カテゴリー: 文化歴史

  • 現代祭事の合理性(その1)

    祭事、いわゆるお祭りは宗教的で不合理なものの名残や、娯楽が少なかった時代の楽しみとして現存しているだけのものと思っていた。十二分に大人になって商店街などに(強制的に)参加させられることにより、お祭りを回す側に立つようになりお祭りの有用性、合理性と先人達の知恵にいくつも気が付かされる。

     
    「無用の用」という言葉がある。

    一見用がないように見える遊んでいる道具や人物、空間的余白でも、それは平時には機能しないだけで、必要なものであるという意味だ。
    しきたりや伝統様式は、無用にも見える。形骸化して、もしかしたら既に無用の用になってしまっているのかもしれないが、なぜそのような様式が生まれたのかをリバースエンジニアリングして考えると大きな発見がいくつもある。
    まっ、ま~~ったくの勘違いかもしれないんだけどね!

    祭りの様式を考えたご先祖様方すげぇと思うのである。
    もしかしたら、それはただの勘違いかもしれないが、裏目論見としてそれらを盛り込むことは現在の祭りでも可能なのでこっそり盛り込めばいいんじゃないかなと思う。

     

    防災訓練としてのお祭り

    うちの町内、三鷹の下連雀は歴史的に神田あたりの流れを汲んでる関係か(江戸時代明暦の大火、いわゆる振袖火事の時代の神田連雀町強制移転と、戦中戦後の疎開)お神輿とかがギネスに乗る程に派手で、とにかく重たい。なんでも毎年担ぐ神輿としては一番重たいんじゃないかとかなんだとか。引っ張る太鼓のでかさも日本有数だとかなんだとか。ちょっとまいっちゃうよね。


    大きな太鼓や山車を大縄につけて大勢の人数で引っ張る。
    巨大な神輿を百人とかが集まって担ぎ上げる。
    で?なにこれ?ほんとうに神事なの?
    神事だとして、なんでこんな重たいものを大人数であげたり、引っ張ったりするお祭りをそもそも始めたのだろうか?

     
    理由を推測すると、噴火や火災、大地震による建物の倒壊があったからではないだろうか?
    旧来の日本家屋は持ち上げれば移動できる作りになっている。
    そのため、家を持ち上げれば、曳家などで家をそのまま移動させることが可能であった。
    建物などが倒壊してだれかが閉じ込められても、棟、梁に担ぎ棒をつっこんで大人数で持ち上げれば救助が可能である。

     

    江戸の災害は地震や火災が中心であった。
    大規模火事で消化が必要なときも、建物を倒壊させるのが効果的で、建物を効果的に倒壊させるには柱に紐でもくくりつけて大人数で引き倒せばよい。
    これら大人数での連携が必要な作業を災害時のみ連携するのは困難であるために、訓練が必要になるが、訓練といって人が集まるだろうか?防災訓練だからと口酸っぱくいい含めてバケツリレーをさせるよりも、ゲーミング織り交ぜてこれは祭りだっていってバケツを渡したほうが人が集まるし、訓練も習熟していく。

     

    防災備蓄としての神輿蔵

    祭りを行うにあったって各地域に神酒所を設営するのだが、そのために運動会でつかうようなテントを用意している。
    最近は2人ぐらいで張れる便利なテントもあるが、テントを張るのにも複数人の大人の連携が必要だ。
    テントを張れるような場所が地域にあることも重要だし、そもそもテントの備蓄がなければ災害時に地域拠点のようなものを立てることもできない。

     

    お祭りでは、神輿の巡行にあわせて麦茶だのちょっとつまめるもの(おでん)の接待がおこなわれる。
    数十分の間に600人ぐらいの担ぎ手がぐわーーーーっと押し寄せ、カオス状態になる。
    それをわずかな人数で捌くのだ。(本当は神酒所運営に人が必要なのだが居ないのだ…)
    これなんかまんま炊き出しだよね。

    必要なリソースと、供給能、また地域で現場をしきれる人の把握が毎年テストされるわけだ。
    壊れたものや、必要な地域財は毎年管理、供給されていく。

    神輿を担ぐのにちゃんと人が集まったり、神酒所がちゃんと運営されるような地域は共助が機能している地域である。

     

     

    まとめ

    防災では自助、共助、公助という言葉がある。

    地域の防災会議で「ともに助け合う共助が現代では弱い」と嘆いている爺様が居た。

    お神輿を巡行をみてても、担ぎ手が集まらず落ちそうになる地域もある。
    神輿ひとつ担げない地域に、共助などは期待できない。
    若い人が居ないとか、地域のハブになる人物がいないとかいろいろあるだろうが、期待できないことが見える化されるだけでも良いことだと思う。

     

    現代は建築物の性質も変わってきているし、火災や地震による罹災よりも懸念されるテロや疫病のパンデミックなどがある。それに併せて祭りの形は変わるべきなのかもしれないが、それにしても地域防災対応をゲーミフィケーションとしてまとめ上げた各地のご先祖連中すげぇなと。だって各地で祭りはそれぞれの地域にカスタマイズされてるでしょ?きっとそのしきたりにも意味があるはずなんだよね。そもそもなんでそういう風に始まって、なんで続いているのかを考えればきっと裏の目論見があるはずなんだよね。
    さてさて、今年もお祭りの会計に苦心惨憺していて、やりくりがしんどい。若い人が入ってこないし、地域で管理しているローカルインフラもわずかな地域有志によりのみ維持管理しているのも限界に近づいている。この地域なんて人だけは沢山いるのにね、運営主体が数十人のオールドエコノミーだと限界だよね。でも、この安全バッファ詰めると、焦げ付いてしまうと思うんだ。考えないとね。

  • 3万年前の人類はどうやって海を超えたのか

    3万年前というと縄文時代(前14000年頃 – 前数世紀)より前なので、旧石器時代にあたる。

    旧石器時代はたいした石器もなかった。そのため海をわたるにしても木材を加工することはできない。木材を加工できないのであれば舟には草舟をつかったのではないかと仮説がたてられた。
    そんで、草舟で海を渡れるかという実験考古学というものが実行され・・・見事失敗したそうだ。

     

    草舟の航海 自力での到着ならず 人類渡航の謎深まる 7月18日 18時21分
    http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160718/k10010600141000.html

     

    すげぇ楽しそう。羨ましすぎて、ちょっと妬ましい。
    嫉妬に焦がれて、ちょっとそんなわけないじゃんとか、言いっ放してみたい。

     

    動機からの否定

    古代人が海の向こうの見果てぬ島にわたりたいという動機をいだくだろうか?
    まず抱くのは、数百メートルのちょっと沖にいけば大きな魚が取れるという程度の動機ではなかろうか。

     

    手段からの否定

    舟、船の完成形を知らない古代人が、沖に出る手段として草舟を編むだろうか?

    加工できるのが草しかないのだからしかたないという理由で葦などの素材を選ぶ?
    舟(海の上に浮かぶ状態)の形に至るまでに、試行錯誤が必要だ。
    完成形がわからない状態ではリーンスタートアップ、スモールケースが実行される。テストファーストだ!アジャイル開発だ。

    一人が数百メートルぐらい沖にでるための手軽な手段として、草の束をつかうアイディアははたして、最初のテストに耐えられるだろうか?

    葦がなどが生えてる群生地に行って、葦を束ねて、それを使って沖に出る。使い終わったあとは充分に海水を吸った葦を浜辺に引き上げる。せっかくつくった造形物は、数日、もって数週間でダメになる。そんな悠長なことをしていたら旧石器時代は生き残れない。というか、そんな草舟を設計して力をあわせて開発する能力があったら、先に日常使いされている石器のほうが発達するよね。

     

    捕まえてきた魚を裁くよりも前の発達段階なんだ。魚を捕まえなきゃいけない。

    まず、使うのは周辺にあるものだ。

    浜辺に打ち上げられた流木や海辺側の倒木を使うだろう。浮き輪代わりに小脇に抱えて、数百メートルぐらい沖にでて漁をすることだろう。

    そのうち数人で漁をするようになれば、もっと大きな流木を使うかもしれないね。なんせ鉄器も石器も人類が手にしていない原始の地球。浜辺なんてきっと流木だらけだよね。

     

    流木だらけなのに、「そうだ、草で舟をつくろう!!」とはならないでしょ……。

    流木1択なのにむしろなんで草だなんておもったんだい?草舟、、出土してるの???

     

    現存物からの否定

    ポリネシアやミクロネシアにはアウトリガーカヌーというものがある。

    シーカヤックと呼ばれる外洋にでていける高性能なもので、左右に浮きをつけて、舟の安定をとる。
    西はアフリカ沿岸のマダガスカル、東は南米沿岸のラパ・ヌイ(イースター島)まで広まった痕跡がある。
    詳しくはスター・ナヴィゲーションとか巨石文明とかそこらへん調べて。

    http://www.izuoutrigger.com/about/index.html

     

    アウトリガーカヌー
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%8C%E3%83%BC

     

    で、これが伝統的なアウトリガー・カヌー。Pōpao

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e1/P%C5%8Dpao.jpg/800px-P%C5%8Dpao.jpg
    ・・・。

    木材加工の技術必要か?

    流木で充分だよね。

    草を縄で造形する技術などいらず、木の皮とか蔦で結くだけだ。
    そのうえ浮力も草を束ねたものより強いし、抵抗もすくないので早く漕げる。

     

    丸木彫りをする必要すらなくて、丸太にまたがればいいだけ。
    木を削らなくても、火が扱えれば、焼き落としたり、炭にして形を整えたりすることができる。
    また、それだけでなく炭化することで腐食に大幅につよくなる。
    木を彫る石器なんかいらない。それこそ貝殻で充分だ。

     

    科学的知見からの否定

    縄文時代は寿命が14~16歳ぐらいなので、まあよく死んでいたようだ。
    3万年も前にもなればもっと短いサイクルで死んでいただろう。
    15年1世代としても遺伝的には、2,000世代程なので現世人類と遺伝的変異は数%程度だろう。
    つまり、日本人と他人種ほどの隔たりはそこにはない。

     

    旧石器時代の人間を猿かなにか程度の知恵しかないと思っているかもしれないが、教育が施されていないだけで、個体性能としては現世人類と大した差はない。というより、そこで渡ってきたのが我々の祖先なわけだから、分岐前と分岐後、つまり人種以上の遺伝差がないことは簡単に推測できる。

     

    つまり、旧石器時代といっても、現在の日本人を教育を施さないまま島流しにした中二病ランドのようなものだ。

     

     

    で、最近は遺伝子検査がすすみ、Y遺伝子(つまり父系の遺伝子がどこをルーツとするか)を追ったハプログループというものが整備されてきたのだが、南琉球人は、Oタイプが多いことが見て取れる。

    ここからわかることは、中国大陸で分岐して渡来してきたのではなく、

    https://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup#/media/File:Map-of-human-migrations.jpg

    http://livedoor.blogimg.jp/livereak-gekiyaku/imgs/1/b/1bfd5242.jpg
    http://www.gekiyaku.com/archives/30621292.html

     

    それより前のインド東北部あたりで分岐し、東南アジアから島嶼部に分岐した人たちの子孫が多くいることがわかる。
    つまり、遠いご親戚は草舟じゃなくて、いまだにPōpaoつかってるぞと。

     

    だから、正しいアプローチとしては流木でアウトリガー・カヌーは作れるだろうか?という実験なんじゃないかな。

     

     
    一方、江戸時代の佐渡ヶ島の娘っ子は惚れた男に会いに行くためにタライ(桶)を船にして40キロの日本海を渡った。人間って結構なんでもできちゃうもんだよね。

     

     

    参考

    縄文人の平均寿命、男女ともわずか14.6歳だった
    http://karapaia.livedoor.biz/archives/51581310.html

  • 人権という発明と奴隷制やら身分制やら

    奴隷解放宣言よりわずか前、米国議会では真面目な討論がされていた。

    「奴隷を鞭打つとき、女性であった場合、裸にするのは紳士的ではないのではないか?」

    わずか200年前の出来事である。
    後世からすると滑稽とも言えるような議論を真面目にする時期というものがある。そしてまだその議論をするにまで至っていない国や地域というものも存在する。

     

    アメリカの奴隷制

    初代大統領のジョージ・ワシントン、アメリカ独立宣言(1776年)のトマス・ジェファソンも当然のように奴隷所有階級だ。エイブラハム・リンカーンが1863年に奴隷解放宣言をしたときもリンカーンのまわりに奴隷商はいたし、義父は奴隷売買業者だったのではないかとも言われている。開放宣言というエポックになる程度にその時代まで奴隷制というのはごく当たり前に社会制度として存在した。

     
    奴隷制度があった時代の欧米の資産家の複式簿記でしるされた帳簿には奴隷という勘定科目が乗っているという話しをきいたことがあるが、19世紀に隆盛した複式簿記よりも奴隷のほうがあとだとは、いやはやである。

     
    米国南部の奴隷の多い地域、1750年ヴァージニア州の黒人奴隷が102,000人、総人口231,000人である。奴隷の割合はなんと人口の44.15%にものぼる!1860年まで時代を下って、米国全体平均でも12.57%(3,953,760/31,443,321)が奴隷である。

     

    奴隷推移2015-12-24 19_58_25-スタート

    http://aboutusa.japan.usembassy.gov/pdfs/wwwf-pub-freeatlast1.pdf

    労働力が直接、生産力に直結していた時代。家内制手工業から工場制手工業に変遷する未満の時期は、労働資本=人間の頭数である。この割合で奴隷が必要であったようだ。

     

     

    日本の身分制と人口割合

    日本でも領民は財産だった。もっとも支配層も「よき支配者」であることが求められたわけで、一揆やお取り潰しなどもあったので支配地域ごとに見れば絶対王政といえるようなものでもなかったようだが、統治体系として支配層(家)の財産として勘定された。庄屋には郡役所に収める財産目録には抱えている領民や小作農そのものや、そこからの上がりを”確定申告”することが責務付けられていた。律令制下での荘園制の時代は言うにおよばず、労働力が生産性に直結していた時代のあいだは文字通り領民こそが財産であったのだ。

     

    1831年 墓石制限令 ← 平民の墓石を許可
    1863年 アメリカ奴隷解放宣言
    1869年 四民平等 ← 皇族・華族・士族・卒族・平民・賤民という身分制は残す
    1870年 平民苗字許可
    1871年 卒族、賤民を平民に編入(新平民)、平民と華族・士族間との通婚許可
    1872年 皆学、職業転居の自由を制定
    1875年 平民苗字必称義務令
    1876年 秩禄処分 ← 華士族に対する家禄支給の全廃
    1947年 第1回参議院議員選挙、日本国憲法施行 ← 皇室以外の世襲身分の廃止

     

    四民平等とされた明治維新であるが、実際は身分制度は残って華族や士族という身分制度が廃されたのは1947年の戦後になってからである。
    明治維新で秩禄処分で対象になったのは支配階級である。この明治3年ごろの士族+卒族は人口比率で6.4%程度であったようだ。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F

     

    賤民制が制度としてあった時代の人口割合をすこし調べてみる。
    佐貫藩(千葉県/上総国)1万6千石(領民1万6千人相当)で穢多97人、非人26人とある。人口比で考えると0.76%にしか相当しない。久留里藩(千葉県/上総国)3万石に対し、穢多入口74人、非人人口128人でこちらも人口比0.67%程度。

    c.f. 明治初期における穢多・非人の人口分布に関する一考察(3) 松井 茂樹
    http://ci.nii.ac.jp/els/110004687558.pdf?id=ART0007422310&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1450953551&cp=

    江戸の人口で検討してみる。町方並寺社門前人口と、弾左衛門・車善七・松右衛門の手下(いずれも世襲の江戸の穢多頭、非人頭役職名)と当日寄非人(無宿人など)を合計して計算する。

    c.f. 江戸の人口
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3

    1692年江戸の門前人口353,588に対して、非人頭手下勢4,329人、当日寄非人1,037人、これは人口に対して1.52%に相当する。1835年の2.6%を最大として、割合でみると都市部でも人口比1%代後半から2%前半で推移しているようだ。wikipediaから数字を参照しグラフにまとめた。

     

    穢多非人人口比率2015-12-27 20_23_39-フォト

    ※左側縦軸:門前人口、右側縦軸:手下、当日寄人口

     

    グラフの1750年とか、1777年とかの当日寄非人の数字が極端に減っているのを見ると、当時の役人が鉛筆をナメた数字のような気もするが、wikipediaからのデータをつかったに過ぎず、引用文献から精査したわけではないので、郊外都市、千葉県のようなところで1%未満、江戸で2%前後というぐらいの割合なのであろうという規模感がつかめれば充分である。

     

    保護必要層とアウトサイダー

    ***手下勢と言うと、現在では指定暴力団を連想する。
    https://www.npa.go.jp/sosikihanzai/bouryokudan/boutai18/h26_jousei.pdf

    日本で公的に現認されているアウトサイダーは指定暴力団であるが暴力団構成員数は、警察庁の統計によれば平成26年で構成員(22,300)と準構成員(31,200)を合計して53,500人である。平成3年には91,000人であったが減少の一途をたどり現在最小値を記録している。人口比では0.045%しかいない。江戸時代の手下勢と比較すると最低でも20倍以上の差がある。

     
    当日寄無宿人は今でいうところのホームレスを連想する。
    ホームレスは厚生労働省平成24年度調査では全国に9,576人しかいないことになっている。そんな少ないわけもないだろうと思うのだが、この数字を信じれば人口比に直すと0.0079%程度しかいないことになっている。

    http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000027ptf.html
    なんか、どっちの数字もお役人の数字の取り方への誠実さが江戸時代以下な気がするのだが・・・、どうかな?

     

    米国ではソーシャルセキュリティーナンバーを持つためには住所が必要で、住宅を借りるには銀行口座が必要で、銀行口座を開設するにはソーシャルセキュリティーナンバーが必要で、このサイクルから弾かれるとアウトサイダーになってしまうという流れがある。江戸時代で言うならば寺請してもらえないと長屋でご隠居から部屋も借りられず、部屋もなければ身請けも口寄せもしてもらえないので生業ができず、社会的にはアウトサイダーになってしまうのと似ている。
    歴史からみると社会構成的には人口の2パーセンタイルぐらいは社会保護が必要になるはずなので、かなりの数を取りこぼしているのではないだろうか?マイナンバーの発番とかで住所が確認できない層を認識できるようになれば漂流民の社会統計もとれるようになるかな?

     
    見落としているのかなと、生活保護世帯数について調べたら、平成26年の速報値では2,163,716人となっていた。人口比に直すと1.8%であった。
    http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10901000-Kenkoukyoku-Soumuka/0000062671.pdf

     

    労働層と奴隷と見習い身分

    さて、保護層とアウトサイダーをあわせても人口比2%程度なので、米国などで奴隷制が必要としていた12-44%とは大きく異ることがわかる。現代のイタリアの例だが、都市労働者階級(37%)+農村労働者階級(9%)で労働層の合計がちょうど46%となっている。

     

    ブルジョアジー(労働人口の10%)[4] – 上流階級の起業家・管理職・政治家・自営業など
    ホワイトカラー中流階級(17%) [4] – 肉体労働ではない中流階級労働者など
    都市プチブルジョア(14%) [4] – 商店主・スモールビジネス起業家・自営業など
    農村プチブルジョア(10%) [4] – 田舎で農林業に従事する、小規模起業家・不動産オーナー
    都市労働者階級(37%) [4] – 都市で肉体労働に従事する人々
    農村労働者階級(9%) [4] – 農業・林業・漁業などの第一次産業に従事する人々
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%9A%8E%E7%B4%9A

     

    現代のわれわれの「奴隷」という言葉への価値観からすると、鉄球を足につけ鞭で打たれながら強制的に労動を強いられているイメージはあるが、酷い経営者なんていうのはいつの世にもいるわけで、奴隷を殺してしまうまで鞭打つか、従業員を鬱になるまで追い込むかぐらいの差でしかないのかもしれない。

     
    労働層、これらは江戸時代で考えるとどの層であったのだろうか?
    小作人、住み込みで働く職人見習いや丁稚という身分の人たちには決められた給金というものがなかった。いや、そもそも明治維新前までは人の流動がすくなかったために、お金の掛取り(集金)は盆と暮れの年2回程度で、他はツケの信用でまわる社会であったので給金が払われないことは労働衛生環境的にはなんの問題もなかったのやもしれない。

     
    現代まで残っている職業でみると、お相撲さん、力士の給与は幕下にはつかなくて、幕内も引退するまで部屋預かりにして独立するときに初めて現金でもらうみたいな運用がされていると聞く。これが昔しながらなのやりかたなのだろう。衣食住が確保されていれば、毎月の決められた金額を与えられるより、小遣いでこと足りる。

     

    この手順を踏まずに飛び出したりすると、身請け人もおらず、寺請証文を書いてもらえないので転居も新しい生業もすることができない。核家族化の前の長屋の時代、まさに「大家といえば親も同然、店子(たなこ)といえば子も同然」の時代であった。親方は親で、弟子は子なのだ。

     
    借金のかたに吉原に身請けされるなどとあるが、結局そこで読み書きや礼儀などの教育を受けて、嫁ぎ先をみつけて最終的にはいずこかに身請けされる。当時の世俗を調べてみると、人身売買のような悲壮感は感じない。ただし飢饉の時はかなりの悲惨さがある。
    古代アテネの時代から、楽しい奴隷ライフをおくれせてくれない雇い主は結局殺されるかなにかするので、どんな生業でも、持続可能性がない人の道にそれたことを長くは続けることは難しい。

     

     

    身分がある家の身分の無い人

    現代の人権感覚から考えると、奴隷制より恐ろしいなと思うのは身分や財産がある家の身分がない人への扱いである。財産を散逸させないために、家督を継がない次男以下には婚姻や外働き、分家を許さず部屋住みの下男のような扱いをしていたという記録がある。独立を許さない分下男より辛い。

     
    耕作面積が少く田分けが難しかった山間部の地域では財産を散逸させないために、農家ですら厳格な家長制度を運用する必要があった。比較的近世まで続いた長野の風習「おじろく」「おばさ」で、記録を追うことができる。

     
    名家や武家の次男は家督を継がせないために、仏門に出家させ女人禁制の山に幽閉し、結婚させないことが常道とされた。ここらへんは有名所だと真言宗の総本山高野山などのご由緒で伺うことができる。院や房は、学を収めるための場として機能し、長男に何かあったときのために待機場であるだけでなく、図書館や叡智の集積地修練場となり、多くの人材も排出装置として機能した。

     
    長子相続制は、世襲にまつわる係争を回避するための経験則からの発明なので、日本だけでなく英国などの爵位などの身分制を置く地域に広く見られるが、今回はちと本筋からそれるので言及するに留める。

    現代の身分制

    現代の身分制は職業が代替しているということに異存がある人はいるだろうか?ニュースでも犯罪者は無職**、自営業**、公務員**だし、ニュースソースとして重要なのは職業と年齢だ。

     

    家内制手工業から工場制手工業にかわり、そして工場制機械工業にかわり、これら過去の身分制度はあまり用をなさない意味のないものになった。江戸時代から人口が4倍になっても、お米の生産量は1.4倍程度にしか増えていない。貿易という手段で、資源を手にいれることができるようになり、機械のほうが労働力より安くなったからだ。
    この200年で人口が4倍に増え、平民にも苗字が必要になったし、墓も必要になった。
    この100年で農作地よりも職住近接が重要になり、土地のほうが資産価値をもつようになった。
    この50年で身請けしてくれる家の身分よりも、身請けしてくれる企業での役職が重要になった。
    この30年。工場制機械工業は成熟し、労動組合などが組織され労働者の権利が確立し、正社員だの非正規だのと新たな身分制度がうまれてきている。
    だが、しかし、この10年。
    人頭の時代も土地や設備などの資源の時代も終わり、金融と情報の時代になった。
    科学技術の発展をみると工場制機械工業すらも終焉の様相が伺える。工業化の時代(Industrial Age)は一段落し知財の時代(Transfer of knowledge)になったそうである。情報革命(Information revolution)では、工場は完全無人化され、コンピューターの頭脳ICは既にコンピュータによってつくられている。工場制機械工業から自動制機械工業になったと言っていい。これらが代替するのは労働層だけでなくホワイトカラーだ。人切り(首切り)がまるでリストラクションの唯一の手段かのように、評価される現状は、モジュール化できない労働層には経済性がないと判断されているからだ。

     
    企業同士がM&Aをするときに、当然、無形資産の価値評価(日本がとてつもなく弱い分野)をする必要がある。これには「のれん代」だけでなく、そこに勤めている人材の価値評価(valuation)をする必要がある。人材価値評価は、言葉悪く言えば、まー、奴隷という勘定科目よろしく、企業財産目録に人のリストと値札をつけるような話しなのではあるが、経済的に評価するために必要な仕組みだ。こういう流れは未来においてどうなるであろうか?

     

     

    情報化がすすむこれからの10年、職住近接の意味は変わるであろうし、われわれが人権だとおもっているものの常識も50年後にはまるで違うものになっているに違いない。「うわ、この時代の人たちお金で時間を拘束されてたみたいよ」とかいわれるのかもしれない。

     

     

    … あと書き。

    内容にかなーーりセンシティブなものを含んでいる箇所があるので、かなり回りくどく書いたら、思っていた数倍の長さになってしまった。でも、六曜が差別だとかで揉める地域もあるらしいので正直もう意味わかんないんだけど・・・こんなんでどうだろう?