッチングは頭脳労働者のような、分野間の移動障壁が少ないものに限られる。もし、その人物の競争の源泉が人的繋がりであったり、設備投資が必要な分野においては古い設備を使い続けなければいけない、または古い設備を使い続けなければならない人的ネットワークから抜け出せないというハンデキャップを負うことになる。自由競争社会であればこのようなハンディキャップを負っていては生き残ることができない。
スペシャリストは必要だ。しかし、高度に知識が共有化された社会がくるのであれば分野ごとに1位と上位数名だけでよくなる。業界に存在価値があるシェアをキープできるスペシャリストにのみ存在価値がある。手段を目的にして先鋭化しても最終的なマーケット支配者以外に経済的価値はない。
成果物の属人性が高い分野を考えてみよう。例えば、高級家具職人のような熟練まで長い年月がかかるような分野ではいまだにプロフェッショナルになるまで1万時間説は有効だ。廉価品の家具などの代替物があるなか市場から求められるクオリティにまで熟練されなければ、そこまでの学習コストは回収することはできない。市場に残存しつづけたもののみが得ることで競争者が寡占的な状態を維持するに過ぎない。
スペシャリストとは特定の市場にて勝ち続けることができる残存者と同義である。市場はいま急速に変化している。スペシャリストの競争範囲が全世界に及ぶ日は近い。流動性の高い技能マーケットでは劣後なものへ経済価値が与えられなくなる時代も近い。いずれかの分野にて上位数%に入り続けることができる残存者は結果としてスペシャリストとして評価されるであろうが、苛烈な競争の結果としての称号がその分野のスペシャリストであり、勝ち残るために「勝者(スペシャリスト)になる」という戦略はありえない。連続したスペシャリストであるということは、各リーグでチャンピオンになり続けるという目標と同じである。
では、最後まで勝ち残れなかった劣後なスペシャリストはどのように振舞えばよいのか。複数の専門を持ち、局面においてより有利な専門で戦うよりない。広く深い専門をもつのがゼネラリストだ。ゼネラリストが専門性が低いという理由で特定の企業以外でしか通用しないという弁には同意しかねる。それはゼネラリストですらなく一定以上の技能も知識も持ち合わせていない人物にすぎない。
スペシャリストが残したユニットを使って、他の分野などに応用することができるほどに双方の分野に精通しているのがゼネラリストだ。全体の組立を行うことで経済的価値を構築する。
特定の技能習得への挑戦者はその技能をもつことで標準的な利益より多く稼ぐことがあるかぎり続く。
その技能を持って稼ぐにはその挑戦者より高い成果を上げ続けなればならない。高い成果をあげるためには、その技能を身につけることが困難でなくてはならないのだが、技術は技能の属人性を下げる方向で進化している。
かつては特殊な技能を必要としたカメラ撮影や現像でさえ誰にでも撮影できるように進化し、建築や組立、お店の接客なども派遣やアルバイトでも担えるように設計されるようになった。技術の革新と技能の獲得コストは反相関するものである。
**自己組成によるコミュニティ
和訳ワークシフトのP327に「自己再生のコミュニティ」という単語がでてくる。動画再生の「再生」が思い浮かんでしまい再生?蘇生?文脈と言葉の字面が自分のなかでなかなか消化できなかった。文脈からたどると原文はself-regenerationではないだろうか?まさかself-playingということはあるまい。
文脈にはgenerate/作り出すというニュアンスが含まれているように思う。だとしたら、再生というよりはself-organization、self-buildup、日本語では自己組成だのといってもらったほうが日本語的には混乱は少なかったかもしれない。
この自己組成によるコミュニティ、ワークシフトの本では要約すると下記のような定義になるようだ。
- 知的興奮を味わえ、創造性が刺激されること
- 自分らしく生き、個性をはぐくめること
- ほかの人と知り合い、友達になりやすいこと
- 地元に誇りをいだきやすいこと
大人になると、何かの拍子で知り合いになったり、友達になることは少ない。住んでいるだけで知的興奮を味わえる街など奇跡的存在に近い。偶発的に素敵な出来事が連続する街はとても魅力的な街となるだろう。このような環境に刺激され、人々が化学反応でいうエネルギーの高い励起された状態になり、勝手に人々が交わるという有機的な反応が進む。このような状態はつくれるのであろうか?
自己組織化できるコミュニティがあるとして、化学反応に倣えば次のようになる。
- 外からエネルギー(ヒト・モノ・カネ・情報)が注ぎ込まれる経路がある
- 触媒のような人や仕組みがあって反応に必要なエネルギー総量を下げる
- 人々の反応に対する閾値がひくく心理的障壁が取り除かれた状態になっている
逆に外から注ぎ込まれるエネルギーも無く、活動を阻害する人や要因があり、心理的障壁も高い状態なら期待した反応とは逆へ進むことになる。現代の田舎の問題などはまさにこの好例ではないか。公的なカネが投入されても局所的なところに留まり、阻害要素ばかりでは反応は別の方向へ進む。
過疎地に仕事は誘致できるか?
「戦後世界経済史」という本によれば、「経済の政治化」+「悪しき政治」はいくつかのよろしくない結果を世界史に残した。日本では田舎などへの新規投資による生産能力の拡張をおこない努力を必要としないエコシステムをつくりだしてた。競争や努力をしてもしかたのない世界で「働く」という言葉の意味は需要と供給による相対的価値形成から離れてしまった。
食うために仕事が必要だという人がいる。そのような仕事においては往々にして価値形成や価値提供と結びつくものではなくなってきている。食うための仕事(ライス・ワーク)と、生涯を通じて貢献するライフ・ワークは明確にわかれ、時間拘束と貨幣を交換をおこなうが、生産の向上に結びつかない仕事は縮小生産をおこなっているにすぎない。
**無用の用
働くという機会を得ることが難しくなっている。求められなければ働けないし、その席は次々と狭まりつつある。生産性の向上に寄与しない平均的な人物は「足をひっぱる」と表現されリストラの対象になる。しかし雇用を守り合理性までうしなえば競争力を失い企業、やがては国ごと沈むことになる。
生産性の向上になんら貢献できない人物に将来価値は無い。
だが、しかしそれは人間を経済動物のみであると限定した場合だ。人間の価値評価が労働生産性のみで量られるのであれば、良質で安価な労働力を求め続けることのみが是とされる。
それが社会として過剰にすすめば生産人口から外れたお年寄りに価値がなくなり、障がい者の価値を生産寄与率だけで推し量られることになる。だとすればモノサシが足りていないと言わざるを得ない。生産合理性のみで評価できない世界もそこにはあって、多様性として受け入れなくては人類全体として過剰適合になってしまうだろう。余剰人員がいることで、生産にまつわる事故を影響のない範囲で吸収できる。そのような遊びまでそぎ落としては過剰と言わざるを得ない。過剰適合された世界では少しの環境の変化で滅びることになる。
しかし、その余剰の部分が社会の効率化によりどんどんと少なくなっている。営利目的であればなおさらだ。うちのお店では精神を病んで引き篭もり自傷が絶えなかった人や、30歳を過ぎるまでろくに働いたことがない人を普通のアルバイトとして軽作業で受け入れたことがある。詳しくは書かないがCSRなどと綺麗な単語で済ませてしまえないほどの問題がそこにはあった。
**ワーク・ポール・シフト
勤怠を管理し生産性を合理管理する社会はそのまま継続する。しかし同時にその評価軸に収まらない価値評価方法を持たなければならなくなるだろう。情報化と国際化により、仕事観は過去や現在という延長線上ではなく別次元が付与されることになる。
- 食い物を狩猟採集するための仕事。
- 食い物をより効率良く収穫するための仕事。
- そして人類という群としてより良く生きるための仕事。
生活を充実させるために花壇を整理したり、自分のたべる幾ばくかの野菜などをつくることは必ずしも経済価値を生み出すことには直結しないが、合理化社会において生存価値を残す重要な価値評価軸になるのではないかと思う。
**参考
無職の父と、田舎の未来について。(9/24追記)
d.hatena.ne.jp/sanokazuya0306/20120922/1348323875
向上心があまりなく、身体が丈夫でなく、コミュニケーションが取りにくい人間に、できる仕事はあるか。
そういった仕事を、人口100万以上の都市まで車で4時間かかるような、田舎に作ることはできるか。
そういった仕事に限らず、都会から田舎に仕事を流すことはできるか。
ちきりんと一緒に 『未来について考えよう!』
d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120816