事象というものが最初にあり、それに追従して法律などがつくられる。
科学などの進歩により、いままで存在しなかった事象がおきたり、観測されるようになると法律や倫理が遅行するのだ。
プログラミングではエラートラップで例外処理を吐いてお手上げしてしまえばいいが、現実に事象として生まれたものについては、その吐き出された例外を最後までどうにかしなければならない。
例えば「ハエ人間」が誕生したら、それをどうしたらいいか、どうすべきかを法制化するのはかなりしんどい。
事前に想定したものと事象として観測したものが全く違う可能性は高い。「これは法律で規定されたハエ人間だ!」とかそんな議論をしたり判断をするのはナンセンスでしかない。そんな規定は機能しねぇ。
罪刑法定主義は、刑罰を予め周知しておかなければならないという近代国家のためのものだ。
そのような原則がまだなく、過去に遡上して罪や罰を適用してしまうような国もあるがとても理想的とはいえない。
現段階の法整備のスピードは我々が観測できるようになった事象の拡大スピードについてこれていない。
どうすればいいのか?
倫理の成熟をまち歴史に裁いてもらうというよりないと思う。
30年もすれば醸成もしよう。判例も積み上がるだろう。
やれやれなだとは思うが、いまのところそれしかない。
できることは、この速度をAutomaticにあげるよりない。
下記は、フクシマのうそと題されている、少し過激な感もあるがドキュメンタリーとしてよくできたドイツの番組だ。
30分ぐらいと長いが、番組として純粋に面白いのでおすすめする。
ドイツZDF報告-原発・悪魔たちの闇のネットワーク
kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1179.html
こちらのブログに綺麗にまとめられている。
核心は「原子力ムラ」とあるが、それだけの話しではないなと思った。
法律を守った(むしろ作る側だった)うえで最大公約数的に人々が幸せで、それで回っているのであれば非難のしようはないが、問題は回らなくなったときだ。
原子力問題では、事故がおきたときだ。
おきる前の規定と事象が観測できた後では制度は変わらなければならない。
AIJ投資顧問の問題の場合は、それが露見したときだ。
おきる前の規定と事象が観測できた後では制度を変えなければならないのだ。
フタを開けたら、こんなことじゃダメだよねという道義に反した状態はままある。
「東電OL殺人事件」は、なんかそれが本当ならそれ以前の畜生道の話しであるが、そういうのは置いておいて、人間道の話しをすると、よかれと思ってやっても、結果で評価されることはあってしかるべきだ。
評価をするものと、される側が同じであっては評価機構は機能しない。プレイヤーと審判は別であるべきだ。
そういう意味で国はプレイヤーになってはいけなかったのだ。
経済の世界でもそうだ。
世界の経済を俯瞰でみると、これ精算したらどう考えても数字あわない。だがどこの国も「ここで一旦精算してみよう」とはいわない。椅子取りゲームのフエを誰も吹けない。吹いたらフタが開いてしまうからだ。
生物は間違いながらも進んでいくしかない。
できれば細かく間違って、修正したいものだ。
どうしようもなく間違って、その状態を隠蔽されて、露見したときにはどうしようもなくなっていたでは社会動物としての運命を終えかねない。
人間は社会動物で経済動物だ。
日本では内乱罪や外患罪は現在のところ武力に規定されているが、経済戦争がおこなわれている現代においては、経済による示威は武力に相当する。制度そのものの存続を困難にさせる行為は、個人や一組織の裁量に収まる話しではない。
ぶっちゃけ結果として国家転覆行為に相当する。それくらい影響が大きい。
財政で国家転覆とかいいだすと、貿易赤字だしただけでどうこうとかなりかねないので、あまり言いいたくないのだけど、結果として、少人数の確信犯による結果としての間違いは、群を滅ぼすまえに露見させなければいけんよね。
水戸黄門みたいな爺ちゃんが善良なる管理者としての注意義務を果たしてくれればいいんだけどね。
なんか、越後屋と悪代官しか居ないんじゃ物語もつまんねぇわ。