テストで点数をとるためのトレーニングが教育と勘違いされるようになって久しい。本末転倒で残念なことだ。勉強にも教育にもあれこれいいたいことはあるが、今回は、「同じ勉強をしているのに差がつくのはなぜか?」ということについて。
同じ勉強をしていて差がつく「本質的な理由」できる子とあと一歩の子の意外と大きい違い
石田 勝紀 :緑進学院 代表取締役
toyokeizai.net/articles/-/149489理由を「やっぱり頭の構造が違う」「遺伝だ」など、努力しても手に入らないところに置き、自分を擁護したりすることもあるでしょう。
(中略)
一部の天才的な子はそうかもしれません。しかしそのような子が存在する確率は非常に小さいはずであり、身近にそんなにたくさんいるものではありません。
勉強ができる子は、寝てる時以外も学びに関心がいっているから勉強ができるんだってっさ。あはは。
「一を聞いて十を知る」という故事があるけれども、同じ感受情報からでも辺縁まで探索できる探索網の深さと広さは、そのものずばり、脳みその性能差なんじゃないかなと思うんだけど。「存在する確率は非常に小さいはず」というのは、遺伝的多様性を過小評価しすぎではないか。
脳みそも生体機能のひとつであるので運動能力と同程度にはその出現率は正規分布に従うはずだ。
同じ体育(トレーニング)をしているはずなのに足の速さに差がでるのは「寝ているとき以外、すべてトレーニング」しているからと言えるだろうか。野生の虎は強いが生活そのものが鍛錬だからだろうか?
筋細胞の割合や骨格、速筋の割合は遺伝にも強く支配される。アルコールの分解能に個人差があるのは、酒を呑む訓練していないから、「呑んでいるとき以外、すべて肝臓鍛錬」しているからだろううか?分解酵素を発現できない遺伝特性がある人を訓練でどうにかできるだろうか。
fellowshipoftheminds.com/2014/10/11/how-smart-or-stupid-is-your-country/
知能指数にはいくつか種類があるそうだが、50~69は軽度知的障害として分類される。35~49は中度。71~85はボーダー(境界域)。
知的障害
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E7%9A%84%E9%9A%9C%E5%AE%B3
受験勉強で競うステージに立つのはおそらくはボーダー以上で、しかも入塾テストなどでも弾かれているため、極めて均質限定的な遺伝的同質性を前提にした議論であるように感じる。
東大生の平均IQは(ネットででまわっているレベルの言説によると)120だそうだ。120ぐらいを最頻値にする母集団のなかで、145以上のIQを持つひとを天才と認知するのであれば、それはごくごく稀な存在として認知されるかもしれない。
おそらく、さらに上のIQをもつ人もいるだろうが、重度知的障害者と同様、他の合併症などを併発している可能性が高いため大学生活のような凡庸な場には出てこないのではないだろうか。社会で接しうる観測範囲のなかでは稀と感じるかもしれないが、個体としての出現率はおそらくは正規分布に従うはずだ。
東アジア、中国、韓国、日本あたりではIQ105あたりが平均値だそうだ。中央値と最頻値にあまり差のなさそうな分布になっていて、知的障害者が社会的にも分離されてしまっているために、そう感じるのかもしれない。おそらく日本の大学受験勉強ぐらいだと、標準的な知能の子が点とりゲームにいかに熟達しているかが合否をわけることがあるので、おおかた訓練量の多寡が一番影響を与える変数なのかもしれない。
www.liveleak.com/view?i=cd7_1462213771&comments=1
世界のIQ分布。
この図によるとアフリカが酷く低い状態となっているので、差別を助長していると勘違いされかねないが、知能指数や運動能力は遺伝だけでなく、幼少期、発達期の栄養状態にも大きく影響をうけることを忘れてはならない。
人類の遺伝的多様性は過小評価すべきではない。
字が読め、文意が理解でき、思索がおこなえている時点で相当に恵まれているのだ。
- 9歳の壁:分数が理解できない。
- AIがぶち当たっている壁:文意が理解できない。
これらは、トレーニング量の多寡だけでは解決しない。ポアンカレ予想や、リーマン予想、シェイクスピアやモーツァルトが残した成果に学習量の多寡で到達しえないのと同じようなものだ。
しかし、運動能力が車やバイクなどの移動装置で補完できるように、知性も外部装置化でおおよそ補完できる。
スマフォや、コンピューター、ネットの有り無し、手順書の有り無しは、結果に対して知能指数由来の要因以上の影響を与えるだろう。
自動運転装置などは、老齢化し認知能力が低下した人類にも役にたつだろう。
テストの点に差が出るのは、訓練の成果でもある。
訓練を積めばウエイトリフティングで重たいものもあげられるようになるのと同程度に生体機能向上がみこめる。しかし、トレーニングに偏重し、重量挙げを筋肉だけで課題解決をしようするのならば人類に発展はない。
脳みそは生体機能である。トレーニングも有効ではあるが衰退や老化もする。同時に過負荷のトレーニングや稼働をおこなえば故障もする。点をとることに執着し訓練を積み、過剰最適をおこなえば偏狭になる。頭のいいバカを量産するのはいかがなものか。
木造建築にタバコの吸い殻を捨てちゃうような、火を扱うのには早すぎる人類も居る。
fool-proofこそが文化資本だ。
勉強を教える(テストで良い点をとれるようにトレーニングさせる)よりも、環境を整え文化資本にアクセス容易なように障壁をとりのぞく環境をつくことことこそが教育側の役割ではないか。例えば、プログラミングができるようになる、ならないは本人の資質以上に学ぶことができる環境構築ができるかできないかにかかっている。
努力ができる環境を。そして、局所最適、過剰最適しすぎない環境を。
同じ勉強をしていて、差がでるのは自然なことだ。
しかし、その差ばかりを重要視してはならない。外部装置による影響のほうがでかくなってきているのに、勉強の成果だけを基準にするのは、いささかモノサシが足りない。他人の感情を理解できるみたいな、そのほかの会的な評価モノサシを増やさないと、文明は低迷する。(んじゃねぇかな。ど?)
参考
日本、中国、韓国人は「世界で最も頭が良い」、英国の研究者の知能指数調査で明らかに―香港メディア
news.livedoor.com/article/detail/10151293/
WORLD RANKING OF COUNTRIES BY THEIR AVERAGE
iq-research.info/en/page/average-iq-by-country
IQ mode average countryでイメージでぐぐった。