カテゴリー: コラム

  • ぼっち主義はシゾイドパーソナリティ障害

    シゾイドパーソナリティ障害(スキゾイドとも言う)というものがある。

    • ぼっちが好き
    • 他者と親密な関係をもちたいとは思わないか、あるいはそれを楽しく感じない
    • 親しい友人、信頼できる友人がいない
    • 性体験への興味がもしあったとしても少ししかない
    • 喜びを感じられるような活動がもしあったとしても少ししかない
    • 賞賛にも批判に対しても無関心にみえる
    • よそよそしさ、超然とした態度あるいは平板な感情

    4つ以上当てはまったら君も立派なシゾイドパーソナリティ障害だっ!
    障害とあるが一般人口の7.5%と結構な割合に及ぶそうで、男性のほうが女性より2倍多い。遺伝起因。
    社会生活を営むにあたり、他人に迷惑をかけるわけでもなく本人も生活する上で困ることが何一つない。そんな障害。

    口数少ない職人気質のオヤジさんのイメージだろうか。あれが多分シゾイドだよね。
    なんかこれをみて、凄く腑に落ちた。多分俺もスキゾイドだなと思ったわけです。

    世の中には理性が負けちゃう性欲異常者がいるように、理性が強すぎるのも後天的な性格形成の問題だと思っていました。男性の発現率が2倍ということは劣勢遺伝かね。7.5%ともなるとかつて見合い結婚とかで結婚してた層とかはまるごとシゾイドなんじゃないかなとも思える。

    1. ぼっちでいることが苦にならず、むしろ性に合っている
    2. 他者への関心や関わりへの欲求が乏しい
    3. 流行やファッション、外見にも関心がない
    4. 自分から話し始めることを避ける
    5. 時に奇異な喩えを使うことがある
    6. 無生物や形而上学的概念に魅了されたり、数学、天文学、哲学的運動に興味をもつ
    7. 他人の賞賛や批判に対して無関心に見える
    8. よく知らない人と親密であるという不確かに我慢が必要

    特徴抽出をおこなうとこんな感じだろうか・・・。心当たりありまくる人はいないだろうか。ありまくるんですけど・・・。世の中にはさみしがりやが居る。おしゃべりがいる。多動なやつがいる。枯山水の前に座らせたら3分と我慢できない人もいるのは想像もできる。でも黙って座らせたら枯山水楽しんじゃったりしてずっと座ってるようなやつもそれはそれで障害だということか。そもそも遺伝レベルで個体ごとにそれほどまでに興味関心にずれがあるとは思っていなかったな。ふむ。

    学校で一緒に昼食をとる友達がおらず、便所の個室でご飯を食べるのを便所飯というそうな。便所飯のひとは確かに孤独であるが、他者からの目が気になっているという意味ではシゾイドではないのだろう。別に他人からどう思われようがあんま気にならなず、景色がいいところとか、そういう自己の価値観で気に入ったところで飯を食いだすんじゃないかと思う。屋上とか日当たりのいい土手とかね。一人でそういうところに行ってしまうやついなかった?きっとそういう奴。

    異性にモテたいのにモテないのでこじらせてしまったり、友達が欲しいのにできずに鬱憤がたまってしまったり、自己の評価が不当だと感じて鬱積してなにかの複雑性とからまったりなんてことがシゾイドにはない。欲求が薄いので犯罪には走らないが、同時に名誉をあたえても金をあたえてもそれをモチベーションに釣ることができないので組織としてはちょっと度し難い。仕事のできるできないの個人の能力とは別なのもちょっと分かり難くい理由なのかも。
    そういえば西郷隆盛は「命もいらず名もいらず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり。」と評されたそうだ。まあ使うほうからすると困るよね。

    いやぁ、こういうのは後天的な体験から形成された価値観だと思ってたんですよね。
    変な喩えとかを使うのも、暗黙的に知っている知識が違うので、その暗黙知のすり合わせができてないから伝わらないとだけ思ってたんだけど、そもそも暗黙知がずれるということが既に興味が他にむいているということだと。
    それぞれの項目を自分の体験とヒモ付て、なんでこういう価値観になったのかというのを結論づけていたのだけど、自分は気質として他人からの評価をそもそも気にしない傾向があるので、ほっておくとどんどん仙人化するから気をつけようと思えるようになっただけでちょっと収穫かもと思いましたとさ。

    そんなわけで、今日は誕生日でした!(こういう空気の読まなさがシゾイド

    **参考
    http://www.e-heartclinic.com/kokoro/senmon/spd01.html
    シゾイドーソナリティ障害は一般人口の7.5%、喜怒哀楽の感情、他者への関心や関わりへの欲求が乏しく周囲からの評価には無頓着、流行やファッションと無縁。無生物や形而上学的概念から数学,天文学,哲学的運動に興味。孤立した生活様式。時に奇異な喩えを使うことがあります。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%82%BE%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E9%9A%9C%E5%AE%B3

    「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」を追求するモラトリアム人間は、心理的性格としてシゾイド(分裂症)的だと言われます。
    http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/okono/3.htm

    「命もいらず名もいらず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業はなし得られぬなり」
    http://sasakitsuneo.jp/leader/04.html

  • スコットランド独立がどうこうのあれこれ

    初めてのあてもない一人旅はスコットランドだった。16歳の夏であったろうか。
    当時英国の左っかわの方に両親が住んでいたこともあり、それまでも一人で海外行きの飛行機にのったりなど国内外一人で長距離移動するのも比較的慣れたものであったのだが、宿泊先がきまっていたり、どの電車に乗ればいいかなど路順を事前に調べてもらったりしていたので旅という旅ではなかったように思う。

    まだ青臭いガキンチョはどこに泊まるかも決めずに、ちょっとスコットランドの方に行ってくるねと行って旅に出た。
    宿泊地はグラスゴーとエディンバラ。その後、私もおっさんになり世界各地いろいろなところに行った気もするのだが、はじめてタヨリもアテもない一人旅であったゆえ、最初の宿泊地グラスゴーという都市だけは今でも鮮烈に覚えている。

    当時のグラスゴーは強烈な不況にあえいでいて、英国内でも最悪に近い状態の治安の悪い都市の一つだった。サッチャー政権が1980年頃に炭鉱閉鎖を決めたため街には失業者があふれていた。その失業問題は以後20年以上解消できないままでいた。無論当時の私はそんな事など知ろう由もない。

    グラスゴーの駅にあったインフォメーションで朝食のついた安い宿泊施設を案内してもらい、B&Bというよりはホテルに近いエレベータのあるユースに泊まる。ちょっと厚めのベーコンとソーセージにハッシュドポテト、目玉焼きと薄いパン。シリアルとやたらに美味しい牛乳とオレンジジュースのありふれた朝食を寝坊して食べ損なったのを今でも記憶しているのだから食べ物の恨みというのは恐ろしい。自業自得なのだが…。はて、食事の内容を覚えているのに食べれなかったことも覚えているということはどういうことだろうか。数泊したのだろうか? もしかしたら行きと帰りで立ち寄ったのかもしれない。

    まあ、そんな宿泊施設。地上から4~5階だっただろうか、街の屋根を見下ろせる程度の高さの部屋であったことは覚えている。鉄パイプと薄いマットのベッドに大きいソファー・チェアー。夜、開けた窓から乾いた炸裂音が何度か聞こえた。パン、パンパンと。そんな音がたびたび。何度か。これダメなほうの炸裂音だと気がついたときに気休めにドアの前に大きめの椅子を動かしてバリケードを築いてから寝たのは別に臆病だと責められるほどでもないように思う。あぁ、寝坊も許されようというものだ。

    経済が悪いのはすべてイングランドのせいらしい。そんなスコットランドが独立したいのだという。
    グラスゴーでは賛成派が反対派をうわまったが全体では否決された。

    東京の地下鉄でサリン事件が起きていた頃、ロンドンの地下鉄ではIRA(アイルランド共和軍?)のものとみられる爆弾テロが相次いでいた。彼らは昔からなんとしでも独立したいのだ。独立を主張したいのだ。失敗した今、またかつてのように先鋭化した集団が過激な手段がとられないことを願うばかりだ。

    日本では英国のことを「イギリス」と呼称する。しかしアイルランドとかでイギリスなんていおうものなら、胸ぐらぐらいは掴まれることは覚悟しなければいけない。イギリスとはイングランドのことであって、スコットランドはイギリスではないのだと物静かそうなおじいさんからも説教をうけるだろう。日本の学校で習ったような英語をつかうとアメリカ人みたいな言い方はやめろと注意される。とても気むずかしい地域なのだ。ちなみにイギリスといわれて快く思わない地域は多いので、日本以外ではユナイデット・キングダム、U.K(ユーケー)と言うのが無難である。あ、もちろん日本でUKなんていおうものなら生暖かい目をされるので、日本では空気を読んでイギリスと言うようにしよう。空気を読んだ世渡りはかくも難しいものである。

    言葉も違うし、違うことも強いこだわりがあって、違う通貨も出回っている。(通貨単位は一緒のポンドなのだけど、アイルランド中央銀行というものがあって、違う肖像のお札やコインが出回っていたりする。いまでもあるのかな?)

    また万里の長城のように、イングランドとスコットランドの間にはハドリアンウォール(ハドリアンズウォール)という列島を東西に横断する物理的な壁がある。
    これは神聖ローマ帝国時代に国境線としてAD122年頃から建設が始まったもので、当時のローマ帝国も抵抗が激しいスコットランド側の平定を諦めることに決めた地点でもある。かれらの先祖はローマ帝国ですら退けた。つまり、2000年も前からかの地は併合容易ならざらぬ地域なのだ。

    ロシアとクリミア、シリアの問題、イスラム国の問題、中国と南沙諸島の問題。いつだって国境とそこに帰属する人たちの問題は地球上から一度たりとも消えたことがない。一度収まった国境ですら今回のように分離を叫ばれることがある。所以はどうあれ現代国家の一部地域が独立を果たすというのは生易しいものではない。生易しい問題ではないが、まったく考えなくてもよいわけでもない。

    近代国家が戦争をするというコストはかつてのそれより格段にあがってきている。
    かつて戦争をすることによって得られる利益というものがあったが、近代国家は戦争によって得られる利益よりも損失のほうが大きくなっている。

    近代戦による焦土化、戦争による経済の停滞、国際商流からの仲間はずれ、負傷兵への保証、家族への保証、国際連合からの報復。いずれも、先進国であればあるほど看過できない問題だ。また勝っても併合コストは生易しいものでない。得られるものよりも失うもののほうが大きすぎるため先進国同士での戦争はわずか数十年ばかりではあるがこれまでは回避されてきた。

    戦争をすることのコストがあがり、戦争の脅威が少しでも遠くにおいやられると抑止力たる暴力装置(軍)の問題がうかびあがる。軍などは集約化したほうが運用コストが下がる。市町村で組織された自警団をいくらたばねても軍にはらならいが、市町村を束ねてから国をつくり国の自警団をつくれば軍隊になる。ある種の大掛かりなものは国というレベルで運用したほうが、コストも下がり成果があがる。

    しかし、国より大きな枠組ができたときはどうか。国連という連合組織や、EUという協同運用体がスコットランドにとっては、イングランドと組むよりもよいのではないかと天秤にかけることができるようになる。国よりも大掛かりな経済的な枠組み、治安維持装置ができてしまうとこんどは国という枠組みが形骸化する。

    国の眼目は秩序を維持するための暴力装置と、通貨を運用し信用を維持するだけの信用。それを支える税収、その集まった税を分配する分配権にある。税の再分配は不平等を感じさせるものであってはならないし、信用を維持するためには将来にわたり継続性が予見されなければならない。

    信用担保のための通貨(ユーロ)は国連やEUに依存できるとしたときに、先進国の一部地域の独立というのは選択肢としてありうるべきものとなる。

    現実問題として考えると、スコットランドが独立することへの経済的な合理性はまったくもってないし、そもそもユーロに加盟できるのかとか、軍の問題はどうするのかとか、秩序維持ができるのかとか、通貨の信用性は担保できるのかなど、外部からみると、人々が扇動されているようにしかおもえない熱病にうなされた何かなのだが、それがアイデンティティなのだよと言われれば、なるほどそうなのかとも思わなくもない。

    変化に対するリスクが考慮され今回は否決されたが、このような問題は再噴することだろう。もしかしたらそれはスコットランドでではないかもしれないが、国というものが地域のあつまりで集合離散を繰り返すものであるのであるので外部の環境が変われば国の状態もかわる。

    やらかした国への国際制裁がうまく機能しなかったとき、内政的要員により指導者が誤った判断をするしか選択肢がないとき、大衆扇動がうまく機能したとき、自然や人的な災害に見舞われた時。ささいな連続性の喪失で変化は突然に訪れる。

    やれやれ、なんの話しであったか。
    おおぉそうじゃった。国じゃったな。
    かつて人々は国をつくるメリットを見出した。お互い少しづつ譲りあって大道合意形成をする。国は最大公約数的な枠組みをつくる。経済連携などで国同士があつまって妥協点を探る。大きな枠組が完成に近づくにつれ、最小単位は国からもうすこし小さなユニットになる可能性は十分にある。

    日本全体を指す時、全国という言葉がつかわれる。日本もお国の集合体なのだ。

  • 希少性が生む価値と労働対価。失敗の価値

    昨日の仕事と働きの分析のつづき。仕事から生まれた価値に希少性がまじりこんでくるので希少価値について考える。ふわーっとした思索。

    http://kuippa.com/blog/2014/08/12/%E3%81%BE%E3%81%A0%E5%83%8D%E3%81%8D%E3%81%A8%E6%88%90%E6%9E%9C%E3%81%AE%E8%A6%8B%E5%88%86%E3%81%91%E3%81%8C%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%84/

    ##希少性とサンクコスト

    サッカーのプレミアリーグで活躍できるような選手はサッカーの競技人口2億6千万人のうちどれほどであるか。
    パブロ・ピカソのように億円単位で作画が取引される画家が出現するのには何人の画家と作品が必要か。
    常人よりわずかに走るのが早いだけのウサイン・ボルトはなぜ栄誉を勝ち得るのだろうか。
    ダイヤモンドを掘り出すために必要であった土砂鉱石のうちダイヤモンドではなかったものには価値がないのか。
    その価値がないものを掘り出すためには仕事が必要であり、その仕事量がダイヤモンドに希少価値として付与されるのではないか。

     
    画期的と評される代替の手段の発見、発明にどれだけ失敗はつきものでろうか。発明に至れなかった失敗があるからこそ発明に至れた時の成功の価値は押し上げられる。

     
    一定水準に達しないもの。失敗。それは価値がないものであろうか?
    自分が犯した失敗、ライバル達の失敗、先人たちの失敗。そこにはどのような価値を認めることができるだろうか。
    凡百にも描ける絵、才気あふれるものの絵、さらに歴史に名が残るような画家の描いた絵。価値があるのはどこからか。
    果たして経済的には価値にたどり着けないが道義的には価値がある。これはいかなものと評価するか。

     
    働き手が生み出した仕事。手間ということで考えればいずれも同水準の価値しかないかもしれない。しかし、除草剤という草むしり業界のイノベーションモデルを考えた場合、除草剤の発明に至れなかったという働きには、仕事成果という面では一本も草を抜かなかったのと同義となる。しかるに成果側面から評価した場合、この閾値を超えられなかった働きを評価するのが難しくなる。

     

     

    複雑にしているのは仕事の働きとして交換された価値(貨幣)にプレミア(希少性)がまじりこむからではないか。

     
    経済的には失敗したもののコストは成功したものの報酬にサンクコスト(埋没費用)として乗る。
    賭け事のように失敗したものの労働は無価値で、成功したもののみが勝者総取り(winner takes all) の仕組みにはなっている。

     

    ##希少性の掛け算

    希少性ももつもの同士を掛けあわせたり組み合わせることで新たな希少性を生みだすことができる。
    希少性がある凄いサッカー選手を11人コンプリートすれば凄い希少なサッカーチームができる。
    希少性が強まることで交換性も流動性も低くなり、富などとして滞留し偏在するようになる。

    大量のお金を持っているということにも希少価値がある。
    なので、希少価値をつかってさらに希少性に磨きをかけていくことができる。
    経済的な埋没コストに耐えらるには資金的希少性を必要とする。
    イノベーションも希少価値の一形態にすぎない。
    イノベーションに達したものだけがその果実を手にすることができる。そのイノベーションの果実は誰のものか。
    フラッグシップ中のフラッグシップは二番じゃだめなんですよ。二番じゃ。

     

    ##失敗の価値と成功の成果

    智にも希少性はある。
    100年解けなかったポアンカレ予想を解いたグリゴリー・ペレルマン。キワのキワ、ピンのピンが挑んでようやくたどり着くことがある人類未踏地。では、そこに挑んでそこにはたどり着けなかった数学者は果たして無駄か?
    成功というものがあるとすれば、それは失敗の集大成にすぎない。
    ではその成功の恩恵はたどり着いたもののみに帰属すべきものか?

     

     

    希少価値を得られなかったもの。1番になれなかったもの。ロナウドになれなかったサッカー選手にも、ピカソになれなかった画家にも価値がないわけではない。…はずだ。成功という希少性を得られなかっただけだ。

     
    この希少性。実に厄介で、まだ現代では算出可能なものになっているとは言い難い。バリュエーションなどの学問ができつつはあるが、企業価値のようなわかりやすい分野ですらまだまだである。プレミアとリスクの計算からは一応は出せるが、採用するインディケーターを間違うと近似値にもならないというパラドックスに富んでいる。
    人材価値や研究開発となると評価する側の職人芸に頼った決定にすぎない。まだ、えいやーの世界。

     
    複雑系においてパラメーターが2つを越せばそこにあるのは確率論でしかない。十分な熱エネルギーを与え、水を蒸発させようとしたときに、水面から飛び出す原子がどれであるかは、観測を絞りある程度の予見はできても確定はできない。科学のような再現可能な分野ですらそうなのであるからして、未来を事前に知り得ぬ人間には人の才気のような曖昧模糊としたものをもって成功にたどり着くか否かを事前に確定することはできない。つまり成功というものを想定するならば、失敗があることは確定しなくてはならない。

     

     

    成功か失敗か。0か1かの評価はわかりやすい。
    しかして、その失敗の内訳を考え、成功にどのような貢献があったのかなどはまだまだアンデジット(数値化できない)で評価はまだ体系化できていないと言っていい。

     
    よって、現代までのところ、希少性から生まれる富の偏在は成功者ばかりにかたよることは止むえない。貴族義務(ノブレス・オブリージュ)とやらで成功者は資産などを自発的に社会にある程度還元してもらうよりない。まあ道義的な範囲で。ビル・ゲイツもバフェットも成功した大企業も恐ろしい、ねたみが混じった社会の目から隠れることは不可能である。こわいんだけどまだそれしか手段がないんじゃないかな。

     

    ##絶望価値

    労働から希少性という不確定要素が外され、素の労働価値からしか算出されなくなると、結構怖い。奴隷制時代と変わらない。ある意味においてそれも合理的なのだろうが、逆行しすぎだ。

     
    ダイヤモンドの鉱脈以外でダイヤモンドが出ることはない。不確定要素は時代が進むにつれどんどん狭まりつつある。君がfacebookのマーク・ザッカーバーグになれないことは早い段階で予期できるのだ。そしてツマラナイ大人になって上司の悪口をいいながら背中を煤けさせて居酒屋で酒を飲むのを責めるのは奥さんだけでいい。

     
    あいつは璧(へき)だ、あいつは石だと、あまりに世間を無価値なものと評すると社会性動物として社会を維持していくことができなくなるし、人類のここ数百年の文化的な研鑽を無為にするのも気が引ける。しかるに、他山の石、無用の用たるものを認め、いかに多様な価値をつけていけるかが今後の課題となろう。

     

    いや、まあさておき。

    現代においてはこの労働価値が持つ意味が大きく変質しようとしている。ように感ずる。
    日本における事務職の有効求人倍率は0.19だ。ITで業務改善効率がすすみ仕事量は増えたが雇用は減った。まだ情報技術革命がとりこまれていない労働集約的な土建業界や介護業界は雇用市場はいまのところは活況だ。

     
    2020年には10万円のパソコンのほうが並の人間より処理能力が高くなる。考えることができるという我々人類の希少価値が今後シビアに問われることになるだろう。

     

    人間の持つ、可能性はかなりの面で予見可能なものになり、不確実性はどんどん狭まってくる。もしかしたらその人間が生まれる前にどんな希少性を持つかなどということがある程度のレンジで確定してしまうかもしれない。そんな可能性がある。ある種の人間は2030年には現代の痴呆老人なみの労働価値しかつけられないかもしれないのだ。下手な考え休むに似たりで、いっそ休んでてくれと。いや、ある種の人間ではないな。自分を含み、おおよその人類はとしておいて問題ないだろう。

     
    希少価値は成功したものが勝者総取りであると書いた。競争環境がフラットになるなかで人類総負けになる可能性は十分に考慮しなければいけない。

     

    あなたはマーク・ザッカーバーグにはなりえないのだから、磨く必要もないよね。と。大人にもなるまえから言われたら子どもたちはどうしたらよいか?
    希少性は偏在し、遍在するのは約束された失敗ばかりとなっては人類はたちゆくまい。

     

    ##偽証価値

    桃栗三年柿八年。
    柿が実をむすぶのに8年の歳月が掛かるとする。
    樹齢8年以上の柿の樹木の所有権はいかほどか。
    まだ実をつけない柿の樹木の所有権はいかほどか。

     
    プレデトリー(predatory:肉食的)に7年目まで育てた柿の木を搾取することは可能だ。
    搾取というのは、意図して評価を歪めるということだ。
    この木は実もつけないやつだからと二束三文だねと評価して取引する。
    また、実もつけない木を柿の木だと偽って取引することも可能だ。

     

    反復継続しない限りこの悪意や無邪気な無能をはじくのはむずっこい。

     

    知能集約型の労働ではこの偽証が問題になる。
    研究開発が実を結ぶまでは基礎研究から30年の月日がかかると言われている。
    経済価値は四半期ごとに評価されるのが標準になっているところで、どこもそんな長いタームでリスクを背負うことができなくなってきた。結果、市場には搾取と不正が入り交じる。悪貨は良貨を駆逐するとはよく言ったものだ。

     

     

    コンピューターシステム開発の現場。
    システム開発は数学の問題と似ていて、解までたどりつたシステムだけが稼働する。
    システムを作れるエンジニアには希少価値がある。だいたい業務エンジニアを名乗るものの20人に1人程度の確率でしか存在しない。あとはおまけだ。

     

    稼働しなかったシステムはゴミだ。
    妊婦を10人集めても1ヵ月で子供は生まれないというのに、たまたまうまくいったケースを再現しようと、「そうか!腹がふくらんだ人ならば、子供が生まれるのか!!」と、わずかばかりの可能性を信じて腹の出た人ばかり100人集めているような現状。それ全部メタボなおっさんだかんね! そして市場は、とても酸っぱいレモン市場になる。

     
    成果を結ばない労働に価値をつけるのは困難を極める。
    成功者が出るまで、実を結ぶまで、失敗の経済価値は評価できない。
    しかし、喰わずには働けぬので予見して価値を付けねばならない。
    であるからして、成果をだせるという申告には欺瞞が混じり、成功には希少がつきまとう。
    どちらからも、評価はまだまだ難しい。

     

     

    ##需給ギャップと通貨

    労働はよく通貨と交換されるが、通貨は必ずしも労働と交換される対価ではない。
    これは通貨が蓄積できるという性質を持つからだ。

     

    紀伊國屋文左衛門が財をなしたのは需給ギャップである。トキとバショは人間には動かすことができない。故に、モノやカネは偏在する。その偏在を掴めれば市場価値が生まれ、必要とされるときに必要な場所に少ないという希少価値を掴むことができる。

     
    これは働きとは別のものではあるが、よく働きと混同され同じ通貨という尺で交換される。お金を稼ぐのが目的であれば、わざわざ労働と金を交換するよりも、金で金を稼いだほうが効率がよいのは道理である。よって現代では信用取引などの市場が十分に平滑化していない相場を利用して猛威を振るうのである。一国を吹き飛ばすほどの自由になる金をもっているという希少性をもってして相場を動かし、価値のモノサシであるカネが変動するのである。

     
    よくして労働の価値は通貨と交換されるが、通貨の価値は希少性と交換されている。
    これが分かり難いため金さえあれば働かなくてもよきかなと小人の閑居を誘うが、あまり善き結果はうまない。

     
    八百屋も魚菜屋も旬のもは多く出回るから安くなる。旬なんで脂も栄養ものっているから食うとうめぇ。安くなっているのに質がいい。ここには通貨で計られる価値との相反が見られる。

     

    ##希少性

    草むしりから始まって、希少性まで辿り着いた。
    現代の働きから希少性をアンレバード(テコの原理を外す)して、偽証とかをとっぱらったときに草むしりでいうところの、働きがどれほど残るかはなぞなところである。

     

    心配なのは、いままで地域ごとでセグメンテーションされるこたから確保されていたご当地の希少性が取り払われる事態で、その時に素の労働として換算されたら結構、地域経済というものは拙いんじゃないかという未来である。

     

     

    かの太公望は釣り針をつけずに釣りをしたそうな。
    これは完全に虚無なる働きである。

     
    数学的に逆の裏は真なりというジョークがあるそうだ。


    魚もいない川で釣りをするのは無為な所業である。

    しかるに、魚の居ない川で釣り針もつけずに釣りをするのは逆の裏で対偶となって、紙一重でどう考えてもあちら側ではあるが、それはそれで真なる振る舞いなのかもしれない。

    実際にそれを批判できるのは、太公望の働きを失敗と評し、誰も成功に辿りつけなかった場合のみだ。白いカラスは見つかるまでは否定できないのだ。悪魔は居ないことは証明できない。
    故に、成果がないと断ずることはできるが、成功がでるまで失敗にどのような価値があったかとは評価できない。
    太公望の行いには成果が予見されないだけで働いてはいるのだ。
    然るに、お客さんが居ない商店街で扉をしめて商売をするのはいかがであるか。などと自己正当化もついでに試みる。

    あほじゃねーのと、賛同を得られるとも思わないが、予見可能に従い行動するのは、聡い振る舞いではあるが、つまらぬことだなどと、奇少な意見を述べて貴笑でも誘えれば未来も万事吉祥なり。

     

    うんじゃーね。なんか古文風になったのはなんの影響だろう。