ヴォイニッチ手稿はどうみても楽譜


ヴォイニッチ手稿という奇書がある。14世紀ごろ(羊皮紙は1404年から1438年)に書かれた古書で未知の言語で書かれた文章と実在しない植物などの挿絵からなる。230ページもあるが、いまだに解読されていないらしい。

Voynich2v

www.bibliotecapleyades.net/ciencia/esp_ciencia_manuscrito07.htm#top

だが、これは俺には楽譜にしかみえない。
俺がおもうならそうなんだろう。俺のなかではな・・・。
ということで、終わらせてたのだけど、なんとなくなんでそう思うのかをかいておこうとおもった。

結論を先にまとめておくと

  • フルートのような楽器の演奏方法を指定されている文字譜
  • 繰り返しの出現が調子をもっている
  • 繰り返しの出現のパターンに基底音がありそうだ

 

現代の一般的な楽譜は12音階からなる五線譜で書かれる。この元となったのはネウマ譜。横線に球をならべて音程をとるようになったのは9~10世紀ごろに教会の聖歌のために体系化されたそうだ。それから活版印刷が発明され楽譜が器械印刷で世に出たのは活版印刷から20年たった1473年だそうだ。

 

だが、世の中にはこの五線譜以外の楽譜というものが多様に存在する。
その中には文字譜と呼ばれる、文字で書かれた楽譜がある。

 

このヴォイニッチ手稿の文字列によく似た形式の楽譜が現代にもある。

尺八の楽譜である。
jyukukan.seesaa.net/pages/conv_default/image/B2E8C1FC20093.jpg

 

文字を鳥瞰で眺めて、文字の種類の少なさと出現頻度を見比べてほしい。 文字こそ違えど似ているものを感じないだろうか。この文字譜は文字1文字で尺八の抑える穴の位置、つまり音階を表している。

満員電車のなかでみかけて肩越しにガン見してしまったことがある。はじめてみたときはお経の勉強してるのかなと思ったけど、経典にしては繰り返しが多すぎるので楽譜だと認識できた。日本の古来の楽器+楽譜で検索して尺八の楽譜だとわかった。

 

おなじような文字譜にギターのコード譜がある。コード(和音)を文字に当てはめてかいておくことで楽譜になっている。

音楽を構成する主な要素は音階と音調と音色と音圧。この情報さえしっかりあれば、コンピューターに音楽を再現してもらうこともできる。

 

↓こんなものも文字譜だ

ウクレレ記法の例

$|: !96:3DuDudUDu
D Bm7 Em7 A7:|;
D Bm7 Em7 A7;
!96:3DuDudU,Du
D= Bm7= Em7 A7 D=;
C#m7(b5)= F#7= Am7= D7=;
G G#dim D Bm7 Em7= G A7;
D= Bm7= D= Bm7=;
G G#dim D Bm7 Em7= G A7;
<
D= Bm7= D= Bm7=;
G G#dim D Bm7 Em7= G A7;
D= Bm7= Em7= A7=;

ウクレレ記法を鳴らしてみる

少し解説をすると、頭の一行、 $|: !96:3DuDudUDu     96はテンポを表していて、ダウンストロークが強めでアップストロークは弱めを3回というような演奏方法を書いたうえで、どんな和音を鳴らすかを書いている。

 

さて、ここまでみてヴォイニッチ手稿の適当なページをみてみよう。言語にしては異様な数の繰り返しがあること一見してわかる。どことなくこの繰り返しの様は尺八の楽譜のような繰りかえしがみてとれないだろうか。そして構成する文字の少なさだ。

音節とおぼしきスペースがあいているところに赤線をいれてみる。

Voynich2vredline
おおよそすべての節が4文字で構成されていることがわかる。これはなんというかもうこの時点で楽譜。しかも4/4拍子。しいていうならキーはこのにょろっとしたHが発する音だ。

3文字や5文字で構成されている節もあるが、これがむしろヒントになるのではないか。

構成する文字を似たようなアルファベットに当てはめてみてみよう。
H,o,m,c,Y,2,4,q,0,8,r
このワンセンテンスででてくるのはわずか12文字とかこんなものしかない。これではあまりに言語を構成するには足りない。これが言語だとするならば表音文字だろう。文字の種類には漢字のような意味までを記す比較的複雑な表意文字と、発する音を記したひらがなやカタカナ、アルファベットのような表音文字がある。

 

さて、12文字というと12音階だなぁとか思ってしまうのだけど、他のページには他の文字が出てくるのでこの文字=12音階ではないだろう。だけどこれくらいの繰り返しと、時々文字が大きくなったりするのを見ると、なんか鼻歌ぐらいすぐに歌えそうではないか。

適当にアルファベットに置き換えてみた。

Hoom ocio Ycio2 oHaimo 4m oco2 8ai2 0iHg
Hcca Hccg 0co 0co4 4oHcco 4occc2 4oHg cco8 8am
oHoig cco2 4ccg cco4 cco8g cco8am ccoHcg 8am
0eo cio4o ccco2 cio8am

これを現代の4/4の 文字譜っぽく置き換えてみる。

Hoom ocio Ycio2 oHaimo
4m oco2 8ai2 0iHg

Hcca Hccg 0co 0co4 4oHcco
4occc2 4oHg cco8 8am

oHoig cco2 4ccg cco4
cco8g cco8am ccoHcg 8am

0eo cio4o ccco2 cio 8am

oは長音か開放かな。cはカッティングかミュートすこし詰まった音なのじゃないかな。

4とYは表記は違うだけで同じ音かもしれない。(音圧の違いを表記?)
8amがこの曲のリフ。まだちょっと複雑だ。

よりシンプルにするために、iとcとaをoにしてみる。YをHに。

Hoom oooo Hooo2 oHoomo
4m ooo2 8oo2 0oHg

Hooo Hoog 0oo 0oo4 4oHooo
4oooo2 4oHg ooo8 8om

oHoog ooo2 4oog ooo4
ooo8g ooo8om oooHog 8om

0oo ooo4o oooo2 ooo 8om

文章に文法があるように、音楽にも文法がある。
音楽といえども周波数の順序をもった組み合わせであるので、無秩序にぶつかると互いに打ち消し合ってしまって意味を成さなくなる箇所がでてくる。
人間は本能的にそれを心地よい音、メロディーとして認識し、それを体系化するために音階を発明した。
これは不協和音をつくらないためにであったり、旋律の初めと終わりを帰着させるための始めやすい音、おわりにもってきやすい解決音などである。数学的にはサイン波をどのように加算するかで決定する。
音楽の文法は意外なほど少ない。時代によりアクセント部分に流行り廃りがある程度だ。

現代風に4/4のリフレイン曲にアレンジするなら

Hoom oooo Hooo Hoom
4m ooo2 8oo2 0oHg

Hooo Hoog 0oo0oo4 4oHooo
4oooo2 4oHg ooo8 8om

oHoog ooo2 4oog ooo4
ooo8g ooo8om oooHog 8om

0oo ooo4o oooo2 ooo 8om

こうやってみるとomとか、2とかは音の処理を表しているっぽい。
oとm,Hは密接に関係がありそう。相互補完可能か補助コード的な存在かも。
似たようなリフに変化させて、32小節におさまるようにシンプル化

Hoom oooo Hooo Hoom
Hoom oooo Hooo Hoom

Hoom Hooo Hooo Hooo
Hooo Hooo oooo Hoom

Hoom oooo Hoom ooom
Hooo Hoom oooo ooom

Hooo oooo oooo ooom
Hooo oooo oooo ooom

たった三文字にしたったww
一応、それなりの規則性をもって置き換えたけど、これくらいなら鼻歌うたえそうだよね。

 

そんなわけで、ヴォイニッチ手稿はフルートのような管楽器もしくは弦楽器直接をはじめとする演奏方法が併記された文字譜!!だよ! きっと! おそらく・・・たぶん、なんじゃないかな。

 

っていって、最初のヴォイニッチ手稿をみると、そう見えてこない?

 

Voynich2v

 

ほら、楽譜っぽい。
声にだして読みたいヴォイニッチ手稿。

新曲できたよーって下の紙みたいのをわたされるよりヴォイニッチのほうが簡単だよね! 

↓これも楽譜・・・ きっとこういうのを清書してるとお花ぐらい書きたくなるよね(^O^)

新曲

追記:
はじめてのレヒニッツ写本 : 同じく奇書とっされるレヒニッツ写本について考察を書きました。

ヴォイニッチ手稿に書かれたスペイン語 : ヴォイニッチ手稿に言語っぽいところもあったので読んでみました。

線をひけばすぐわかるヴォイニッチ手稿のイラスト : イラストはどうも植物のキメラっぽいぞということがわかったので書きました。


車椅子と負担と恩恵と


車椅子にはウイリーした状態で静止できるぐらいのりなれてます。なんでそんな歪んだ方向になってるかというと理由は簡単で普通学級だったんですが小学校1年のころからクラスメイトに車椅子の奴が居たからです。(当時はいまみたいな車椅子ではないですが)

 
小1の頃から体が不自由なやつがいる光景が日常だと、車椅子の人がどうこうということに特別感とかがまったくないですし、それをフォローすることに動機や理由もとくにいらんのです。大人になると、障害者がやれどうだとか、助けることに勇気や理由が必要になったり、率先垂範すべき社会規範として要求され、それを立場ある人間がおこなわなかったりしたら非難されることがあるため、打算や偽善的におこなわれたりすることがあります。

 
だけれども、子供はもっと単純で、例えば外に遊びにいきたいときに友達がうごくのを待つぐらいだったら運んじゃえぐらいの感覚です。共助というものは、短期的には大変かもしれないけれど、長期的には全体としてプラスになるから生まれるのだと思います。だって障害者に十分にケアできるような社会だったら普通に生活するぶんにはもっと過ごしやすくなるし、みんなが楽しいほうが楽しいよね?

 

 

その年代の子が観測できる範囲だとそれが日常だし、他の状態を知らなかったので比較しようもなかったというわけです。しかし、どうも世間の人たちは違うようだぞと感じたのは小学校三年のころ教育委員会だかから表彰されてからです。大人達から「偉いね」ということで呼び出され、もうひとりのクラスメイトと2人で表彰されたのですが、なんで褒められるのかもわかっていませんでした。しかも、その表彰式のときちょうど自分が足の骨を折っていて松葉杖で参加したので、お前がサポート受ける側だろ的な状態で参加したのもあるのかもしれませんが、褒められることにたいして何か複雑な感情をいだいたものです。

 

 
で、乙武氏の銀座のイタリアン入店拒否の件。
事の根幹は、銀座の寿司屋に女性同伴で入ったら「香水きつい」と追い返されてメンツ潰されたと怒ってる社長さんと同じぐらいにしか見えてなくて、俺も銀座に同伴でイタリアンとか洒落こみてぇゎーと思うぐらいどうでもよかったんですが、なんか変な方向に議論が高まってきているので、個別の問題はおいておいて、ちろりと書いておこうかなと思ったわけです。一応、飲食店もやってるし。

 
まず、人、一人を2Fに運ぶということですが、これ、かなりしんどいですよ。
おんぶとかでくだんの車椅子の友人を運べるようになったのは小学校3年ぐらいになってからです。最初は避難訓練のような緊急事態を想定して先生がいないときにクラスメイトだけでどこまで非難できるかということで行われました。通常は両肩を2人で支えてというようような形式でやっていました。
自分と同じぐらいの体格の人を運べる”スキル”があるひとは、クラスに数名ぐらいしかいません。この比率は中学ぐらいになってもあまり変わりませんでした。それなりの体格と慣れが必要になります。段差移動をふくめ安心してまかせられる人となるとなにかしらのスポーツで学校選抜で大会にでれる程度の身体能力が必要になります。
特に階段のくだりとかは普通に階段を降りるような降り方をしてしまうと、膝が二人分の体重移動に耐えらず、諸共落ちることになります。これは掛け値なしに危ないです。下にまわってフォローする人は体制くずして落ちてきた2人分の荷重に耐えられないといけないので、さらに力があって慣れた人がフォローにまわります。逆に慣れてりゃ1人でも運べます。よっと担いで上の階の椅子まで運んで、往復で車椅子もってあがるぐらいなもんです。車椅子はたためるので、軽量型なら女性でももってあがれます。
乙武君の体重は軽いらしいですが、それでも30キロは超えるんでしょう?
お米30キロ入りの袋を一発で2階まで運べる人が世間にどれだけいるのかわかりませんが、力自慢の健常者でも、かなり大変なはずです。樽ビールより重たいからね。そこの旦那さん! お姫様だっこで奥様を二階に運べますか?隣の部屋がせいぜいなんじゃない?しかも、せめても首に腕をまわしてもらわないと、腰やっちゃいますよね。よほどの体格差がないと大人でも厳しいんじゃないかと思います。

 

で、もいっこ問題は車椅子。
普通の車椅子にのってたのか電動にのっていたのかわからないけど、電動車椅子とかだったらまず持ち上がらないです。タイプにもよるけど80キロとかあるのをあげられるんだたら冷蔵庫でも運べるわ。増田ダイヤリーで乙武君を運んだという人が4人がかり+1人で車椅子ごと運んで腕ぷるぷるしたとかいう女子の記事があったけど、年代的に考えて、それ普通の車椅子じゃないかな?電動だったら4人がかりでも無理。
10〜20年ぐらいまえは都内でもどの駅にもホームごとのエレベーターはもちろん、エスカレータも車椅子用の昇降機すらなくて、移動しようとしたら、駅員さんが4人ぐらいがぞろぞろでてくる時代がありました。完全自動改札になる前の時代で駅員さんがいっぱいいた時代ですね。
神輿みたいに4点もってあげるやりかたは、階段の幅をかなりとります。一人あたりの荷重はすくなくて済むんだけど、不慣れな人に手伝ってもらうと車椅子の握っていいところがわからなくて、タイヤとかを握ったりするひとがでてきて、タイヤのロックが耐え切れなく外れタイヤがくるっと回ってスポークに手を挟まれてうぎゃーってなって手をはなして、みんながバランス崩してひっくり返ってなんてことは・・・まあ、ありがち大惨事です。なので運ぶのに比較的慣れている駅員さんでも4〜5名体制でやってくるぐらいの案件です。結構、手に車椅子の油(チャリの潤滑油)もつくし、料理の最中の料理人はやんないほうがいいんじゃないかな。

 

乙武くんの場合、かなり体格差があるから、こういう普通の車椅子のひとが遭遇する「やってみたら出来なかった」とか「事故になった」ことがないのかもしれません。そりゃね、3〜40キロぐらいなら何かおきてもちょっとふんばれば耐えられたりしますからね。でも車椅子の人みんなそんなに軽いわけでもないし、上半身は健常者なみだとか、他の移動方法として彼のような選択肢がとれるわけでもないのでございますよ。
なので、乙武くん水準でお店側に要求されるサービスが決定したり社会設備の議論が進んでしまうと結構おっかねぇなと思たのです。お店の人はお連れさん以上に事情わかってないんだから、連れが対応しきれない時点で無理ってもんです。

 

某予備校に遊びにいったことがあるのですが、その予備校でその車椅子のやつらに乙武くんを紹介されたことがあるらしいです(覚えてない…)。なので多分自分と彼とは同じ世代だと思うのだけど、当時は、都内どこにいっても車椅子の人が簡単に移動できるような施設にはなっていなくて、電車での移動もそうだけど、連絡しておかないと駅間の連絡がどうこうだとかで、言ってもらわないと困るとか、見つかるといろいろ小言を言われた時代があったはずです。対応できないからと断られたりたらい回しされるなんてことはありましたよね?予備校選びだって学校選びだって受け入れてくれるところから探したはずです。本人は何もやらなかったのかな?

 

そういう時代から考えるとかなりバリアフリー化してきたと思います。大規模商業施設などの法律の整備もすすんで障害者用のトイレや車椅子用の駐車場まで充実してきました。一方でバリアフリーを目指すために別のコストが生じていることも事実です。

 

いくつか例を考えてみましょう。

入り口の段差
これは、うちのお店も入口に段差があるのですが、じつは、段差といっても無意味にあるわけじゃなくて、この段差がないと大雨が降った時などに浸水してしまうのです。関東というのは坂道が多い街です。古いいえなどは玄関にあがるのに1段、2段の盛土をしていることがあります。実際にその高さまで水が上がることがあります。床上浸水なのか床下浸水なのかがわかれているのがもし完全バリアフリーなら、常に浸水してしまうことになります。アスファルトで路面が覆われているので水も急にあがりますし、ゲリラ豪雨も増えています。このような背景をもつ土地柄に完全バリアフリーにするためのコストをカルフォルニアと比較してもだめでしょう。スロープに気が付かずに足腰弱った年寄りがのると後ろにひっくりかえるんだぜ?

 
ドア
ドアのほうがバリアフリーにしやすいですが、地震などでドアの開放部へ崩れや家具が移動してきたなどというだけで閉じ込められてしまうため、日本では古来は観音開は建築方法としては忌避されていました。こういうものは無意味にバリアになっているわけではなくて、その土地の知恵が詰まっているわけです。

 
車いす使用者用駐車場
駐車台数何台かに一台の割合で設置が義務付けられています。1mぐらい余分に幅があるのかな? この幅がないと車椅子を下ろせないので、重要な設備ではあります。でも、これをつくることで常時駐車できる台数が減ってしまったりするわけです。せっかく設備としては用意してあっても車椅子とか関係ない人が駐車していたり、そういう人が駐車できないように常時コーンがおいてあったりします。車椅子で車を運転する人も多いのですが、コーンがあったら同乗者いないと駐車できないから本末転倒なんだけどね・・・。

 

盲人用点字タイル
あの凸凹で歩道にびしーっと並んでいる黄色いタイルですね。うちの商店街の歩道にも並んでいます。必要なのはわかるんですけど、もともと狭い歩道であのタイル並べると歩きにくくてしょうがないですよね。雪かきも大変なんだ。車椅子や老人用の押し車、ベビーカーを押そうとすると、片輪がタイルの上にのっちゃうぐらいの幅しかないわけです。のらないようにするにはタイルをまたぐようにしないとならない。そうすると、こんどは軌道変更ができなくなったり、歩く人達がすれ違えなくなるわけです。そういうのがめんどくさくなって点字タイルがない裏道を通るようになったりするわけですねw 盲人のひとが通るというレアケースに車椅子が通るレアケースをぶつけてもしょうがないんですが、だれかのバリアを解消しようとして、よかれと思ってやったことが今度は違う誰かのバリアになることもあるわけです。

 
負担と恩恵とを秤にかけて、ちょうどいいところでバランスとるしかないですよね。だいぶいろいろなバリアが解消されてきたと思いますが、なんというかまだまだ過渡期だなーと思うわけです。こうしたほうがいいよねという負担と、恩恵がまだまだバランスされていない。
今回もお店のエレベータが利用できないことでおきたトラブルでしたが、事前に連絡があればマンションの管理組合とかと交渉して借りることもできてトラブルにもならなかったのではないかとすら思います。かといって、いつもエレベーターを利用できるようにしておくと、こんどは不貞の輩が窃盗や押し売りなどをするといったバリアも取り払ってしまうことになる。
お互いに譲歩できないから、衝突が生まれるわけですが、今回のケースは外野がどうこいうまでもない、どーーーでもいいケースで双方譲歩の余地は山ほどある。だけれども、コミュニケーションの行き違いから生まれた今回レベルの事案にたいして、このケースだけを解決するために対策を訴える人たちがでてきていて、その対策やらをすると、今度は違う人が困るようなことになりかねないので、そんなわけで、なんとなく書いてみましたよっと。

 
*参考

乙武騒動で考える;差別禁止に事情や理由は関係ないと言う主張について
www.anlyznews.com/2013/05/blog-post_21.html

障害者側からみる乙武氏入店拒否問題
d.hatena.ne.jp/marumieseijin/20130519/1368982704
障害者側からみる乙武氏入店拒否問題その2
d.hatena.ne.jp/marumieseijin/20130521/1369120014

>> そして乙武氏一人に「障害者のイメージ」を背負わせるのも、間違ってます。
あ、そうそう、多分おれはこれがいいたかったんだとおもう。

追いオリーブオイル これが、もこみちスタイル!

乙武洋匡さんがTRATTORIA GANZOの店主高田晋一さんに追いオリーブを投下
kabumatome.doorblog.jp/archives/65748153.html

乙武氏ツイートの銀座の店に行き、店主に取材しました
kasakoblog.exblog.jp/20523301/

【乙武洋匡公式サイト】「イタリアン入店拒否について」
ototake.com/mail/307/
小さな飲食店は障害者の人に対応する余裕なんて無い
anond.hatelabo.jp/20130519044709

乙武さんを2階まで運んだことのある人間として
anond.hatelabo.jp/20130520221917

乙武様のご来店お断りについて。
ginzaganzo.com/info/444903:title=ginzaganzo.com/info/444903

 


あなたの知らない商売の世界。無限端数殺法!


消費税込みの価格で商談したら納入業者がなぜ喰われるか。消費税があがると納入業者がどのような不利益を被るか、官僚や政治家は商売をやったことがない連中ばかりで肌感覚としてわからないというので、「マジでか!?」と思いながら、自分も小売や卸しをやるまで知らなかったこともいっぱいあるので、商習慣をふまえて書き起こしておこうと思った。

無限チョコレートgif 24.media.tumblr.com/9bff5678b2f5ffcd18fba31b21f005c1/tumblr_mkdymqcJet1rjcfxro1_500.gif

この、なぜだか増えた分が消費税転嫁分だ。商売の取引上発生した端数が力関係で転嫁される。本当にチョコレートが増えたと思ってるひとは減らないチョコレートを生計でもたてればいいんじゃないかな!

最近、自民党のカフェスタを見ている。築地のおじさんが面白くて、あれこれ見漁ったのだ。ずぬけて、おもろい。現段階でどのアーカイブも3桁なのは寂しすぎるが、月曜日カフェスタは面白いのでおすすなんだぜ。

で、掲題の消費税の話しになる。
マスメディア側の報道でしか知らなかったので、なんで消費税還元セールはダメだとかわざわざ国会でやってんだ、ナンセンスだなーと思ってたのだけど、こういう狙いがあったのね。

 

「消費税は還元するものではなく収めるものだ」とか、そんな馬鹿げた発言ばかり取り上げられてたから、意味わかってなかった。八百屋の仲卸(国会議員 平将明氏)と、魚屋の仲卸(築地魚河岸 鈴与三代目 生田よしかつさん)、卸売業のひとたちの話しを聞いて、うわぁ、そのレベルでの話しなのかと驚いちゃった。でも、消費税転嫁うんぬんは、メディア報道をきいても小売業でもピンとこなかったので、商売やったことないひとにはさらに伝わらないんじゃないかと思ったりもした。

 

日本がこういう商習慣になっているのは、量販店などが絶え間ないロビー活動やら収賄政治の輝かしい成果なのだとおもっていたのだけど、単純に政治家や官僚に商売体験がないからというしょうもない理由が主たるところだったりだとするとひっくり返って泡吹いちまうよ。

 

パンが無ければケーキを食べればいいじゃないとか、サービス残業が嫌なら職業選択の自由があるんだからヤメればいいじゃないとか、マグロが仕入れられなければ他から仕入れればいいじゃないという、どうしようもなく初歩的なつまずきが経済のボトルネックになっている可能性を知り愕然としている。利益誘導でわざとなんだと思ってたのだが・・・

ブラック企業とよばれ労働者にその負担をつけ回すか、出入り業者につけ回すかが競争優位の源泉にしかならない産業が中心であれば、発展どころか循環可能な経済にはなっておらず終わっているのだが、もしかして、制度疲労の原因って、チョコレートは増えるという幻想をかかえちまって制度設計がされているからなのかも。化学の反応経路でもそうだけど、系の途中でエネルギーが抜け落ちないことはないからね!?

 

「5%買って、5%負けてを繰り返すと元本(資本金)はどんどん減っていく。」 金融トレードだと、このように言われたりする。

 

これが直感的に理解できるか理解できないかは、人によってわかれるかもしれないが、念のため説明すると、例えば種銭を100円でスタートして、5%増えると105円だけれども、105円から5%負けると95円ではなく正確には94.75円になる。だから、これが5%増えても99.4875円にしかならない。

 

端数なので四捨五入すれば100円だが、目に見えないところで細かく零れ落ちるところがあるところをわかってもらいたい。この僅かな量が、商品の卸しや、金融商品のような一回の取引額がおおきくかつ何度も反復される取引においては影響が甚大になっていく。

元本×(1.05)×(0.95)
元本×0.9975のn乘
=$A$1*(1+$A$2)*(1-$A$2)

という計算をループさせてみよう。
このような取引を繰り返していくと、この僅かであった影響が大きくなり、5%利益だして、5%損してを繰り返すと、この取引の42回後には元本は90円を切ることになる。276回の往復で100円の元本は50円を割ってしまう。この往復利率が10%であった場合、わずか10回で元本は90円を割り、69回で元本は半分になってしまう。

 

 

小売の卸し取引は、お客様への価格を上代といい、卸が扱う価格を下代という。
慣例上、下代は「掛け率」なるもので表さることがある。「8掛け」とか「6掛け」と呼ばれる。たとえば「8掛け」の場合、上代100円の商品に0.8をかけるという意味になる。つまり、上代100円の商品を80円で卸しますよということだ。取引の価格交渉の場合この掛率、割引率の交渉になる。

小売人は80円で商品を仕入れて100円で売ることで利益をあげ、その利益のなかから販売に必要な経費(家賃や人件費)などを出していく。商品を8掛けで仕入れている店があったとして、月の人件費を20万円家賃光熱費あわせて20万だとすると、最低限の経費を捻出するためには、最低200万円の売上が必要となる。卸になるともっと薄利多売なので必要な売上は小売のおよそ10倍ぐらいになる。100円のジュースを60円で仕入れて売るのが小売、100円のジュースを24本入りの箱単位で仕入れて一個あたり50円で買って60円で小売に売るのが卸しっちゅうような感じだ。

さて、このような商習慣に消費税がはいってくるとどうなるか。

みんな大好き「うまい棒」で考えてみよう。
うまい棒は消費者は内税10円で買うことができる。
消費税5%でこの時の本体価格は9.5円になる。消費税相当分は0.5円だ。
仕入れは8掛けで一本あたり8円で仕入れたとしよう。
この8円が内税であれば、本体価格は7.6円になる。

卸はこの「うまい棒」の単価を8円でおろすのか7円でおろすのかで、利益が大きく変わってくる。もともと薄利なので利益を割り込むかもしれない。

なので卸は一本あたりを内税で処理して価格をつけることができなくなり、外税にして最後に消費税計算をしたり、バルクや1ロット、もしくは一箱でなんぼという明細にするよりない。

割り算と掛け算は順番を変えても問題ないというのが許されるのは学校のテストまでだ。
税抜き価格X円のものを4掛けでN個買うのと、税込価格Y円のものを4掛けでN個買うのは…
(X*1.05)*0.4*N=(Y*0.4)*N*1.05
XもYも、いっしょでしょと。
そんな奴は無限にチョコレートでも食ってろ! と・・・。

実際には round(round(X*1.05)*0.4)*N ≠ round(round(Y*0.4)*N*1.05)
こんな感じに小数点以下の丸めがはしるし、交渉でXやYに値引きのDC(ディスカウント)が%で入ってくるんだから
結果は、ちがうよ、ちがうよ!全然ちがうよ!!

科学系のひとたちは有効数字の桁数を気にするし、丸めのタイミングを気にする。
とくにそれが指数の基数になるならなおさらのことだ。商売人も同様だ。

古典的には銀行口座に振り込まれるべき端数をピンはねしたサラミテクニック(サラミのように薄く切ってしまえば一枚抜いてもわからない)と呼ばれるようなハッキング方法や、スキャルピングとよばれるような薄皮でも十分な利益がだせるのは、端数にレバレッジが効かせて集塵できるからだ。卸や量販というのはレバレッジを効かせた商売といっていい。

もし端数の”まるめ”に四捨五入というルールを採用した場合は、同率の負けと勝ちを繰り返すことになる。
勝率が同じであった場合、それが反復継続すれば説明したとおり元本はわずかな取引回数であっという間に利益率を割り込むちゅうわけだったのさっと。

長く書いたわりに・・・あまりうまく説明できた気がしない。

 

 

*参考~


www.jimin.jp/activity/movie/0ch_cafe_sta/index.html