第三夜 区切られた財。奪えども足りぬゆえ格差


格差がと叫ぶものあり。

かのものは共有すれば余るものを分けることに執心し足りないものにしていった。
働かずとも分配されるのであれば働かなくてもよい。
つくっても奪われるのであれば、つくる気力もなくなる。
そして創られるものは減り、分けえるものは少なくなっていった。

権力は富をつくったものよりもそれを分配するものに集中する。
企業の場合、従業員、債権者たる銀行、税をうけとるべき国は債権者たりえるものである。株主は最劣後債権者であるが、利益の処分方法を決定できるのは株主だ。株主は余ったものを最後にとる。分けるものは一番最後に受け取らねばならない。

もし、この順序が逆であったらどうなるであろうか。従業員も雇えず資金調達もできなくなり、生産活動に必要な再投資もできなくなる。次の期に撒くはずの種籾まで食ってしまえば、次の実りはさらに少ないものとなろう。あなたの権力者はどうであろうか?

税引前の当初所得格差

格差はどこで生まれどこで拡がっているのだろうか?

日本の厚労省の所得再分配調査によれば当初所得格差は拡大しているが社会保障費含む再分配所得の格差は縮小してきている。つまり、「稼ぎ」では差がついてきていてるが「分配」後の格差は縮まっている。

格差の議論をするときには、ぜひこの当初所得と再分配所得というものをわけて考えて欲しい。正社員や派遣社員の議論で給与などの待遇面、衛生環境の悪さが話題になるが実際のデータでは稼げなかった人も社会保障による再分配を受けているので結果としては格差は縮められているのだ。

データをみてみよう。

所得再分配調査
www.mhlw.go.jp/toukei/list/96-1.html

クリックしてh23hou_1.pdfにアクセス

所得再分配

Screenshot 2015-01-11 23.59.52

このレポートで注目して欲しいのは当初所得50万以下の貧困層の増大である。非正規社員が増えているからだという指摘をするものもあろう。しかし、日本の場合はそもそもが労働資本を持たず、働けない老齢人口が増えている構造だということも忘れてはならない。

年齢階級別再分配
現役世代の再分配係数はマイナスである。

OECD諸国中でも、日本はもともと当初所得の格差は小さい国である。
しかし、税による再分配比率はほとんどないため、社会保障で年金などが再分配がなされる老齢層に比べ、低所得の生産労働年齢層(現役世代)の可処分所得の助けにはあまりなっていないことにも注目すべきである。(子育て手当と生活保護ぐらいはあるだろうが・・・)

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本来は成長へ回るはずであった財を、介護や地方などの成長が期待されていない部門にまわしていてるのだから、当然成長には悪い影響がでる。

地域ブロック別

賢人の再投資

スティーブ・ジョブズであったか、はたまたゲイツかバフェットだか忘れたが「あなた稼ぎに比べ寄付が少ない」という問への返答を見てなるほどと思ったことがあった。

「毎年寄付をしていくよりも、私が持っていればどんな年金基金よりもよいパフォーマンスが出せる。死んだときに寄付をしたほうが全体として寄付できる額ははるかに大きくなる。」

例えば、資産の平均成長率が5%の社会において毎年20%づつ資産を増やせるバフェットなみの賢人がいたとしよう。この賢人は資産を将来有望な事業化に助力することができる才能をもっているとする。
この人物が資産1,000万から運用を始めたとすると10年後には6,191万、20年後には3億8,337万、30年後には23億7,376万、40年後には146億9771万と恐ろしいスピードで財が増えていく。[計算式:元本*(1+20%)^年数 ]

だがしかし、この人があげることができた利益をこの人自身が再投資することをよしとせずに、平均成長率5%から飛び出た分は税なり寄付として毎年徴収し平均成長率5%に届かない人たちに分配したとする。40年後はそれはどうなっているか? [計算式:元本(20%-5%)年数 ]
彼が寄付できた金額は40年間の合計で6,000万分になる。彼が5%成長で残せた富7,039万分をあわせても、その差は145億分にもなる。バフェットのように80歳を超えても現役なら、この再投資期間は60年にも及び、5,634億7514万もの差が生まれる。しかも再劣後である株主の取り分としてだけでだ。

投資の話しをすると、どうせ誰かから奪って集めた富なのだろうという了見の人もでてくるかもしれないが、人より多く収穫できる農家でも、鶏を育ててる畜産業のひとでもよい。他のひとより10%ぐらいパフォーマンスがよい人はいるであろう?その人の高パフォーマンスからくる成果を毎年摘みとって収穫し、再投資をさせず、他の一般的なパフォーマンスのところにばらまいて調整したらどうなるかを計算したものである。
高パフォーマンスの人の成果を平均に均せば時間経過と伴に著しい成果差が生ずる。

所得格差と能力差

もし、人の才能や仕事が誰もが真面目に取り組みさえすれば本質的に成果も均一なものであると無垢に信ずるのであれば、開腹手術をするときに医師などつかわず、次に手術を待っている患者におこなってもらう仕組みを提案してはどうだろうか?

能力は残念ながら平等ではない。
技能や才能はいくつもの試験などで量られ教育と訓練でさらに磨かれる。同じ人物であっても赤子のときと壮年期と老齢期では仕事の成果にも差が出る。つまり、個体差もあるし同一固体内でも時間によってことなる。成長率や収益率は固定値ではない。

自由競争社会では能力差によって結果に差が生まれる。
日本でも競走の結果で差がつくようになってきているが、その差は再調整されて、足が早いひとも遅いひとも同じようなタイムになるようになってきているのは所得再分配からの調査でわかってもらえたと思う。

これらの再分配調整が行き過ぎると足の早いひとは遅く走っても一緒だと思うようになるし、足の遅いひとは走らなくてもいいや、走るだけ馬鹿らしいということになる。事実、日本のここ数十年の成長率を見ると超低成長になっているので、既に牛の角は矯められていると言っていい。

再分配所得の格差を縮めるために、成長セクターの成長を衰退セクターを支えるために割り当てるのは成長には負荷になる。どのように富を創りだすかではなく、どこから富を獲ってくるか、お金をひっぱってくるかしか考えないようになる。現状の政治は既にそうなっているようにも感じる。物事の筋としては、当初所得が稼げない人をださないようにすること。つまり貧困者を出さないようにする仕組みを考えなければいけない。老齢で働けなくなった人たちにどう価値創造にまわってもらうかを考えなければいけないのだ。

経済成長と格差には相関関係はあるが因果関係はない。従属変数である格差や貧困率を再分配により下げたところで、当初所得の格差は埋まらない。
経済が成長すれば収入が増えるひとがでてくるので過去と比較して収入差は拡がるかもしれないが、それをさして当初所得格差がうまれたのは経済成長をめざすからだと結論づけるのは間違っている。テストの満点を下げれば最高得点と最低得点の格差は縮まる。それをもって0点をとった子や白紙で答案を提出する子との差が縮まったと喜ぶのは間違ってるでしょうょ。

徒競走をすれば足の遅い人と早い人に差が開くのはあたりまえじゃないか。足の早いひとに重しをつけたり、足の遅いひとに短い距離でいいよとハンデキャップをつけてあげたりすることで、結果の均衡をとることはできる。でもそんな競争で一体何がしたいんだい?

現役世代から摘んで老齢世代の維持のためにつかう。成長分を摘んで限界集落の維持のためにつかう。
それは格差是正だろうか?少なくとも当初格差の是正にはつながらないのではないかと考える。

好むと好まざるとにより我々は生存のために食物などを消費する。その分を生産をしなければならない。この生産量の質と量が生活の余裕である。
早く走れる人を早くは走らせない、競走もさせないというのは、結果の均衡化にこそなれ、そこから産まれてくる結果の質や総量はしょぼしょぼのカッスカスになってしまうのである。個々の成長なくして全体の成長はないのであるから、競走をできる環境と適性なルールが重要なのだ。

つづく

あー、次はトリクルダウンあたりか、才能の比較優位とか人口動態について書こうかな。
希望があればどぞ。
[財福主義]タグでまとめてます。

21世紀の資本論からの参照箇所等

P446 資本収益率の格差
・ポートフォリオ管理の仲介者を雇える
・規模の経済が存在する
・資金がある場合のほうが不確実性を許容できる

P461
まったくの盗窃による財産はなかなかないが、同時に完全な能力による財産もほとんどない。
1987-1994 ビル・ゲイツの前に「フォーブス」ランキングの第一位を占めていた日本の億万長者(堤義明、森泰吉郎)
かれらの資産はすべて、不動産および株式市場のバブルによるものか、芳しくないアジア流の駆け引きによるものと考えられているせいかもしれない
* 堤義明 西武鉄道グループの元オーナー
* 森泰吉郎 森ビルオーナー
日本の1950-1990年の成長は歴史的に空前の水準で、起業家たちが何らかの役割を果たした

P496 社会国家の形
国民所得の4分の1から3分の1を消費している。半分は保険医療と教育、残りはだいたい所得と移転支払い(*13章10 オンラインS13.2)

P498
現代の所得再分配は、権利の理論と、アクセスの平等という原理に基いて構築されている

参考引用など

3 税・社会保障による所得再分配 – 内閣府
www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je09/pdf/09p03023.pdf

日本の所得再分配―国際比較でみたその特徴 太田 清
www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis180/e_dis171.pdf

P.2 要旨
問題意識
経済協力開発機構(OECD)が 2005 年に出した各国の所得格差に関する分析や、
2006 年の「対日経済審査報告」では、日本は政府による(税、社会保障による)
再分配の前の所得では比較的平等な方であること、しかし、再分配が小さいた
めに、再分配後の可処分所得では不平等な方になっていることを指摘している。
また、特に労働年齢層(現役世代)の低所得層に対する再分配が小さいことを
指摘している。

日本の景気回復には格差是正が必要か?
fromdusktildawn.hatenablog.com/entry/2014/11/30/072247

日本の格差はなぜ広がったのか/「ジニ係数」が過去最大に
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131021-00000001-wordleaf-soci

所得格差の拡大は経済の長期停滞を招く ニッポンは「一億総中流」でなくなるのか
toyokeizai.net/articles/-/44935

限界集落維持のコストは国土交通省が検証へ
いままで限界集落の維持コストの試算すらしたことがなかったようなのだが今度4モデルでするそうだ。NHKのニュースであったがニュースソースが消えている。


第二夜 社畜という現代奴隷の重要性


正社員になれないのなら株主になればいいじゃないの。

ダイヤモンド就活ナビで就職したい企業ランキング現在1位の住友商事でみると一株あたりの配当利回りは4.23%である。
(( navi15.shukatsu.jp/15/contents/special/ranking/2014/ ))

2015/1/8現在の株価は1,181円であるので、2億3,600万円分の同社の株式を保有していれば、年間約1,000万円の配当金を寝てても受け取ることができる。
(( stocks.finance.yahoo.co.jp/stocks/detail/?code=8053.T ))

大企業に就職すれば安泰だというが、そこで働きたいと志す若者は居ても株主になりたいという若者の数は少ない。労働力はひとつの企業にしか提供できないが、資産であれば複数の会社に分散することができる。であるならば、これは、どう考えても株主のほうが安定的ではないか。

資産の無い者たち

だがしかし、これは先立つものがないと叶わないお話しである。
前段の「お金と相転移」で話したように、資産に働いてもらうのが資産を増やすにはもっとも変換ロスがすくなく効率がよいのだが、そもそも若者は資産を持っていないので労働資本をつかって資本を稼ぐよりほかない。

大戦以前はこの労働所得をいくら積み上げても、一端の資本家とよべる資産にまで達することはなかった。しかし、現代の日本では所得収益と資産収益はコントロールされており10倍の差もなく収まるようになっている。

資産のある者たち

他方、既に資産を持っているものたちにはその効率の良さを潰すべく累進的な負担が強いられる。
座して食らわば山も虚しということわざがあるが、現代先進国では正規分布から外れれば外れるほど難しい対応が必要となる。なんせ負担は%で増えるのだ。
例えば相続税、6億円以上にかかる税率は55%、1,000万円以下は10%であるが、20世紀のように一族で資産を守るべく代襲相続制、限嗣相続制などで資産を守ろうとしても前者は減らさないように努めようとしたら最低でも3億3千万をどうにかして増やしてこないと目減りしてしまうのだ。

持っていれば持っているほど累進的な負担を迫られる。その資産を現状有姿で維持し続けるのは、資産が大きくなればなるほど難易度があがる。大きな資産を防衛できるぐらいの才覚があるなら、新たにその分を稼ぎだしたほうが、資産を増やせる程度の割合に設計されている。数億円ならいざしらず数百億円規模となるなら資本では再投資しただけでは間に合わず法人などにして事業所得にしないと維持もできないのだ。

これは個人の裕福層を封じ込める網としてはなかなかのものだ。
日本は最も成功した社会主義国家だというジョークがあるが、あながち間違ってもいない。

例えば、かなりまとまった額のお金を持っているのに企業に勤めていないがため入居審査が通らずマンションも借りられないと嘆く投資家がいた。身内でも働いている人がいないので連帯保証人を求められてもマンションも借りられない。無論住宅ローンなど望むべくもない。社会として保有資産よりも安定所得に価値が認められている。とかく日本は少しでも型から外れてしまうと社会生活を営むコストは格段に跳ね上がるようになっている。

個人から法人へ

資産がある者は大きく奪われ、資産の無いものは働くよりない。ではこの2つを満たすために何が残るのか。資産は個人が所有・維持するものから法人のものとなる。これが先進国での21世紀の資本主義の潮流である。
法人の事業形態は様々であるが、活動する場所は世界中好きに選べるし、何にお金を使い、何で稼ぐかも自由に選べる。そして、国際租税条約下にある近代国家間では税率も自由に選べるといっていい。

そのため、富は資産家のものから事業家のものへと替わった。
現代日本でのお金持ちは事業所得により資産を得たGreeの田中氏やソフトバンクの孫氏のように自らの才覚で稼いだ者達であり、旧家で資産家だからということでその財を増やし続けるというようなことは叶わなくなっている。これは世界的にも同じ潮流である。それがフェアかはともかくとして一応は能力主義的平等に基づいているという前提だ。

これは能力主義に基づいたとても公平なシステムのようでいてそれなりに残酷な現実でもある。
建前上、金持ちが貧乏人にお金を分けることができるが、能力がない人へ能力をわけることはできないのだ。

つまり、能力がないものが資産を得ようとしたら、能力があるものと仲間になり、おこぼれに預かるのが唯一の方法となってしまう。しかも、何を能力と評価するかは成果という結果からの評価からでしかなく、事前に決定することは難しい。ウォーレン・バフェットはかつて世界一位の資産家にも輝いたことがある能力のある投資家であるが、彼が成功を収めるより先に彼を見出すのは困難である。ゆえに彼が一定の成功を収めたのち彼に相乗りできるか否かが、フォロアーとしての重要な能力となる。

かつての農業のように労働と生産が密接に相関している社会ではなく、現代は資本増強型の工業世界である。その実、労働資本は価値生産の重要な要素とは言えなくなってきている。しかし、資本の受け皿として生き残るものが法人、組織だけである以上、提供されるそれを労働資本として受け入れるよりない。であるとするなば、ファウンダー以外、フォロアーの能力は、価値を生産できる組織にいかに所属しているかが”能力”という意味を強めていくという可能性がある。

実際に価値生産をできるかどうかなどは二の次として、社畜となってでも稼げる組織にしがみついたほうが、不確実性も低く生存合理性が高いという社会弊害を同時に生み出す。
ああ、なんてこったい。

規制と収益

冒頭の株のように資産を 4.23%で運用できるのであれば17年寝かせるだけで配当利回りだけで資産を倍にできる。他方、日本の円預金金利は現在年率0.02% である。これを利子で倍にしたければ3,600年またなければならない計算だ。

外部要因によりどのように振る舞うのが合理的かはリニアに決定される。
低成長、デフレ下では現金を持つのが振る舞いとしては合理的であり、逆にインフレ下ではモノに投資するのが合理的である。外部環境が変化しても資産をどのような形にも変換せずに置いておくのは資産運用上はありえない選択肢である。収益率によりお金の現在価値、将来価値は変化するのであるから効率性が重要となる。((今の日本はちょっとスタグフレーションに陥ってる可能性もあるので外部環境の評価が困難かもしんない。))

で、合理的な振る舞いというので思い出して欲しいのだが、お金はお金で稼ぐのがもっとも効率がよいという話しをした。
では、ここで、上場している企業の業種別の利益率(ROE)を業界別に見比べてみよう。 (( www.tse.or.jp/market/data/examination/tanshin/ ))

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平成25年度や平成26年3月期をみると、お金を貸してお金を稼いでいるような金融業と、お金を労働力に替えて、労働力をモノに替えて、再びお金を稼いでいる製造業や全産業の収益率がほぼ同等であることに気がついていただけるだろうか。

自由競争が行われた場合、完全競争市場下では他の業界の標準的な利益になるまで新規参入が絶えないので、収益率がほぼどの業界も均一になる。逆に、収益差が維持されているような業界には政府による競争障壁などが設定されているケースがある。

しかし、実際のところは産業種別ごとに資本回転率はことなるので景気動向など外部環境への官能速度は異なってくる。在庫のようなモノとして保持する業界、労働力を所有する業界とでは外部環境への調整スピードがかわってくるのだ。国の政策などにより大きく外部環境が変わると、その収益率には差がでてくる。

企業という富を保有する組織。資本社会では富の受け皿として重要な意味をもつようになった。
この企業のステークホルダーたる労働力を提供する従業員、資本を提供する株主、そして制約をあたえる国、地方自治体。この関係は個人の富の形成についてとても重要な意味をもつようになったのである。

奴隷と雇用

社畜や奴隷という表現は人によっては嫌悪感をもよおす過激な言葉かもしれない。なぜなら現代において、従業員の時間をお金で買いとるというのはまったくの合法であるからだ。

しかし、わずか数世代前、奴隷解放運動につとめたトマス・ジェファーソン大統領は600人を超す奴隷を所有していた。これは奴隷所有が彼が解放運動をするまえはまったくの合法であった時代があったからだ。アメリカの議会で女性の奴隷を鞭打つときに上半身を裸にさせるのは是か非かについて真面目な議論が繰り広げられていた時代はそんなに昔しではない。

ブラック企業だの社畜という言葉が既に生まれているように、個人を資本で購入し、時間拘束するのが100年後も合法であるとは限らない。

かつて水飲み百姓は、耕作地を耕しても庄屋さんに年貢 for Youであった。

現在、雇用されている従業員が職務中におこなった著作物は職務作成としてあつかわれるし、職務発明であればその発明から莫大な利益を生んだとしても個人に還元されるものは給与のみである。日本では白色ダイオードで揉めたため今後そのように法規制が強まる予定である。子門真人はおよげたいやきくんを買い取り契約であったため歌唱印税を得ていない。

これらの事実から鑑みるに、知財ではまだ墾田永年私財法以前であるともいえる。

つづく

ほぼ日でシリーズで書いてます。
次回は所得と格差あたりについて書こうかいな。
[財福主義]タグでまとめてます。

参考引用など

日本型社会主義
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9E%8B%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9

三菱東京UFJ銀行 円預金金利
www.bk.mufg.jp/cdocs/list_j/kinri/yokin_kinri.htm

ピケティ 21世紀の資本論より

P377
イギリス 限嗣相続制(げんし)
フランス 代襲相続制
財産の断片化を避け、家族の富を維持、増大させる。

P148
図4-1 ドイツの資本
19世紀後半 1870年代 国民資本の価値約300%が農地由来

P166
新世界と旧世界 奴隷制の重要性
トマス・ジェファーソン 600人超の奴隷を所有
米国1770年 40万人 1860年 400万人超の奴隷 人口の40%
農地にはたいした価値がなかかったが、土地利用に必要な労働力も所有する

P217
富裕国の富は不動産と金融資産にほぼ均等に二分されている。
金融資産のほとんどは株、債権、投資信託、確定年金、年金基金などの長期金融契約である
無利息の当座預金は国民所得の10-20% 総資産の3-4%
普通預金も含めると30%超、総資産の5%
預金金利は資本の平均収益率によってあまり重要ではなくなる。
総国富を占める住居の賃料(持ち家により所有者が賃料を払わなくてすむのを選ぶ人も含む)5%相当
民間財産、不動産や金融商品への投資


第一夜 自然科学と経済の白熱教室


朽木とは徐々に腐るものであるが、崩れるのは突然である。

フランスの詩人はこういったという。
・・・たぶん。
まぁ、そんなような事を言ったやつもいただろう・・・。

だから、NHK のパリ白熱教室を見逃すのもいたしかたのない話しである。だってチャーリだもの(Je Suis Charlie、、黙祷)

経済と科学

経済を考えるときにいつも考えてしまうことがある。これはいったいなんであろうかと。

化学で言えば、溶液を混ぜあわせるのに割合、%だけで論じてコントロールしようとしているレベルに見える。
溶液AとBを30:70で混ぜてみよう! っと。溶液Aの濃度も定義されていなければ温度もわからない。かろうじて体積がわかる程度。それを割合や率だけで論じて、混ざった溶液を味見して「しょっぱすぎた!」だの、「薄めすぎた!」だのやっている。
なんだかよくわからないものが混じって「すっぱくなっちゃった!」とかパニックになっている。

経済は人間同士の営みであるのだから互いに緩衝しあう緩衝系溶液のようなものである。
反応をすすめたいと滴定をしてもしばらくは緩慢な反応しかしないが、当量点に達したとたん反応が一気にすすむ。化学的な単純なモデルですら非連続なのだが経済などの評価は連続的にすすむものとして扱われることが多い。だが実際は腐った木が倒れるように、自然では変化面は非連続となるほうが一般的なのだ。


中和滴定曲線
ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%92%8C%E6%BB%B4%E5%AE%9A%E6%9B%B2%E7%B7%9A

結果からしか評価できない

経済活動なんてないような限界集落も、1キロ四方に6,200人以上を詰めこんだような都市もおどろいたことに同じ制度で運用がされている。率があてはめられ、ざっくりとした割合で論じられている。

生活様式も違えば生産様式も違う。だけれども出てきたものを同じ通貨で評価して、稼ぎに応じて%を変えたり、控除を設けたりして、そしてまたごちゃまぜにして分配したりしてなんとか均衡を保っている。

広大な大地がある北海道の土地と都内が十把一絡げに同じ税率になる。目的も中身も違うものを一律で、しかも割合で管理しようというのだ。なかなか豪胆なしくみをつくったものだ。修正修正を繰り返し職人技による運用でなんとか制度を維持している。

あぁ、で、やっぱりこれはなんだ?

エネルギー交換則とピケティの原則

ピケティがうたった原則はシンプルだ。

r > g (資本収益率 > 成長率)

という式、資本がもたらす利益は成長率を常に上回るというものである。

自然科学からすると、この式にすらなっていないように見えるなにかはきっと時間での積分を考慮する必要があるのだろう。確かにそのような仮定であれば格差は開く一方であるし彼が示したデータもそれは一定正しいように見える。

経済のいやなところは、物理学でいえばまだ第一法則の範囲内で”もちゃもちゃ”しているところだ。そのほとんどが等加速度的な単純なモデルを提示することで終わっている。ずっと利子と格闘していて%と指数だけが支配する世界にいる。
正か負のフィードバックがかかるかはすれ、なんらかの近似線に収斂するものと仮定される。そして循環、再帰する。

このような理路で物事を捉えると、坂道を下る車はずっと加速し続け、細胞分裂はとまらず、火がついた森は時間とともに火勢がましつづけ、温めた水は温度があがりつづけることになる。しかも循環するだって?

だが、実際は坂道を下る車はどこかでコースアウトするし、森林火災は燃える森がなくなったら鎮火し、水は沸騰して相がかわる。過去100年に一度も観測もされなかった現象は毎年のようにどこかしらで発生するものだし、白い鴉は居るものだ。(( ヘンペルのカラス ))そしてアキレスだって亀を追い抜くだろう。((ゼノンのパラドックス))

人工知能がディープラーニングにたどり着く手前でビッグデータパラドクスに捕まっているかのようだ。猫についてあらゆる特徴を定義していけばいつか猫を認知できるに違いないと細かいラベリングに苦心している。だが事象の観察から特徴量が多い部分を抽象化してラベル付けし、モデル化しただけでは定義同士の衝突がおきてしまうのだ。

そのやわっこい土台をもつ経済に、それをなんとかコントロールしようというさらによくわからない政治や政策が絡む。なんかもうちょっと悲惨な事態だ。

政策というやつは失敗しようものならすぐさま認知され非難されるが、上手くいったものについては注目されもしない。もっと言うと上手く回っているもことすら気がついてもらえないがために、そこに仕組みがあることに気がつくのも困難なのだ。

経済なるものは時間とともに変化し、ほんの少し予測をしただけで容易に結果に干渉してしまうやわっこいものだ。

再現性と客観性がないものは科学ではないという。
ん~、であるならば、経済とはやはり一体なんなのであろうか?

お金と相転移

お金を稼ぎたいのであればお金を使ってお金を稼ぐのが一番効率がいい。お金にお金を連れて帰ってきてもらうのだ。例えばお金を貸し付けて利子をもらうなどのやりかただ。(お金→お金)
流動性を落としてリスクを分散したいのならば株券などの有価証券をつかうのもよいだろう。国債に投資すれば不確実性は無視できるほど小さくできる。(お金→流動資産→お金)
流動性はさらに犠牲になるが不動産に投資することもできるだろう。(お金→固定資産→お金)
権利に投資するという方法もある。(お金→権利→お金)

では、お金を稼ぐのにモノをつくったり、サービスを提供したりするのはどうだろうか?(お金→人→労働→モノ→お金)(お金→人→サービス→お金)

これらには人の仕事が介在することで価値創造分が付与されるので、収益率からだけで投資効率を比較をすることはできないが、人がそこに労働価値を付与しなかったらどうなるかを想像してもらうだけで十分であろう。

お金を熱エネルギーとして考えれば、熱エネルギー交換則よろしくエネルギーの形が変わるごとに無駄が発生する。閉鎖されていない系ではエネルギーの完全交換は成立せず、永久機関が完成することはないからだ。

お金が人間の労働力にかわり、労働力がモノにかわり、物がお金になって再投資される。この相転移の過程でロスが発生する。仲介者や中間業者がはいればはいるほど効率は悪くなるのだ。

財産と労働資本

若い人は労働資本というものを持っている。
この労働資本というのは働けるという可能性のことだ。
労働資本は実際に労働をすることで資産と交換することができる。
交換された資産は貯めることができる。

やがて年をとって労働資本がなくなるころには人によって残酷な現実がありこそすれ資産が貯まっていることになる。その資産をつかって若い人に働いてもらうという連綿とした流れがある。

1872-1912年ごろの大戦以前のフランスでは裕福層は労働資本をつかうことなく、その資産の一部をわずかに再投資するだけで、労働者が労働資本から得る効率の100倍近い所得を得ていた。

この時代は労働資産をいくら積みあげても、g(労働資本の蓄積成長率)がr(資本収益率)を上回ることはなかった。

相場を動かせるほどのまとまった財があれば、その投資効率は極めて高く、一部を再投資して財をさらに増やすのが実に容易なことであるというのは歴史的にみても自明である。ピケティの資本論でも中心的にかかれていたが、何故そうなるのかについては、すこし内容がそれるので後述することとする。

しかし、これも大戦後崩壊する。財閥は解体され、累進課税がつくられ、不労所得生活者は事業所得者ほどの収益をあげることができなくなった。

資産で資産を稼ぐのは効率がよすぎるので、税金という%での負荷がかかる、お金同士の反応を制御する半透膜がつくられたのだ。

そして21世紀は大戦により吹き飛ばされた裸一貫の男たちが能力主義的希望に基づいた所得格差社会となった。

つづく

次は、能力主義的社畜についてでも書きます。

関連しそうな参考引用

(**16章33)
Google「利潤や給与よりも多くの富を社会に対して貢献しているのだから、われわれが税金をあまり払わないのも合理的なことだ」
企業や個人が製品の値段よりも大きな限界厚生を経済全体に貢献しているのであれば、税金は減るし補助金をもらってもいい。正の外部性。本当にしていると証明する根拠など提出していない。各個人が自分自身の税率を自分で決められるような社会を管理するのは容易ではない。

P385
ベル・エポック期パリ市民で最も裕福な1%は当時の平均賃金の80-100倍の資本所得を得ていた(1872-1912)
ごく一部を再投資して相続した富を増やせた。
大戦間で崩壊
次世代に平均賃金の30-40倍の資本所得をどうにか生み出す程度しか遺せなくなった
1930年代末期には平均賃金の20倍にまで減じ不労所得生活者にとってこれは終わりの兆しとなった

なるほどわからん。頭がカオス化する、気の遠くなるような10のパラドックス(論理的矛盾)の世界 : カラパイア
karapaia.livedoor.biz/archives/52182078.html