カテゴリー: 経済・エコノミー

  • 商店街の中からのうめき

    社会には商店街を救う余裕はもはや無いそうだ。世間の商店街はシャッター化が進み、ゴーストと化している。うちの斜め前のお店は30年まえにしまったままだし隣は40年まえにしまったままだ。

    わたしがいるのは東京都の三鷹市なのでイオンモールとかの大型店出店が理由でゴースト化したわけではなくて実はこれにはこれで理由がある。ここにはここの問題があるのだ。商店街の問題など普通に生活をしているぶんには知ることがないかもしれないが、知っておくべき問題。日本が抱える問題の多くが凝縮されたのが商店街なのである。

     

    今期、商店街の総務部長をやってくれと言われている。拒否する選択肢はどうもなさそうだ。突然の物故者や体調不調などがあり副会長が2名がいなくなってしまった。前任者の副会長は総務部長も兼任していた。引退を決めていた70代の会長が留任され、残った役員であれこれいくつもさらに役を兼任することになった。

    お店を始めたのはおおよそ10年前。数年やったところで商店街の役員になることになった。自分が商店街の役員になった経緯はこうだ。総会とかめんどくさいので委任状だして欠席していたら「役員になったからよろしくね」とにこにこしながら会長がやってきた。委任状の恐ろしさと商店街の人手不足の深刻さはこのエピソードでも十分だろう。

    かつて商店も多く賑があった時期に制定された地区割りがあるのだが6地区などはとうとう1店舗だけになってしまった。体制もくそもありゃしない。

     

    商店街ってなんだ?

    ここには町内会に該当する組織がない。厳密には、町会と商店街が重複する地域もあるのだが、商店があるところには歴史的に商店街が組織され商店街が町内会や消防団などに相当する機能も担ってきた。うちの市には30をも超す商店街がある。商店街というのはそれほどの数がある。名前だけのところから、事業をおこなっているところ、その実体は様々だ。

     

    うちは駅からすこし距離があるので二次商圏になるのだが、だが、過疎地と違って人が多くすむ人口過密地域である。マンションが多く、この狭い地域に数千人、ヘタしたら1万を超す人間が住んでいる。その地域をわずか数十店もないようなお店が支えるのが都市部の商店街の構造である。

    支えるとはどういうことか。商店街というのはその地域ローカルインフラの運用維持をおこなっている。

    具体例をあげる。一番わかりやすいのは街路灯だ。

    夜、他より明るい安全な道を選んで帰ろうするならば、ふと街路灯を見上げてみて欲しい。商店街などの名前がはいっていたらそれは商店街が設置しているものだ。そんな街路灯への毎年の電気代は100万円を超す。助成金分を除いて商店街の負担分がだ。これをわずか数十店舗がわけあって負担する。街路灯が老朽化すれば、交換もしなければいけない。電気代が安くなるのでLED化したい。支柱が古くなっているので立て直したい。でも、数千万かかる・・・・・・。そのために積み立てる。街路灯が暗いだの、切れているなどの文句を住民は市役所に文句を言う。市役所から商店街に連絡がくる。

     

    いま、うちの商店街では防犯カメラの設置が議題にあがっている。駅前7つの商店街では防犯カメラの設置が既に完了した。先だって、井の頭と吉祥寺で若い女性が凶刃に倒れるという残忍な事件が立て続けに2件あった。不幸な事件ではあったが両件とも犯人は早い段階で特定され検挙されている。というのも、犯人が逃走経路として選んだ道には商店街が設置した防犯カメラが設置されていたからである。高精度な防犯カメラは逃走する犯人をしっかり捉えていた。防犯カメラにも補助金は出る。しかし、商店街の負担が0になるわけでもなし、それらを維持負担運用をしなければいけないのは結局は商店街である。商店が減って、人の目が減った以上、カメラの抑止力に期待をせざるを得ない。

     

    商店が会費で負担する形態でなく住民から町内会費を集めている地域のほうが潤沢な資金があったりする、住民会費をとってこなかったのはただのうちの会の不作為であるとおもうのだが、まあこれにはこれで書ききれない個別の経緯があるのでこんかいはもごもごもご・・・・・・

     

     

    商店街の財政と自治体の財政

    商店街というと、補助金かなにかで生きながらえているもの指摘する声もある。確かに会の運営のために助成金も必要ではあるが、自走がないところに助勢のしようもあるまい。自助があったうえでの公助だ。

     

    さらに、ちとモノ申しておかなきゃいけないのは、三鷹市は地方交付税不交付団体だ。東京都も不交付団体だ。地方交付税をもらっていない自主財源で運営されている。不交付団体は昨年度で全国にわずか48市町村しかなく、都道府県単位では東京都しかない。48市町村のほとんどが原発関係だと知ると暗澹たる気持ちになるだろう。つか、暗澹たる気持ちにならなければいけない。

     

    健全な財政比率を保持するよりも、支出を増やして不健全化したほうが使える予算が多くなる。そんな体制を知ってや知らずや是とするところに、商店街なんて助成金でなりたってんでしょと言う指摘はしちゃなるめぇよと思うのである。商店街以前の問題だ。

     

    マンションなどの管理費においても住民税などで税金を自治体に払っているのだから、支払いの必要はないものとする判断をされる人もいるなかで町内会費、ましてや商店街費はさらに個別に物議をうむ。商店ですら加盟してくれず会費を払ってくれないお店も多い中でマンション組合などはさらに扱いが難しい。しかし、ほとんどの自治体が国などからの支援が必要なように、その税金じゃその地域インフラは支えきれていないのだ。
    「商店街に入ってね」と未加盟店に行くと、「何かいいことあるの?」という。いいことどころか、何かあるたんびにお金取られるし、仕事ふられるし散々だよねなどと正直に言うとなかなか入ってもらえない・・・。未加盟で済むなら逃げ切りたいという気持ちもよくわかる。俺も気持ち逃げ切りたい。

     

    その街が他とくらべて住みやすくなるのは、なにかだれかしらの働きによるものである。それはもしかしたら、周りの人が支えているものかもしれないし公債などという形で未来の自分や子どもたちに負担をもちまわしているだけなのかもしれない。
    25年度の国の税収は43兆円だが、国債の利払費は9.9兆円にのぼる。金利を1.2%におさえてこれだ。金利があがれば利払だけで税収を超えるだろう。国という大きなグランドデザインがそうなっているなかで、挟持をもって、支えられる側から負担をする側にまわるのは大変な話しだ。フリーライドしたほうが、合理性が高いと判断されるのもやむない話しだろう。
    しかしフリーライダーばかりになると支えているほうが馬鹿らしくなってコミュニティがスラム化する。
    お祭りで子どもたちに配るお菓子の購入額が増えるいっぽうなのに、集まる協賛金は下がる一方だ。
    このままでは子どもたちが反乱をおこしかねない。
    というかおこしてもいいと思う。

     

    ちょい真面目な分析

    すこし経営学の話しなるが、通常6つのステークホルダーとして分類されるなかに地域コミュニティというものがある。

    http://www.mizuho-fg.co.jp/csr/communication/mizuho/images/index_01.gif
    図:みずほ銀から引用
    http://www.mizuho-fg.co.jp/csr/communication/mizuho/index.html
    かつて、商店と地域住民は互いに密接な利害関係者だった。商店が地域の安心や安全をつくりだして、住民はその付加価値が高くなった地域に住まうことで、よりよい住環境をつくりだす。互いにそれなりの利害連携があった。

     
    規模の経済により、大規模資本のほうが競争優位となる。量販品、規格品のほうが製造コスト、調達で優位を獲得し、資本の優位性が確保できない小規模小売店は絶滅の危機に瀕する。郊外店型の大規模店舗などは典型だ。なにもこれは商店街などのオールドエコノミーだけの話ではなく、すべての産業に影響する。
    そこで、この6つのステークホルダーに分類されてきたものの中で資本調達に関する、株主、投資家や銀行が重要視され、購入者、従業員がそれらを支える付随物としての扱いになった。さらに対極にある地域社会や、仕入先などは連携度が薄くなったどころか競争障害でしかなくなる。近代的な経営戦略上それらは障壁として分類される。
    労働者は組合をつくり脅威になり、購入者も商品を選択することで脅威になる。地域コミュティのようなふんわりしたものが企業活動における脅威になることはほとんどなかった。

     
    農耕的に耕すのではなく狩猟のごとく、育ったところを狙って収穫するプレデトリー(predatory:肉食獣的な)な振る舞いのほうが、短い商売サイクルで資本を多く回転させることを目標とするならば、回転効率が優れている。ロングタームは無視して、ダメになったら他に移ればよい。仕入先も叩くだけ叩いて旨みがなくなったら他と替えればよい。

     

    クラレンス・ソーンダースが商品を棚に陳列したスーパーマーケットを発明し、ジェフ・ベゾスがそれをネットワーク上に移動したAmazonをつくった。この流れが変わることはないだろう。つまり、旧来型の商店はいずれときをまたず絶滅をする。そこから組織される商店街も絶滅するだろう。大きくは、この流れはかわることは無い。
    しかし、肉食獣しかいなくなった生態系は滅びるしかないように。逆説的ではあるが社会が絶滅をしないのであれば旧来の商店街的な機能を担うなんらかのものはリバランスの中で生まれてくるはずである。無用の用なのか、なんと呼ぶべきものなのかはしらないけれど、それがないと社会が回らなくなるからだ。もちろん回らなくなって全停止することもありうる。

     

    そのなんらかの仕組みは商店街と呼ぶものではまったくないかもしれないが、できれば全国デトロイト化するまえになんとかそこまでたどり着きたいものですな。
    ま、でも全国的に恵まれてるであろううちの商店街ですらこのざまぞんなので、なんとかしたいなーとふわっと思っているわけです。ここらへんの問題は、教育やら就労やら科学などのような長期視点の欠落という意味では根幹は一緒であるので、なんかの拍子に一気に進むのかもしれませんね。か、もっとデトロイト化(クランチ)が進んでからの話しなのかもしれません。

     

    あ、なんか都市部の商店がなんでシャッターしめたままなのかとかも書こうとおもったんだけど、長くなっちゃったからもごもごしておこう。もごもご。

     

     

    ほんじゃーね!
    他、参考
    平成25年不交付団体
    http://www.si-gichokai.jp/official/blog/global/docs/hukouhu253.pdf
    25年度 税収43兆、国債の利払費9.9兆 金利を1.2%
    http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/005.htm
    商店街を救う余裕はもはや無い。イオンと共生する社会を目指すべきだ
    http://www.open.sh/entry/20140429/1398713910

     

  • 原発奇計

    原発を再稼働しなければ、日本は経済的に沈むという経済的合理性と、原発のような過酷事故を起こしたものを再び動かすなんてとんでもないという心情的大衆性がぶつかっていまもたびたび非生産的な論争がうまれている。
    なんじゃかのぅ。

     

    専門家でもないし相手にされるとも採用されるとも思えないので、振り切って奇計奇略を考えてみたいと思う。きまじめな人気分わるくされたらごめんなせぇ。

     

    自分の現状認識

    もっと被害の大きい地震がそう遠くない時期にまたおきる

    襟裳沖、東京湾北、東海、南海、何度もおきる。日本を取り巻く地殻の応力は大規模に変化しており、M7クラスの地震は日本全国毎月ごとに%オーダーの発生確率がある。(※俺的計算による・・・)地球のタイムスケールでは10年はほぼ同時だ。

    噴火もおきる

    大規模地震と噴火が結びつかない歴史はない。関連で地震がおきれば富士山噴火もありうる。六ケ所村に火砕流の痕跡があったり近所の山が噴火する可能性もある。いや、まぁ、十和田火山噴火はぶっちゃけそうそうないとはおもうが、調査がほとんどされていないが北朝鮮国境にある白頭山の噴火なんかはそろそろ現実味がある。白頭山の噴火はかつて渤海国を滅ぼした。プリニー式噴火になれば、日本の発電送電網、また原発の冷却のような耐久消費財の維持コストは格段に跳ねあがる。災害による維持コストの変化は現況下では埋没コストとして検討しなければならない。

    1000年に一度の災害はけっこうおきる

    1000年サイクルの地震を起こす箇所が日本には何箇所あるかを考えると、いくつもあるもんだということがわかる。そして電気や飛行機という現代人が恩恵にあずかっているほとんどのテクノロジーはこのわずか100年のものだ。過酷な太陽風にさらされたこともなければ、降り積もる火山灰に高圧送電網がさらされたこともない。100年に一度の金融恐慌は30年ぐらいもあればおきるし、地球上はいつも紛争にまみれている。サリンを地下鉄でばら撒かれるなんていう凶行を一体誰が予見できただろうか。環境は変化する。いままでなかったから大丈夫だというのはこれらの外部環境の脅威の変化にたいしてあまりに愚鈍すぎる。

     

    跳ね上がる安全コスト

    超地殻変動期に突入したこんな時期に原発を動かすのはどうかしている。安全コストの問題だ。ヘッジではなくリスクアセスメント。同規模の地震が遠くない時期におきるとわかっている中で、環境変化の発生評価を311以前並みとはできない。経済的な投資をしたところで、汚染地区は経済的人的な投資をおこなっても現状復帰がおこなえない。半減期はお金では買えない。福島は30km圏内であったが、事故処理が間違えば300Km圏内が同じことになっている可能性は存分にあった。不幸中の幸いを何度も期待してはならない。大規模噴火の場合、逃げ遅れた人間はおおよそすべて死ぬというのはポンペイが教えてくれている。火山性ガスがあたりを覆い、火山灰で水流がつまり、空気中に電気を流す細かな石英が交じる、そのような状況下で原発のような高度産業構造物を平常稼働させるコストはいかほどか。それでも安全のためのコストは十二分に払われていて問題ないとするという言い分はわかるが、いくら論理的に納得できる資料が用意されようとも、すでに事故がおこってしまった今、心情的な同意が得られることはないだろう。急いて心情的なものを無視すれば、より無茶な考えや行動をおこすひとの材料にしかならない。それは不幸なことだ。

     

    原子力は学問として衰退する

    原子力発電で事故をまのあたりにした日本で育った子供は原子力分野を目指さなくなくなるだろう。10〜30年間は確実に多くの若者が夢見て志す環境ではなくなる。目指す若者が少なければ優秀なやつの存在確率も下がる。日本は世界的な競争のなかで劣位となり、産業分野として競争優位を確保することができなくなる。人材が確保できなくなる未来が想定される。そもそも新たな電力需要が喚起されない現代において大規模発電所+高圧送電網という重厚長大な建築物は成熟期から衰退期にさしかかっている。鉄鋼が大型炉から小型炉に以降したように、発電もユニット施設化するだろう。

     

    課題点と、これは酷いといいたくなるような解決策

    最終処分場の問題

    日本国内には安全な場所なんてない。噴火みたいな自然現象は10年もすりゃ安定化するけど、放射性同位体はあれだし、安定状態にできないんだから、キャスケットにでもぶっこんでロシアの永久凍土でも借りるよ他ないんじゃないの。

    資源とエネルギー不足

    火力の燃料費高騰により、経済と成長を食いつぶすから原発再稼働するよりないという経済的合理性があるとおもうのだけれども、安全のためのコストを埋没費用として考えた場合、経済的合理性なんて声高にいうほどないんじゃねぇのと思う。
    かといって、貿易赤字をそのままにしてものづくりのコストにエネルギー費用が転嫁されても、日本の経済的優位性は確保できなくなる。ものづくりは成熟国家の競争優位を確保できる材料なのか?という疑問はあるにせよ、現状それで成り立っているものを否定するわけにもいくまい。人工での労働生産なんて人口動態のボーナスが付く新興国のものだからそのものの未来ごとうっちゃってもいい気もするけど、産業移行期間を空白期間にもできない。
    そこでどうにかエネルギーコストの上昇を抑えなければいけないわけだ。じゃあ再稼働しかない。本当に?
    どうせ地震がおきたら100兆超規模の債権が発行されるし40兆しか税収がない国で100兆の予算組んでる財政規律だし、いずれデノミとかデフォルトはすることになるんだろうから、世間なみに通貨発行量増やして、エネルギー輸入コストの増大分には債権分をぶちあてて、形式上はお金を払いましたという構造で手当するよりないのではないか。酷いなぁとは思うが。
    戦争をもって戦争を養うという考えがかつてあった。圓や軍票の発行により、円の経済圏と切り離した。終戦にあたり結局円もデノミすることになったが、原発をもって原発を養うとか、いうとややこしくなるが、通貨発行戦争をもってエネルギーコストの上昇は養なえるのではないか。各国のマネーサプライだのマネーストックの上昇率をみれば、エネルギー費用の増加分ぐらいまぎれてもわかんねぇべさ。

    新エネルギー

    メタンハイドレートもあるし、藻類オイルもあるから未来明るいよねとつぶやいたら、

    2~3回死んでやり直してこいw という意味にもなる気もしたが、まあ実務のうえで考えるとそんなもんか。頭お花畑で夢想するだけにはエネルギー問題はそう遠くない時期になんとかなるんじゃないかと楽観していたりする。

    アメリカはシェールガス革命でエネルギーコストが下がるがこれはアメリカだけの問題であって、日本は恩恵にあずかれない。しかもこれは結構はやくに枯渇すんじゃねぇかと思う。
    他方、排他的経済水域ぐらいしか誇る資源がない日本だが、そこに貯蔵されるメタンハイドレートは真面目に産業化すればシェールガス並みのインパクトがある。国は平成30年には商業化の道筋をつけるとしているので、そんなに未来の話しではない。
    ここで重要なのは太平洋側のメタンハイドレートはメタン生成菌由来による生物合成であることがわかってきていることだ。石油は化石燃料とされているが、もともとは嫌気性菌や嫌気性の藻類の作った堆積物層にすぎないのではないか。植物類や藻類がカーボンキャプチャーしたものが炭泥層になり、酸素が含まれないため、メタン生成菌のような嫌気性の細菌やオーランチオキトリウムのような従属栄養の藻類により、炭素固定される。メタンだのスクワレンだのができる回路が解明されれば、オイルは管理下において作れるようになる。しかもその有機物を発電のために燃やしてもその炭素が彼ら嫌気性菌のごはんなのでカーボンキャプチャーストレージのサイクルはもんじゅより現実味がある。海底採掘は正直採算はどうかとおもうけれど、採集しかできなかった資源であったエネルギー資源というものは、栽培ができる資源になるんじゃないかと頭お花畑なのです。ま、俺が2~3死ぬ間にはきっとなんとかなるんじゃないかな。

     

  • 日本は移民政策を真剣に考えなくちゃ

    国粋主義な考えを持つ人達は脊髄反射的に文句を言うが日本に移民政策は必須だとおもう。
    すべからくみな年をとる。問題は年齢構成。この世代バランスが著しく崩れている。

    今、生まれていない子は20年後に20歳になることはない。
    20年後に20歳になる子、20年後に30歳になる子は現時点で最大数がわかっている。人口と年齢構成はもっとも言い当てることが簡単な未来のひとつだ。
    具体的に言うと20年後 20 ~ 44歳の働き盛りの層において、現在と比べて少なくとも8,601,702人の労働人口が減少する。860万人、就労人口の25%がいなくなる。生産人口が減れば経済力も当然衰退する。

     

    ハタチの子が20年務め上げて部長になったころに、部長が4人に新人1人みたいな構成になる。年功序列みたいな組織体制や社会保障の制度が機能するわけないよね?
    で、そこで出てくるのが移民政策だ。
    労働力が足りないから労働力を輸入しろ!と。
    だがしかし、だがしかし、輸入(受け入れ)でしか移民政策を議論しないのはナンセンスだじぇ?
    この年令構成のアンバランスを解消するために、老齢人口を知識層として輸出するのも移民政策なんじゃないかぇ?
    老人を知識層、後進の育成のための親方として移民できるようにする政策必要なんじゃ?

     

     
    「どんな難しい仕事でもバラしてしまえば簡単だ」っちゅうことで、だれにでもできる仕事にしたヘンリー・フォードのベルトコンベアに代表される自動車産業。織物機でラッダイト運動がおきたように自動化による雇用の喪失は人類がすでに通った道。
    日本の産業構成上、自動車産業ではなく情報通信産業が最大従事者数になっているにもかかわらず、いまだに生産性は時間と人数で計算される。そんなものは誰が仕事をしても成果がかわらなかったフォードさん時代の遺構だよ。現実をみろ。デトロイト市はこないだ破産したじゃないか。とても効率よくゴミを創りだしても、それでもなんとかなっていた時代なんてもう終わったんだ。
    数十年かけて磨いた腕前が、数百万の機械に経済的合理性のものと置き換えられる。数千億だしてつくった工場が数年ももたずにお荷物になる時代はもうきてる。いま陳腐化は恐ろしいスピードだ。
    先進国は生産力で競争していた時代から、付加価値創造力で競争をせざるをえない。だとしたら、労働力を輸入しても経済的な合理性は低い。安く使える奴隷が欲しいという不満を満足させるものでしかない。だから年齢構成が上に重たく耐久消費財が多く、インフラ維持費が高い日本が安い労働力としての移民を受け入れるなんてナンセンスだ。

     
    日本で陳腐化した技術や知識でも国によってはまだピカピカだ。まだダットサンだって走ってるし、農業、建築、医療、それから教育だって経験豊富な年配者の知恵や技能が資産になる環境は多い。
    現地の人の仕事を奪うことは許されない。日本人を1人雇うと現地人を2人雇えというような国もある。しかし仕事を作り出せる人達は大勢いるだろう。介護だって仕事になる。日本人は世界中に日本人村をつくればいいじゃないかぇ。
    いま20~40代とかの世代は20年後に輸出材になれるように!
    それより上で介護が必要になると、これもう議論として別次元。老々介護とかしゃれにならない。たぶんこのままいくと価値創造どころじゃなくて相当悲惨なことがおきる。じゃあせめて、ゆめかうつつかよくわからなくなっちゃったら、世界三十周ツアーとか銘打って豪華客船に乗ってもらえばとか言ったら怒られた。
    古代人がニライカナイだのを目指してただ東へ向かうだけの船にのったのはそれなりに理に叶ってる気もしなくもない。ただ、あと10年20年でなんらか解決策には道筋をつけておかないと国どころか文明ごと滅びちゃうぐらいのバランスの悪さがある。
    「いざ新天地へ」とかいって、棄民政策に近い形で南米への移民政策をとった政府もありましたし、半年船にのって着くまでに何人も死んで、ついたら何もなくて、あとはここで生活してください、さよならー! みたいなことだけはしないようにしないとね。

     

    *参考

    リー・クアンユー氏、人口減の日本に「悲観的」 新著で「移民受け入れよ」
    http://sankei.jp.msn.com/world/news/130807/asi13080708400002-n1.htm
    2006-11-04日本は20年後に労働力の25%を失います
    http://beta.g.hatena.ne.jp/kuippa/20061104