カテゴリー: 社会

  • すこしだけ未来の2020年(全般)

    いまから7年後、東京でオリンピックが開催されるらしい。地味にどうなっているか想像がつきそうでつかないので考えてみることにした。
    先に今から7年前2006年がどうであったか軽くおさらいしてみよう。
    まだ東日本大震災がおきるまえ、さらにいうと2008年のリーマン・ショックよりも前の時代。なんと日経平均株価は年末には17000円を超えていて小泉純一郎が総理だ。世間はライブドア事件で揺れていた。

     

    iPhoneは2007年の1月発表なのでまだスマートフォンやタブレットの前夜だ。この7年でiPhoneだけで3500万代が出荷され、Twitterやfacebook、日本ではLINEのようなSNSがメディアとして力を持つようになった。逆に株価はアベノミクスでこの9ヶ月で5000円も回復したとはいえ本日現在14,404円なので2007年の水準にも戻ってはいない。

     

    先日あった報道では、リーマンの直前を18%上回る水準らしいが、リーマンのまえにベアスタンの問題があったことを考えるとこの見方は昼行灯すぎる。

    リーマン・ショックから5年 世界の株価2割上昇 中銀資産は2倍に
    http://www.nikkei.com/article/DGXNASGC14006_U3A910C1NN1000/

     

    さて、7年後を考えてみよう。

    *自然災害

    阪神大震災では仮設住宅撤去まで10年かかったというので、まだ東日本大震災の爪あとはのこっていることとおもう。
    過去の地震からマグニチュード9クラスの地震のあとの発生数をみると500キロ圏内でマグニチュード7クラスはあと2~3回はおきるのではないか。

    首都直下も季節や時間帯さえよければ例え湾北が来たとしても、それほど被害がでずに済むだろうが、関東大震災のように火災などに発展してしまうと東京都のシナリオどおり数千人200兆円規模の経済損失が発生して、おそらく日本経済そのものが停止して沈むことになるだろう。

    東海・東南海・南海連動型地震。連動型としてはリスクとしては考えなければいけないかもしれないが、非連動で起きる可能性のほうが高いと思う。いずれは発生するものと思うが、連動しないことと、被害が少なくてすむことは願うよりないところである。稲むらの火よろしく、災害にたいする人々の教育や備えがすすめば知識は津波堤防にまさるものと思う。

     

    *原発災害

    廃炉は30年計画なので当然片付いてはいない。破綻させず事故処理ができるように東電から担当組織がようやく国有化されたところではないかと思う。残念なががら一世代程度ではあまり進むとは思えない。

    *エネルギー問題

    原油の買い付けの契約が10年スパンなので、シェールガスが普及するまえの高い価格で買い付けてしまったものが解消できているかもしれない。
    現在ラボラトリーレベルを脱したもので10年後になんとかなってそうな有望なものはあまりないようにおもう。オーランチオキトリウム(藻)やメタンハイドレートが運用にのるとしたら7年後からさらに10年後だろう。
    すでに枯れている技術として太陽光、風力、地熱、潮力の普及が考えられるが、万能薬にはなりえない。サーマルリサイクルやら揚水やら住宅用蓄電やらの地道な改善路線に投資するのが堅実なのではないかと思う。

     

    *地政的リスク

    戦争などの事故がおきるためには10年程度の発揚が必要であるが、日本はその準備をおこなっているようには見えないので日本からということは7年後にはないとおもう。中国や朝鮮半島の情勢によるものに巻き込まれる可能性は排除できないけれども、ぶっちゃけ海があるので助かるんじゃないかなと思う。つまり、あまり気にしてない。どこぞの国の崩壊とかあっても影響は限定的だとおもう。

    *高齢化

    とうとう65歳位上が4人に1人になってしまった。既存の延長線上の対処療法的な社会制度改革でなんとかなる範囲の比率ではないよね。どーすんだろう。

    *インフラ

    世間の関心もたかく、これから都市整備などの情報や計画がまとまってあがってくるとおもうのでどこかのタイミングでまとめます。

    *経済と雇用

    アメリカさんをはじめとする通貨流通量が増えすぎているのでここがどうなるかは注視が必要。通貨と経済、金融と労働、労働と価値創造、雇用と生活はいまの関係よりもっと離れたものになりそう。長くなりそうなので、こんどまた書く。

    *テクノロジー

    個人的にはここをメインに書きたい。現在基礎技術として影も形もないものは10年後には商品になっていない。7年だったらかなり想像できる。これも長くなりそうなのでまたこんど!

     

  • 日本は移民政策を真剣に考えなくちゃ

    国粋主義な考えを持つ人達は脊髄反射的に文句を言うが日本に移民政策は必須だとおもう。
    すべからくみな年をとる。問題は年齢構成。この世代バランスが著しく崩れている。

    今、生まれていない子は20年後に20歳になることはない。
    20年後に20歳になる子、20年後に30歳になる子は現時点で最大数がわかっている。人口と年齢構成はもっとも言い当てることが簡単な未来のひとつだ。
    具体的に言うと20年後 20 ~ 44歳の働き盛りの層において、現在と比べて少なくとも8,601,702人の労働人口が減少する。860万人、就労人口の25%がいなくなる。生産人口が減れば経済力も当然衰退する。

     

    ハタチの子が20年務め上げて部長になったころに、部長が4人に新人1人みたいな構成になる。年功序列みたいな組織体制や社会保障の制度が機能するわけないよね?
    で、そこで出てくるのが移民政策だ。
    労働力が足りないから労働力を輸入しろ!と。
    だがしかし、だがしかし、輸入(受け入れ)でしか移民政策を議論しないのはナンセンスだじぇ?
    この年令構成のアンバランスを解消するために、老齢人口を知識層として輸出するのも移民政策なんじゃないかぇ?
    老人を知識層、後進の育成のための親方として移民できるようにする政策必要なんじゃ?

     

     
    「どんな難しい仕事でもバラしてしまえば簡単だ」っちゅうことで、だれにでもできる仕事にしたヘンリー・フォードのベルトコンベアに代表される自動車産業。織物機でラッダイト運動がおきたように自動化による雇用の喪失は人類がすでに通った道。
    日本の産業構成上、自動車産業ではなく情報通信産業が最大従事者数になっているにもかかわらず、いまだに生産性は時間と人数で計算される。そんなものは誰が仕事をしても成果がかわらなかったフォードさん時代の遺構だよ。現実をみろ。デトロイト市はこないだ破産したじゃないか。とても効率よくゴミを創りだしても、それでもなんとかなっていた時代なんてもう終わったんだ。
    数十年かけて磨いた腕前が、数百万の機械に経済的合理性のものと置き換えられる。数千億だしてつくった工場が数年ももたずにお荷物になる時代はもうきてる。いま陳腐化は恐ろしいスピードだ。
    先進国は生産力で競争していた時代から、付加価値創造力で競争をせざるをえない。だとしたら、労働力を輸入しても経済的な合理性は低い。安く使える奴隷が欲しいという不満を満足させるものでしかない。だから年齢構成が上に重たく耐久消費財が多く、インフラ維持費が高い日本が安い労働力としての移民を受け入れるなんてナンセンスだ。

     
    日本で陳腐化した技術や知識でも国によってはまだピカピカだ。まだダットサンだって走ってるし、農業、建築、医療、それから教育だって経験豊富な年配者の知恵や技能が資産になる環境は多い。
    現地の人の仕事を奪うことは許されない。日本人を1人雇うと現地人を2人雇えというような国もある。しかし仕事を作り出せる人達は大勢いるだろう。介護だって仕事になる。日本人は世界中に日本人村をつくればいいじゃないかぇ。
    いま20~40代とかの世代は20年後に輸出材になれるように!
    それより上で介護が必要になると、これもう議論として別次元。老々介護とかしゃれにならない。たぶんこのままいくと価値創造どころじゃなくて相当悲惨なことがおきる。じゃあせめて、ゆめかうつつかよくわからなくなっちゃったら、世界三十周ツアーとか銘打って豪華客船に乗ってもらえばとか言ったら怒られた。
    古代人がニライカナイだのを目指してただ東へ向かうだけの船にのったのはそれなりに理に叶ってる気もしなくもない。ただ、あと10年20年でなんらか解決策には道筋をつけておかないと国どころか文明ごと滅びちゃうぐらいのバランスの悪さがある。
    「いざ新天地へ」とかいって、棄民政策に近い形で南米への移民政策をとった政府もありましたし、半年船にのって着くまでに何人も死んで、ついたら何もなくて、あとはここで生活してください、さよならー! みたいなことだけはしないようにしないとね。

     

    *参考

    リー・クアンユー氏、人口減の日本に「悲観的」 新著で「移民受け入れよ」
    http://sankei.jp.msn.com/world/news/130807/asi13080708400002-n1.htm
    2006-11-04日本は20年後に労働力の25%を失います
    http://beta.g.hatena.ne.jp/kuippa/20061104

     

  • 車椅子と負担と恩恵と

    車椅子にはウイリーした状態で静止できるぐらいのりなれてます。なんでそんな歪んだ方向になってるかというと理由は簡単で普通学級だったんですが小学校1年のころからクラスメイトに車椅子の奴が居たからです。(当時はいまみたいな車椅子ではないですが)

     
    小1の頃から体が不自由なやつがいる光景が日常だと、車椅子の人がどうこうということに特別感とかがまったくないですし、それをフォローすることに動機や理由もとくにいらんのです。大人になると、障害者がやれどうだとか、助けることに勇気や理由が必要になったり、率先垂範すべき社会規範として要求され、それを立場ある人間がおこなわなかったりしたら非難されることがあるため、打算や偽善的におこなわれたりすることがあります。

     
    だけれども、子供はもっと単純で、例えば外に遊びにいきたいときに友達がうごくのを待つぐらいだったら運んじゃえぐらいの感覚です。共助というものは、短期的には大変かもしれないけれど、長期的には全体としてプラスになるから生まれるのだと思います。だって障害者に十分にケアできるような社会だったら普通に生活するぶんにはもっと過ごしやすくなるし、みんなが楽しいほうが楽しいよね?

     

     

    その年代の子が観測できる範囲だとそれが日常だし、他の状態を知らなかったので比較しようもなかったというわけです。しかし、どうも世間の人たちは違うようだぞと感じたのは小学校三年のころ教育委員会だかから表彰されてからです。大人達から「偉いね」ということで呼び出され、もうひとりのクラスメイトと2人で表彰されたのですが、なんで褒められるのかもわかっていませんでした。しかも、その表彰式のときちょうど自分が足の骨を折っていて松葉杖で参加したので、お前がサポート受ける側だろ的な状態で参加したのもあるのかもしれませんが、褒められることにたいして何か複雑な感情をいだいたものです。

     

     
    で、乙武氏の銀座のイタリアン入店拒否の件。
    事の根幹は、銀座の寿司屋に女性同伴で入ったら「香水きつい」と追い返されてメンツ潰されたと怒ってる社長さんと同じぐらいにしか見えてなくて、俺も銀座に同伴でイタリアンとか洒落こみてぇゎーと思うぐらいどうでもよかったんですが、なんか変な方向に議論が高まってきているので、個別の問題はおいておいて、ちろりと書いておこうかなと思ったわけです。一応、飲食店もやってるし。

     
    まず、人、一人を2Fに運ぶということですが、これ、かなりしんどいですよ。
    おんぶとかでくだんの車椅子の友人を運べるようになったのは小学校3年ぐらいになってからです。最初は避難訓練のような緊急事態を想定して先生がいないときにクラスメイトだけでどこまで非難できるかということで行われました。通常は両肩を2人で支えてというようような形式でやっていました。
    自分と同じぐらいの体格の人を運べる”スキル”があるひとは、クラスに数名ぐらいしかいません。この比率は中学ぐらいになってもあまり変わりませんでした。それなりの体格と慣れが必要になります。段差移動をふくめ安心してまかせられる人となるとなにかしらのスポーツで学校選抜で大会にでれる程度の身体能力が必要になります。
    特に階段のくだりとかは普通に階段を降りるような降り方をしてしまうと、膝が二人分の体重移動に耐えらず、諸共落ちることになります。これは掛け値なしに危ないです。下にまわってフォローする人は体制くずして落ちてきた2人分の荷重に耐えられないといけないので、さらに力があって慣れた人がフォローにまわります。逆に慣れてりゃ1人でも運べます。よっと担いで上の階の椅子まで運んで、往復で車椅子もってあがるぐらいなもんです。車椅子はたためるので、軽量型なら女性でももってあがれます。
    乙武君の体重は軽いらしいですが、それでも30キロは超えるんでしょう?
    お米30キロ入りの袋を一発で2階まで運べる人が世間にどれだけいるのかわかりませんが、力自慢の健常者でも、かなり大変なはずです。樽ビールより重たいからね。そこの旦那さん! お姫様だっこで奥様を二階に運べますか?隣の部屋がせいぜいなんじゃない?しかも、せめても首に腕をまわしてもらわないと、腰やっちゃいますよね。よほどの体格差がないと大人でも厳しいんじゃないかと思います。

     

    で、もいっこ問題は車椅子。
    普通の車椅子にのってたのか電動にのっていたのかわからないけど、電動車椅子とかだったらまず持ち上がらないです。タイプにもよるけど80キロとかあるのをあげられるんだたら冷蔵庫でも運べるわ。増田ダイヤリーで乙武君を運んだという人が4人がかり+1人で車椅子ごと運んで腕ぷるぷるしたとかいう女子の記事があったけど、年代的に考えて、それ普通の車椅子じゃないかな?電動だったら4人がかりでも無理。
    10〜20年ぐらいまえは都内でもどの駅にもホームごとのエレベーターはもちろん、エスカレータも車椅子用の昇降機すらなくて、移動しようとしたら、駅員さんが4人ぐらいがぞろぞろでてくる時代がありました。完全自動改札になる前の時代で駅員さんがいっぱいいた時代ですね。
    神輿みたいに4点もってあげるやりかたは、階段の幅をかなりとります。一人あたりの荷重はすくなくて済むんだけど、不慣れな人に手伝ってもらうと車椅子の握っていいところがわからなくて、タイヤとかを握ったりするひとがでてきて、タイヤのロックが耐え切れなく外れタイヤがくるっと回ってスポークに手を挟まれてうぎゃーってなって手をはなして、みんながバランス崩してひっくり返ってなんてことは・・・まあ、ありがち大惨事です。なので運ぶのに比較的慣れている駅員さんでも4〜5名体制でやってくるぐらいの案件です。結構、手に車椅子の油(チャリの潤滑油)もつくし、料理の最中の料理人はやんないほうがいいんじゃないかな。

     

    乙武くんの場合、かなり体格差があるから、こういう普通の車椅子のひとが遭遇する「やってみたら出来なかった」とか「事故になった」ことがないのかもしれません。そりゃね、3〜40キロぐらいなら何かおきてもちょっとふんばれば耐えられたりしますからね。でも車椅子の人みんなそんなに軽いわけでもないし、上半身は健常者なみだとか、他の移動方法として彼のような選択肢がとれるわけでもないのでございますよ。
    なので、乙武くん水準でお店側に要求されるサービスが決定したり社会設備の議論が進んでしまうと結構おっかねぇなと思たのです。お店の人はお連れさん以上に事情わかってないんだから、連れが対応しきれない時点で無理ってもんです。

     

    某予備校に遊びにいったことがあるのですが、その予備校でその車椅子のやつらに乙武くんを紹介されたことがあるらしいです(覚えてない…)。なので多分自分と彼とは同じ世代だと思うのだけど、当時は、都内どこにいっても車椅子の人が簡単に移動できるような施設にはなっていなくて、電車での移動もそうだけど、連絡しておかないと駅間の連絡がどうこうだとかで、言ってもらわないと困るとか、見つかるといろいろ小言を言われた時代があったはずです。対応できないからと断られたりたらい回しされるなんてことはありましたよね?予備校選びだって学校選びだって受け入れてくれるところから探したはずです。本人は何もやらなかったのかな?

     

    そういう時代から考えるとかなりバリアフリー化してきたと思います。大規模商業施設などの法律の整備もすすんで障害者用のトイレや車椅子用の駐車場まで充実してきました。一方でバリアフリーを目指すために別のコストが生じていることも事実です。

     

    いくつか例を考えてみましょう。

    入り口の段差
    これは、うちのお店も入口に段差があるのですが、じつは、段差といっても無意味にあるわけじゃなくて、この段差がないと大雨が降った時などに浸水してしまうのです。関東というのは坂道が多い街です。古いいえなどは玄関にあがるのに1段、2段の盛土をしていることがあります。実際にその高さまで水が上がることがあります。床上浸水なのか床下浸水なのかがわかれているのがもし完全バリアフリーなら、常に浸水してしまうことになります。アスファルトで路面が覆われているので水も急にあがりますし、ゲリラ豪雨も増えています。このような背景をもつ土地柄に完全バリアフリーにするためのコストをカルフォルニアと比較してもだめでしょう。スロープに気が付かずに足腰弱った年寄りがのると後ろにひっくりかえるんだぜ?

     
    ドア
    ドアのほうがバリアフリーにしやすいですが、地震などでドアの開放部へ崩れや家具が移動してきたなどというだけで閉じ込められてしまうため、日本では古来は観音開は建築方法としては忌避されていました。こういうものは無意味にバリアになっているわけではなくて、その土地の知恵が詰まっているわけです。

     
    車いす使用者用駐車場
    駐車台数何台かに一台の割合で設置が義務付けられています。1mぐらい余分に幅があるのかな? この幅がないと車椅子を下ろせないので、重要な設備ではあります。でも、これをつくることで常時駐車できる台数が減ってしまったりするわけです。せっかく設備としては用意してあっても車椅子とか関係ない人が駐車していたり、そういう人が駐車できないように常時コーンがおいてあったりします。車椅子で車を運転する人も多いのですが、コーンがあったら同乗者いないと駐車できないから本末転倒なんだけどね・・・。

     

    盲人用点字タイル
    あの凸凹で歩道にびしーっと並んでいる黄色いタイルですね。うちの商店街の歩道にも並んでいます。必要なのはわかるんですけど、もともと狭い歩道であのタイル並べると歩きにくくてしょうがないですよね。雪かきも大変なんだ。車椅子や老人用の押し車、ベビーカーを押そうとすると、片輪がタイルの上にのっちゃうぐらいの幅しかないわけです。のらないようにするにはタイルをまたぐようにしないとならない。そうすると、こんどは軌道変更ができなくなったり、歩く人達がすれ違えなくなるわけです。そういうのがめんどくさくなって点字タイルがない裏道を通るようになったりするわけですねw 盲人のひとが通るというレアケースに車椅子が通るレアケースをぶつけてもしょうがないんですが、だれかのバリアを解消しようとして、よかれと思ってやったことが今度は違う誰かのバリアになることもあるわけです。

     
    負担と恩恵とを秤にかけて、ちょうどいいところでバランスとるしかないですよね。だいぶいろいろなバリアが解消されてきたと思いますが、なんというかまだまだ過渡期だなーと思うわけです。こうしたほうがいいよねという負担と、恩恵がまだまだバランスされていない。
    今回もお店のエレベータが利用できないことでおきたトラブルでしたが、事前に連絡があればマンションの管理組合とかと交渉して借りることもできてトラブルにもならなかったのではないかとすら思います。かといって、いつもエレベーターを利用できるようにしておくと、こんどは不貞の輩が窃盗や押し売りなどをするといったバリアも取り払ってしまうことになる。
    お互いに譲歩できないから、衝突が生まれるわけですが、今回のケースは外野がどうこいうまでもない、どーーーでもいいケースで双方譲歩の余地は山ほどある。だけれども、コミュニケーションの行き違いから生まれた今回レベルの事案にたいして、このケースだけを解決するために対策を訴える人たちがでてきていて、その対策やらをすると、今度は違う人が困るようなことになりかねないので、そんなわけで、なんとなく書いてみましたよっと。

     
    *参考

    乙武騒動で考える;差別禁止に事情や理由は関係ないと言う主張について
    http://www.anlyznews.com/2013/05/blog-post_21.html

    障害者側からみる乙武氏入店拒否問題
    http://d.hatena.ne.jp/marumieseijin/20130519/1368982704
    障害者側からみる乙武氏入店拒否問題その2
    http://d.hatena.ne.jp/marumieseijin/20130521/1369120014

    >> そして乙武氏一人に「障害者のイメージ」を背負わせるのも、間違ってます。
    あ、そうそう、多分おれはこれがいいたかったんだとおもう。

    追いオリーブオイル これが、もこみちスタイル!

    乙武洋匡さんがTRATTORIA GANZOの店主高田晋一さんに追いオリーブを投下
    http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65748153.html

    乙武氏ツイートの銀座の店に行き、店主に取材しました
    http://kasakoblog.exblog.jp/20523301/

    【乙武洋匡公式サイト】「イタリアン入店拒否について」

    OTO’s Mail


    小さな飲食店は障害者の人に対応する余裕なんて無い
    http://anond.hatelabo.jp/20130519044709

    乙武さんを2階まで運んだことのある人間として
    http://anond.hatelabo.jp/20130520221917

    乙武様のご来店お断りについて。
    http://ginzaganzo.com/info/444903:title=ginzaganzo.com/info/444903