生産性の変革で戦争はおきた


あけましておめでとうございます。年初そうそう重テーマ。

昨年はAI元年だったなー、だとするとまた産業革命がおきて生産余剰とかがうまれるのかなー。余剰がかさなると戦争になるのかなーー、とか、漠とおもったんだけど、なんでそういう結末になったのかよくわからないので言語化。

IT革命、人工知能により生産性の革命がいままさにおきようとしている。
かつて生産性に革命がおきたときどうなったのか?

 

おサルの生産性

去年の干支でもあったサルは自然菜食であるので、サルの生産性イコール「自然からどれだけ食料を確保できたか」である。サルの生産性が高まり、群れが充分な食料を確保できると個体数が増える。

群れを構成できる自然限界数(ダンパー数)は50頭程度であるそうなので、これを超える前に群れが分裂する。

サルの時間移動距離は時速数百メートル程度で、縄張り圏内に別の群れがあると生存競争のために生死をかけた争いが生じる。ちなみに人間などにより給餌がおこなわれた場合はボス猿が誕生するそうだ。なわばりが衝突しても餌が充分にあるからかな?

 

人間のダンパー数は報告によると148名であるそうだ。

狩猟採集から農耕になった約1万年前より定住し社会構造を得た。縄張りが重複するのでこちらも「ボスヒト」が発生する。ま、豪族、館を中心とした、氏族により利害調整をおこなわれるような感じ。ボスヒトのボスが誕生し、さらボスヒトのボスのボス(ヒトキング!)が誕生し立憲君主制に至る。中世までキングの役割は収穫地、農地獲得のための領地獲得が戦争の主な目的であった。

 

人間の時間移動距離は街道が整備されている状態で時速4〜5km程度。詳しく調べていないのだが、おそらくこの時間内移動可能距離圏内に郷(村)が形成されてきたはずだ。高低差がない場合30キロが1日の歩行移動可能圏であるので、江戸期など中世における街道における宿場などはこの単位で整備されており、それにともない宿場町が形成される。後の中核都市。

職業軍人が生まれる前まで戦争は農閑期におこなわれた。この当時の戦争はこのままでは食い扶持に困る若く血の気の多い余剰人員の処分先でもあった。勝っても負けても口減らしの合理がある。この理はサルの時代のそれとあまり変わらない。

近世。ヒト類は「空気からパンを創る」科学技術の発明により自ら食糧問題を解決した。短時間あたりの移動可能距離も格段に伸びて食料問題はエネルギー問題になった。農地問題が解決されたので、都市化がすすみ、限界までつきつめた最密構造の居住空間でも生活を送れるようになった。群れの利害は食料から快適さに移行した。
企業は、子会社化や事業部制をとり、擬似的な群れをつくることでダンパー数をなんとかこえないように合従連衡をおこなう。争いは企業間による経済戦争や政治家による利益誘導に代替されるようになった。

だが、武力を伴った戦争もまだ人類の歴史から戦争がなくなったわけではない。
争いの目的はなににシフトしたのであろうか?エネルギー??快適さ??他人を使役できる経済力??

 

ヒトの近世

ここ300年ぐらいの歴史をざくっと考えてみる。

  1. 生産性の大規模改善により人口増、社会に対して多くの余剰人員が生まれる。
  2. 余剰人員が新たな技術を開発したり科学を探求したりして産業を興す。
  3. 産業構造の変革により継代事業は立ち行かなくなり、新興が台頭し旧家の多くは没落する。
  4. 社会保障としての公共事業や公共事業的性質の兵用がおこなわれる。
  5. 新天地に移民政策、棄民政策がなされる。
  6. 戦争が大衆から望まれるようになり大規模戦争。文化衝突。

 

1700年代 農業革命(輪栽式農業/新大陸からのじゃがいも流入)で農作物の生産性の大幅改善。
1800年前後 産業革命で自動紡績機、蒸気機関の発明。
1810年 缶詰の発明
1811-17年 ラッダイト運動
1857年 生産余剰で穀物価格が急落、世界恐慌
1914年 第一次世界大戦

 

ヨーロッパの超長期人口推移

www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9010.html

 

2〜300年前は世界的な天候不順や噴火による飢饉(1839天保の大飢饉 1845ジャガイモ飢饉)があったので、戦争以外に人口増を抑制する因子が多くあった。新大陸アメリカ(1776年ごろ〜)やニュージーランド(1830年ごろ〜)、オーストラリア(1770年ごろ〜)への移民も多く出たので生産余剰や余剰人員を新天地の開拓に転用できた。もっとも新天地では恐ろしく多くの命が失われたが・・・。また、黒人奴隷の輸入により経済で他人を使役することもできた。

 

 

日本についてみてみる。

人口の超長期推移

www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1150.html

 

おもしろいのは農業生産性が大幅に向上し、これだけ人口が増えた日本において、江戸末期(5000万石=150Kg×5000万=750万トン)と現在のお米の生産量(798万トン)がほとんど変化がないことだ。一石は一人の人間(一日3合)が1年食べるのに必要な量だという。お米のみが基準になった場合、750万人が日本の適正人口だが、ま、食料は米だけではないので江戸末期には3,000万人が居た。
江戸末期は男性の平均身長は155cmと栄養状態はあまり芳しくなかったが、今は栄養状態を改善したうえに12,000万人分の口を糊することができている。これは、畜産業や水産業の進歩、そして海外からの食料輸入ができるようになったからだ。

 

1839 天保の大飢饉(長期の天候不順、東北の冷害) → さつま芋、じゃがいも、かぼちゃなど
1849 伊豆韮山反射炉、1850 佐賀藩鍋島築地反射炉
1858 日本開国(日米修好通商条約)→ 金銀貨為替による財の流出、紡績などの技術の本格流入
1868 明治維新 → 蒸気機関、鉄道、人口爆発
1870 ガソリン自動車の発明
1876 電話の発明
1878 電灯の発明
1903 航空機の初飛行
1906 アンモニア合成の成功(人工肥料)
1908 ブラジル正式移民開始
1914 第一次世界大戦
1931 満蒙開拓移民開始
1939 第二次世界大戦
1939 核分裂実証実験
1945 原子爆弾投下

技術革新による遠洋への進出、長期保存可能な食品加工技術、鉄道の敷設により内陸部の食糧事情も大幅に改善。内陸部では余剰生産人口を絹産業などのの産業に向けることができるようになった。
さらにそこからも余る余剰人員は満州や、中南米への棄民政策とまで揶揄された移民政策で、解決しようとした。家長制度下で相続できなかった次男、三男などが新天地を求めて旅立った。また工業化により、集団就職など農業以外の仕事でも食っていくことができるようになった。

第一次世界大戦まではそれは功を奏し、日本でも人口は爆発的に増えた。人々に豊かさを享受し。そして戻れなくなった。で、次の戦争が望まれた。第二次世界大戦はエネルギー問題に端を発するものである。

人が人を殺せるようになるまで誕生から最低でも15年かかるが、技術がヒト殺しの兵器になるまでは数年。論理から実証に10年。民生化に30年といったところかな。戦争は生存競争であるため科学技術を大幅に押し上げてきた。技術が押し上げられたから戦争がおきたのか、戦争がおきたから技術がおしあげられたのかはわからん。

んー。なにが言いたいかわからなくなった。ま、少なくとも人類は第二次世界大戦により、大量生産が可能な工業化と核エネルギーを手にいれることができた。戦争で磨かれたレーダ技術は漁業に転用され、戦後の高度成長期の胃袋を支えた。

 

ヒトは余るのか

多くの先進国において人口の抑制政策はうまくいっている。

少子化対策がおこなわれた結果ではなく、少子化対策を行った結果が現在の少子化なのだと思う。

我が国の総人口の推移(出生中位(死亡中位)推計)

www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2015/27webhonpen/html/b1_s1-1-2.html

 

内閣府のデータ。母体数の減少をみないまま出生率をコホート無視した人口に掛けているので、低位の出生率でもちょっとシナリオがちょっと甘すぎるんじゃないかとおもうんだけど、今回はちょっとおいておく。そのうち計算してみたいな。

日本の場合は人口オーナスがついて、これからかなり激しく生産年齢人口を減らす。老齢化は深刻ではあるが、だが、同時に希望でもあって、もし革命的な技術革新がこれからあったとしても生産余剰力は生まれないだろう。

むしろ、豊かな暮らしを維持するために都合のいい労働力がほしいぞとばかりに移民をさせろとか言っているぐらいだ。しかし、これは技術革新で解決できる余地がある。足りないのがわかっているものは手がうてるが、余りそうなものはなんともできないのだ。

 

realtime.wsj.com/japan/2011/11/15/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%8B%95%E6%85%8B%E3%82%92%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%A7%E7%A2%BA%E8%AA%8D/

 

natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/080600214/
世界の人口は約73億人で、2050年までにアジア、アフリカで主に増え97億人にまで増加する見込みだ。

最近、百年ぶりに新たなアンモニア合成方法が発見された。材料科学や遺伝子改良技術は、不毛地帯を農地に変えるだろう。温暖化が悲観視されているが、植物には朗報だ。人類はあとちょっとくいっぱぐれずに生きれるかもしれない。

だが、人はパンのみに生きるにあらず。

小人閑居して不善を為すというが、ただいたずらに人を貯めれば大きな戦争もおきよう。
無用人間の絶望感は戦争に向かうのだ。日本ではない、いくつかの経済大国ではその気配がある。

 

わかっててやってそうだから、質が悪いよね。

人工知能のまえに等しく無用途人間に争わなくていいだけの些細な用途を。

 

参考

徒歩旅行
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E6%AD%A9%E6%97%85%E8%A1%8C

 

石 (単位)
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3_(%E5%8D%98%E4%BD%8D)

 

2100年の世界人口は112億人、国連予測
natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/080600214/

 


教育と訓練。遺伝と環境。


テストで点数をとるためのトレーニングが教育と勘違いされるようになって久しい。本末転倒で残念なことだ。勉強にも教育にもあれこれいいたいことはあるが、今回は、「同じ勉強をしているのに差がつくのはなぜか?」ということについて。

同じ勉強をしていて差がつく「本質的な理由」できる子とあと一歩の子の意外と大きい違い
石田 勝紀 :緑進学院 代表取締役
toyokeizai.net/articles/-/149489

理由を「やっぱり頭の構造が違う」「遺伝だ」など、努力しても手に入らないところに置き、自分を擁護したりすることもあるでしょう。
(中略)
一部の天才的な子はそうかもしれません。しかしそのような子が存在する確率は非常に小さいはずであり、身近にそんなにたくさんいるものではありません。

勉強ができる子は、寝てる時以外も学びに関心がいっているから勉強ができるんだってっさ。あはは。

「一を聞いて十を知る」という故事があるけれども、同じ感受情報からでも辺縁まで探索できる探索網の深さと広さは、そのものずばり、脳みその性能差なんじゃないかなと思うんだけど。「存在する確率は非常に小さいはず」というのは、遺伝的多様性を過小評価しすぎではないか。

脳みそも生体機能のひとつであるので運動能力と同程度にはその出現率は正規分布に従うはずだ。

 

同じ体育(トレーニング)をしているはずなのに足の速さに差がでるのは「寝ているとき以外、すべてトレーニング」しているからと言えるだろうか。野生の虎は強いが生活そのものが鍛錬だからだろうか?

筋細胞の割合や骨格、速筋の割合は遺伝にも強く支配される。アルコールの分解能に個人差があるのは、酒を呑む訓練していないから、「呑んでいるとき以外、すべて肝臓鍛錬」しているからだろううか?分解酵素を発現できない遺伝特性がある人を訓練でどうにかできるだろうか。

 

How smart or stupid is your country?
知能指数にはいくつか種類があるそうだが、50~69は軽度知的障害として分類される。35~49は中度。71~85はボーダー(境界域)。

知的障害
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E7%9A%84%E9%9A%9C%E5%AE%B3

受験勉強で競うステージに立つのはおそらくはボーダー以上で、しかも入塾テストなどでも弾かれているため、極めて均質限定的な遺伝的同質性を前提にした議論であるように感じる。

東大生の平均IQは(ネットででまわっているレベルの言説によると)120だそうだ。120ぐらいを最頻値にする母集団のなかで、145以上のIQを持つひとを天才と認知するのであれば、それはごくごく稀な存在として認知されるかもしれない。

 

おそらく、さらに上のIQをもつ人もいるだろうが、重度知的障害者と同様、他の合併症などを併発している可能性が高いため大学生活のような凡庸な場には出てこないのではないだろうか。社会で接しうる観測範囲のなかでは稀と感じるかもしれないが、個体としての出現率はおそらくは正規分布に従うはずだ。

 

東アジア、中国、韓国、日本あたりではIQ105あたりが平均値だそうだ。中央値と最頻値にあまり差のなさそうな分布になっていて、知的障害者が社会的にも分離されてしまっているために、そう感じるのかもしれない。おそらく日本の大学受験勉強ぐらいだと、標準的な知能の子が点とりゲームにいかに熟達しているかが合否をわけることがあるので、おおかた訓練量の多寡が一番影響を与える変数なのかもしれない。

 


www.liveleak.com/view?i=cd7_1462213771&comments=1

世界のIQ分布。

この図によるとアフリカが酷く低い状態となっているので、差別を助長していると勘違いされかねないが、知能指数や運動能力は遺伝だけでなく、幼少期、発達期の栄養状態にも大きく影響をうけることを忘れてはならない。

 

人類の遺伝的多様性は過小評価すべきではない。

字が読め、文意が理解でき、思索がおこなえている時点で相当に恵まれているのだ。

  • 9歳の壁:分数が理解できない。
  • AIがぶち当たっている壁:文意が理解できない。

これらは、トレーニング量の多寡だけでは解決しない。ポアンカレ予想や、リーマン予想、シェイクスピアやモーツァルトが残した成果に学習量の多寡で到達しえないのと同じようなものだ。

 

しかし、運動能力が車やバイクなどの移動装置で補完できるように、知性も外部装置化でおおよそ補完できる。

スマフォや、コンピューター、ネットの有り無し、手順書の有り無しは、結果に対して知能指数由来の要因以上の影響を与えるだろう。

自動運転装置などは、老齢化し認知能力が低下した人類にも役にたつだろう。

 
テストの点に差が出るのは、訓練の成果でもある。

訓練を積めばウエイトリフティングで重たいものもあげられるようになるのと同程度に生体機能向上がみこめる。しかし、トレーニングに偏重し、重量挙げを筋肉だけで課題解決をしようするのならば人類に発展はない。

脳みそは生体機能である。トレーニングも有効ではあるが衰退や老化もする。同時に過負荷のトレーニングや稼働をおこなえば故障もする。点をとることに執着し訓練を積み、過剰最適をおこなえば偏狭になる。頭のいいバカを量産するのはいかがなものか。

 

 


木造建築にタバコの吸い殻を捨てちゃうような、火を扱うのには早すぎる人類も居る。

fool-proofこそが文化資本だ。

 

 

勉強を教える(テストで良い点をとれるようにトレーニングさせる)よりも、環境を整え文化資本にアクセス容易なように障壁をとりのぞく環境をつくことことこそが教育側の役割ではないか。例えば、プログラミングができるようになる、ならないは本人の資質以上に学ぶことができる環境構築ができるかできないかにかかっている。

努力ができる環境を。そして、局所最適、過剰最適しすぎない環境を。

 

 

同じ勉強をしていて、差がでるのは自然なことだ。

しかし、その差ばかりを重要視してはならない。外部装置による影響のほうがでかくなってきているのに、勉強の成果だけを基準にするのは、いささかモノサシが足りない。他人の感情を理解できるみたいな、そのほかの会的な評価モノサシを増やさないと、文明は低迷する。(んじゃねぇかな。ど?)

 

参考

日本、中国、韓国人は「世界で最も頭が良い」、英国の研究者の知能指数調査で明らかに―香港メディア
news.livedoor.com/article/detail/10151293/
WORLD RANKING OF COUNTRIES BY THEIR AVERAGE
iq-research.info/en/page/average-iq-by-country
IQ mode average countryでイメージでぐぐった。


現代祭事の合理性(その4)


1)神酒所設営、神輿、山車には、防災訓練に通じる合理があるのではないか
2)樹齢の高いご神木には災害忌避地のエリアログとしての性質があるのではないか
3)鳥居は、木造の自立構造を伝承するための技術現物見本としての役割があるのではないか

などについて書いてきた。

今回は、現代祭事から古代祭事ぐらいまでいっきにさかのぼって、お供え(神饌)について考えてみたい。
祭壇やお仏壇に、お米や、お酒、お塩、お魚、野菜、果物、お菓子あらゆるものをお供えする。
現在は様式化して、まあそういうもんだと形骸化、慣習化している。
なんでお供えをするんだろう?

なんで、そういう捧げ物の文化がうまれ定着したのだろうか?

宗教性をとりのぞいたときに、そこに合理性はあるだろうか??
お供えもの。その合理について考えてみたい。

 

市場機能

野菜や果物が並ぶ市、マーケットというのはどのような途上国にいっても見かけるものだ。市が開催されるようになることで、生産余剰を交換でき、貨幣が機能し、生産力の比較優位から結果として全体生産力が向上する。
日本での市の歴史をみてみると、織田信長が楽市楽座で規制緩和をおこなったことからもわかるように、行政を機能させるためには重要なポイントである。
鉄道や道路により物流に変化がおきるまでは、門前や参道はマーケットを開催するのに適した地であった。マーケットが開かれるからそこに神社が立つようになったのか、神社があるからそこに市が開かれるのか、その因果はどちらとも言えないが、多くの人が集まるポイントに特定誰かの住居ではない半ばパブリックな建築物があることには合理がある。
収穫物の収集と集約と評価、分配という機能があるのではないかと考えられる。

現在の魚市場や野菜市場は、全国からの集荷と、値決め、分荷が市場としての主な機能だが、古代都市は、集落、部族ごとの交易の場としての、マーケットにお堂をたてるのは合理性がある。

 

品種改良

マーケットに建てられたお堂、祠。これらは世界で類型がみられる。精霊信仰などとも大差のないものである。
しかし、日本の土着宗教において、とくに特徴的といえるのは作物、収穫物の神饌、捧げ物である。

 

ときに秋祭りなどでは顕著で、その年にとれた出来のいいも作物などを、神前に捧げたりする。
これに合理性はあるだろうか?

 

もしかして、400~800年頃の日本にいた偉人はその年の実りをあつめて、品質が良かったものを翌年に育てるということをしたかったのではないか?

冷夏が続いた年には冷害に強い稲が集まり、干ばつが続いた酷暑のあとには渇水につよい稲が集まる。
病害虫が続けば、それに強く生き残った稲が集まる。

それらを捧げると称して、だまくらかしてでも一同に集め、品評して、そして縁起物だからと払い下げる。植物が自力でその植生範囲を広げるより圧倒的な速さでその子孫が増えていき、歴々強く多く実る作物に品種改良がおこなわれていく。

 

日本に稲作伝承するまえは、栗や、栃の実など、どんぐりのような落実植物だが、これは品種改良をしようとしても、歳月がかかり無駄も多い。挿し木で分けてしまったほうが早い。が、稲の場合は1粒が1000倍にもなる。品種改良に成功さえすれば、その栽培効率の改善はおおいに期待してよいものだ。

 

 

1~3世紀に存在した邪馬台国の有力地とされる纒向遺跡(まきむく)から大量にモモの種が出土した。
祭祀に使用されたものと考えらていれるようだ。
だから、祭祀ってなんじゃいな。説明できないものを祭祀で片付けるのよくないよね。

 

山中で取れる自生の桃には現在のような甘いものは少なかっただろうし、苦味があるものもあっただろう。
甘く果肉たっぷりのものがたわわに実るさまは栄養事情に乏しかった中世以前、まさに神の御業のごとく見えたことだろう。

集めた種から、種苗育成をおこない植生を交換していく。より甘くなったものを、植え、さらに甘くなったものを探す。苦いけど病気に強いものと、甘いけど病気に弱いものをかけ合わせて、第一世代はどうなるか、など、研究しようとするならば不可侵の神域を定める必要がある。

 
古代に農作物の苗や種を提供してくれる農協のような広域組織はない。
化学肥料もなく、作物のバリエーションも少なかった。
いまではあたりまえに食べられている、じゃがいも、やさつまいも、かぼちゃ、トマトだって外来野菜だ。野菜や根菜で日本固有種というのは実にすくない。

 

冷害や渇水で作物が充分に収穫できないと直接生死に直結する。
海外から輸入もできなければ、冷蔵庫もないのだ。

弱者救済のための福祉や、再分配の要素。長老的な人物を祭壇に据えておくことで、これは毒キノコじゃ、こうやれば食えるというナレッジ共有、食育もおこなえたことだろう。

 

感謝するとかの建前はおいておいて、その年に採れたもの、その中でもいいものを、一箇所にあつめることには、

非常に理にかなっている。

 

中世の歌舞伎では一年にいちどその年に上演する舞台の世界定めをおこなったそうだ。その年にとれた作物を集めて、翌年に育てる種苗の世界定めをすることは、実に合理にかなっている。

 

参考

市場の役割と機能
www.shijou.metro.tokyo.jp/about/useful/

 
奈良・纒向遺跡で大量の桃の種 邪馬台国の有力地
2000個超、祭祀に使用か
id.nikkei.com/lounge/auth/password/proxy/post_response.seam?cid=16244431

 

神道Q&A♪ > お供え物…右?左?♪
野菜をお供えするとき、向きはありますか?
isuzujinja.blog103.fc2.com/blog-entry-275.html

 

なぜ美味しい野菜ができるのか種農家に聞いてきた
genryudaigaku.com/archives/2924