音楽教室と音楽著作権について


楽曲の著作権を管理するJASRAC(日本音楽著作権協会)が音楽教室からも著作権料徴収をするとして反感がわきあがっている。
音楽教室は儲かってそうだから上前ちょっとよこせ?
著作権を守らせるためには音楽文化を根絶させることも辞さないような愚かな行為だ。

音楽教室から著作権料徴収へ JASRAC方針、反発も
headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170202-00000014-asahi-musi

JASRACの外部理事 東京大学先端科学技術研究センター 玉井克哉教授のツイートを伺うに、

音楽事業で利益があがっているから(取り立てる側が)泣き寝入りはしないぞということらしいです。
小さい音楽教室なんかは対象外だから心配するなってのも部外者からするとなんじゃそりゃ感。恣意的運用もいいところ。法を背景にうごいている人たちがこんなことをしてていいのかな?
音楽や文化振興の未来を蝕んでいるんじゃないのかな?
日本の子どもたちの未来になにしちゃってくれてるの??
それこそが目的なの?

 

プロのミュージシャンが他人の著作楽曲をつかって観客から入場料をもらうのが営利事業なのはわかるし、そこから入場料のいくばくかを楽曲の製作者に還元するというのもわかる。で、その徴収行為をそれぞれが行うのは大変だから管理団体が立ち上がるのも、まあわかる。

で、なんで練習や教育にも著作権侵害が絡んでくるの?というのが素直な疑問。

 

音楽著作権について

一般に学校教育などにおける授業において著作権の侵害は発生しておらず著作権料の支払いは不要とされている。

 

著作権法
www.houko.com/00/01/S45/048.HTM#s2.3.5
(営利を目的としない上演等)
第三八条 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。

 

学校が音楽著作物を利用できるのは非営利目的であることと、聴衆から入場料などを得ていないこと、演奏者に報酬を払っていないことが法的な建付けになっている。

せっかくなのでJASRACのホームページからその主張を考えてみたい。

www.jasrac.or.jp/copyright/outline/index.html

 

今回は音楽教室は著作財産権うち上演権・演奏権について音楽教室は営利目的の団体だから違反しているじゃないかという論のようだ。生徒が教師に対して、もしくは教師が演奏しているから、伴奏などで楽曲を演奏するからが論拠のよう。

 

かつては、カラオケはただの楽曲の私的利用ではないかという係争もあったようだが、カラオケの機械が演奏者で、カラオケを唄っている客こそが聴衆。で、聴衆がカラオケボックスに入場料を払っているのだから営利目的の演奏にあたるのでアウトだということのようだ。んんん?と思わなくもないけれども、まあ録音楽曲を営利で公衆送信をおこなっているのでまあなんというか、うん、まあ、うん。

 

学校はオッケーだけど、音楽教室はアウト。

学校法人はオッケーだけど、塾はアウトみたいな感覚なのかもしれない。
だが、最大手のひとつヤマハ音楽教室は、一般財団法人ヤマハ音楽振興会が主体となっていて、公益目的の法人である。一般財団法人は拠出された財産を運用する目的の団体だ。法人の性質上余剰金の分配はおこなわれない。財務諸表などをみてみると経常収益は260億円であるが経常費用は266億で今年度循環でみるかぎりは赤字である。流動資産が78億、固定資産が22億(固定のほうが少ないって珍しくね?)で、利益を伸ばしているようにも見えない。

www.yamaha-mf.or.jp/activity/setsuritu.html

 

 

 

こんな論もある。

「生徒は講師の演奏を聴くために授業料を払っているのではない」「教師は演奏の対価として給料をもらっているのではない」
bylines.news.yahoo.co.jp/kuriharakiyoshi/20170206-00067411/

しかし、その理屈がとおるならば学校法人だって利益をあげているじゃないかと言うことができてしまうはずだ。多くの学校法人もその運営のために毎年余剰金を積み立てているはずで、それは貸借対照表上はまぎれもなく利益だ。

 

管理楽曲の利用があるだけで「教師は演奏の対価として給料をもらっている」ことの可能性を排除することは難しい。
JASRAC管理下の曲が一曲紛れ込んだだけで、すべての商行為がライセンス感染する。オープンソースソフトウェア界隈であるGPL汚染というか、ポイゾニングなみの恐ろしさがある。本来はその楽曲の貢献度、影響度について計算したうえで”それ”はなされるべき性質のものだが、枝葉末節であったはずの音楽のしかもたかだか数曲のしかも数フレーズが、その外を無視して結果すべてにかかってくるのだ。
音楽教室のあげる利益の源泉が楽曲利用にあるのであればそれもよいかもしれないが、どう考えてもそうではないだろう。

喫茶店が楽曲を利用していからJASRACが来たり、ライブハウスでアマチュア出演者が演奏するからというのでJASRACが来たりしていたけれども、とうとう、教室にまで進出してきたかという感じ。

 

巨大な利権と天下り先か?

天下りが問題になるのは、天下る人の問題じゃなくて、辞めた人が現役現場に影響力を持ち続けることができる現場の膠着性。またはそれを維持するための法的参入障壁と寡占市場のほうにこそ問題の根幹があるとおもう。なので、天下りとか利権をどうこういうことの意味を感じはしないのだけれども、ツイッターなどの意見がそこに集まっているようなので、財務についてのほうには触れておこうとおもう。

 

情報公開 (業務及び財務等に関する資料の公開について)
www.jasrac.or.jp/profile/disclose/index.html

 

一般会計と信託会計にわかれていて、信託会計の収入の部をみてみると手数料収入は1638億円に登る。演奏や放送の徴収額と支出額が億、十億単位でずれているが、どうしてなのか俺には推測もできない。

「JASRACの給与・役員報酬の合計は約36億円」というツイートもみかけたのだが、正確には2015年度の役員報酬は2億3千万、6億2千万である(管理費)。事業費のほうの給与(たぶんこちらは一般社員のほう)は33億7千万。

正味財産増減計算書
www.jasrac.or.jp/profile/disclose/pdf/2015/2015_general02.pdf

役員等一覧
www.jasrac.or.jp/profile/outline/officer.html

常任理事以上9名
理事22名
監事4名 の計35名。

一般理事はほとんど費用をもらっていないなどの事情でもなければ、それほど膨大な報酬を得ているとは思えない。ただ、信託会計収入合計1,638億、一般経常収支143億もありゃ、この管理団体の収入だけで電子書籍市場の規模1,800億に相当するわけで、絶大な影響力があるのは想像に難しくない。

音楽著作権管理団体にはJASRAC以外にe-Licenseなど後発もあるが、こちらは資本金6億の株式会社だ。ここらへんに触れだすと包括契約がどうこうとかいいたくなるのでやめるけど、まだまだ寡占市場であることは間違いない。

 

かんそー

「著作物」とは「思想又は感情を創作的に表現したもの」(著作権法2条1項1号)
著作権や知的財産権の根幹にあるものは、頭の外にだされ固定化されていなければならない。頭の中にあるだけのアイディアなどは保護されないのだ。

 

音楽の場合、表現が楽譜やメディアとして記録されるようにできるようになったためにどのようにそれを管理すればよいか迷走している。果たして、誰かが表現した楽曲を、再び演奏者が表現し直すのはどこまでその類似性を許すのか。
コード進行は?メロディーの類似性は?それ本当にAIとかで楽曲類似判定かける時代になっても別の曲だと言いきれますか??
俺には日本の有名なあの曲だって外国のあの曲にしか聞こえないものが多くある。
リスペクトとパクリとマッシュアップは同じもの?
外国の民謡を自分が作曲者だといいはる人物を守るのが本当に文化振興事業なのでしょうか。

 

著作権の考え方のベースになっている万国著作権条約がつくられたのが1952年。まだ60年ちょっとしか経っていない。しかし、この60年のあいだに出版物や音楽を取り巻く環境は大きく変わった。音楽の演奏形態もおおきくかわった。

ネット配信が主流になった今では、曲はフリーで配布して、コンサートやグッズで稼ぐなどアーティストの利益回収のための仕組みもかわってきた。

だからといって、手数料収入がおちてきたから音楽教室に手をいれようとか、そんなタコが足くうようなことしてちゃだめだよね。いい大人が考えたアイディアがそれじゃ筋がわるすぎる。いったいどこらへんが音楽文化振興なんですかと。

もしかしたらこんなことも今話題の文科省の天下りあっせん調査がすすめば解決したりしてね。

 

 

 

 

参考

音楽教室でJASRAC管理楽曲は「演奏」されているのか。
benli.cocolog-nifty.com/benli/2017/02/jasrac-3747.html
→弁護士の見解

 

宇多田ヒカルさんは勘違いされているのではないか?
bylines.news.yahoo.co.jp/kuriharakiyoshi/20170205-00067379/
→ 弁理士の見解

 

togetter.com/li/1077579
→ JASRACの外部理事 東京大学先端科学技術研究センター教授の関連ツイート

 

残酷な天使のテーゼの作詞者「音楽はタダではない。でも音楽を学びたい子供達には自由に使わせてあげてほしい」
togetter.com/li/1077289


センター試験の英語ができなかった


もう20年もまえのことだが、いまだに覚えている。

翌日新聞にのった解答で自己採点をしていって、たしか97点だった。

 
200満点中で。

 

欄がずれてるとか何かの間違いなんじゃないかなと思って見直したときの絶望感。

なにやら「便所にしまった大量の砂糖がベタベタになっちゃって超うけるぅw」とかいう長文を読まされてココロが折れ、自分は一体何を読まされているのだろうかと混乱して何やら薄暗いところでにゃーにゃとないたことだけは覚えている。
わがはいは理科系なので、高校では古文とか漢文は選択履修もせず、いっさい勉強もしていなかったぶっつけ本番の国語ではなぜか190点ぐらいとれたのとはうらはら、あれだけ勉強したつもりになった英語ははちゃめちゃだった。

 

英語にはいまだに苦手意識しかない

高校生のころ英語が苦手すぎて、ラテン語とかから覚えれば知らない単語でも意味が推測できるよとそそのかされて単語を覚えたり、なぜか姉から貰ったアラビア語入門のテキストが机あったりして、方向はだいぶ間違っていたとはおもうが、塾にも通ったりしたし世間の受験生なみには勉強はしたつもりだった。
グローバル化をむかえる日本社会において英語の学習は必須だそうだ。

が、自分は英語に対する学習意欲というのをいまだに持てないでいる。

社会人ならTOIECぐらいはうけたほうがいいと言われて、みんなが一生懸命勉強するTOIECというものは、どんなものだろうかと受験したこともあるが、こちらも400点代だった記憶がある。たしかヒアリングが350点ぐらいで筆記のほうが百数十点。筆記は時間が全然たりずうわーってなった。自分の実力を把握したことで、一般事務職希望の女の子とかが履歴書とかにTOIEC950点とか書いてきてるのをみて、はへぇ、すごいなぁと感想をいだけるようにはなった。

 
で、サラリーマンになってから数年。

本業ではまったく必要なかったんだけど、語学これじゃだめだなぁと思って、意を決して語学教室に通うことにした。

で、中国語を習いはじめた。十年以上前の中国躍進が目覚しいころだったかな。

台湾出身の先生にいままで教えた生徒のなかで一番発音とかが上手いと言われるようにはなった。で、とりあえず、どんなもんかと中国語検定の3級を受けてみたが、それ用の勉強をしてきたわけでもないので案の定落ちて、まあこんなもんかと、忙しくなったのもあいまって習うのも辞めてしまった。これ以上は用に迫られてからでもいいやと。

 
中国語を勉強しようとした動機は、20歳ぐらいのときに夏休みに中国一人旅して、言葉がまったく通じなかったという体験があったからだ。「多少銭(これいくら?)」という単語を中国人が言うとおりにリピートしているつもりなのだが、現地人にまったく聞き取ってもらえない。自分にはこれが新鮮な体験で、自分の耳には彼、彼女らが言うとおりに発音しているつもりであるのにできないというのが悔しかったのだ。そんな体験があったから学習の必要を感じたのだ。だから、発音に目星がつけばもういいやと。

 

英検3級は持っている

中学2年のころに取ったのだが、このころにはまだ英語に対して学習意欲があったのだと思う。
思えば、中二ぐらいが分岐点だったかもしれない。そのころ親が英国で働くようになり自分も夏休みとか冬休みにはむこうに行くようになったのだ。それから、大学入試センター試験を迎えるまでには二桁回数ぐらいは英国に行っているし、通算なら1年以上滞在しているんじゃないかと思う。向こうの家までいくのは無論一人で電車で乗り継ぎだし、ショートホームステイもしたことあったし、16歳の頃には英国内を一人旅で観光できる程度の英語力(?)はあった。だが、逆に言えば、たぶん、そういうのが受験英語にはよくなかったのかもしれない。

 
一般的な高校生が持つ体験とだいぶ異なってしまったのだ。出題者がもっているであろう常識とも。

米国ではなく英国。これがロンドンシティとかのほうなら違ったのかもしれないが自分はウェールズに近いほう。いってみれば英語の青森弁だ。コックニーですらない。一人旅したのもスコットランドの方。北で「サマーバケーションで日本から来てるんだ」と言えば、「バケーションなんてアメ公みたいな言葉をつかうんじゃねぇや、ホラデイだ!」と爺さまに怒らるような世界に足をおいてしまった。

 
あるとき、駅のホームに数人しかいないような田舎で電車を待っていたら、同世代の高校生ぐらいの女子に声を掛けられた。

 
「ねぇ、ペグもってる?」

 

 

(あぁ・・・。ペグね。)

その頃ギターをやっていた俺は、あのギターの先っちょについている糸巻きの事を思い浮かべた。

持ってるわけねぇだろ、と。

ペグに他の意味はあったっけかと一生懸命考えた。ペグ、ペグ。

犬が思い浮かんだ。わんわん。

 
「ペグってなんだ?」って、聞いたらなにやら手元のノートに書く仕草。

それってば俺が「ペン」って認識している奴ではないのか?

 

I have a penと言えればよかった。

I have an appleと言えればよかった。Ahan!

 

 

ちょっとステップふんで踊って回れるだけのユーモアがあれば彼女とも友達になれたかもしれないし、世界でも人気者になれただろう。だが、「でゅふ、ごめん、持ってない。」としか答えられなかった。

 
あるときは同世代の2人組みの女の子から「今何時?」ときかれたこともある。

そのとき俺は確かに腕時計をしていたが、こんな田舎でも時計なんてそこかしこにある。ちょうどすぐ近くにある時計塔を指して応えた。「あそこ見りゃ時間はわかるぞ」って。が、今思えば、もしかしたら彼女らは「時間ある?」と聞いたのかもしれないし、その真意は、その地域では珍しい外国人とちょっと話してみたいぐらいの好奇心だったのかもしれない。が、そんなコミュニケーションスキルはもちあわせていないのである。
あぁ、英語ができれば!

 

コミュニケーションお化け

理系男子と比較するまでもなく、世のおばちゃんはコミュニケーションスキルが規格外の場合がある。うちの母親もそんな感じで、言葉がどうとかいうハンデとか、尻込み、ためらいが無い。高校生のあるとき、わしは見てしまったんじゃよ。英国でうちの母親が隣のおばちゃんと会話している様を。

 
母親は日本語で話していた。隣のおばさんは英語で喋っていた。

 
何を言っているのかわからねぇとおもうが、それで会話が成立していたんだ。なるほどこれが異文化コミュニケーションって思ってしまったんだ。伝えたいことや、共通で認識している暗黙知があるから会話が成立するのであって、その上に乗る言語というバーバルプロトコルは意思疎通にほんの数割も必要ないんじゃないかって。

 
そういえば、従兄弟に尋ねられたことがある。

従兄弟は小学生低学年のころアメリカに住んでいて、うちの母親が授業見学で来て、なにやら授業をして帰って行ったと言うのだ。なにを喋ってどうやって授業したのか子供の頃すぎて覚えてないんだけど、おばさん英語喋れないはずなのに、どうやったんだろう?という不思議体験を話してくれた。たぶん、それ、あれだ、日本語でなんとかしたんじゃね。

 

もし、日本語という語を完璧にマスターしたとしても日本の中高生と話しはできないだろう。親戚のおじさんが「最近どうだ」と聞く程度の交流がせいぜいである。だが、およそ仲間内なら「うぇーぃw」で充分なことは多いのだ。そのことに気がついてしまえば、言葉が通じない国に旅行に行ってもなんとかなる。

 

英語わかりません

おっさんになった自分はいまだに英語というものができる気はしない。

シミュレーションとシュミレーションの区別はあやふやだしタックスヘイブンは指摘されるまでタックスヘブンだと思っていた。だから、英語できる人すごいなーと思うし、勉強しているひとたちを尊敬する。
しかし、そんなセンター100点割れ、TOEIC400点代ぐらいの自分でもupworksとかクラウドソーシングサービスつかって海外に仕事を頼めるし、海外の会社と連絡して輸入とかもする。プログラミングとかはそもそもが英語ベースだし、必要なリファレンスなんて日本語では資料もなく、英語のほうがわかりやすい。

 

何かを知るために英語が手段として必要になることは多い。それは厳然たる事実だと思う。いろんな学術論文も英語で書かれているし、情報収集や勉強には英語は必要だとはおもう。courseraとかのMOOCSで授業をみるのに英語は必要だ。だけど、そこに必要な英語というものが日本で求められ学習されている英語と同じものと同一だとは思えないでいる。英語をつかって何かを知りたいなとは思うけれども、英語そのものを知りたいなとはあまり思えないのである。

 

repositoryからforkしてとか、e-coil、stem cellだと、はたしてこういうのも英語なのだろうか?

目的語の位置だとか動詞の活用とか、アクセントの位置?受験とかで問われているあれがなんなのかわからないし、設問とかで問おうとしていることそのものに興味がもてない。たぶんこの興味をもてないというのが学習阻害要因の第一位なんだとおもう。みんな一体どうしてあれに法則性をみつけて解けるのだろうか。

 

 

そういえば、中学の頃は国語も苦手だった。「この時の作者の気持ちを選択肢から選びなさい」と問われても選択肢のなかに作者が考えそうなことがないので意味がわからなかった。だが、あるとき、作者の気持ちではなく出題者がなんて答えてほしいかを答えなさいという問題だとはたと気がついたときに、本文とか読まないで問題文の選択肢だけみてれば答えだせるじゃんと気がついてしまったのだ。もしかしたら、英語にもそんなコツとか割り切りがあるのかもしれないし、みんなは、それに沿った反復練習をしているのかもしれない。

 

 
アメリカでコーヒーを頼んだらコーラがでてきた。

 
自分の英語はそんなものだ。

ここ10年は海外どころか町内からもでておらずほとんど引きこもっているが、20歳前後のころはスペイン語圏、フランス語圏、イタリア語圏、中国語圏、韓国語圏など英語以外を必要とする国々をまわった。だが、言葉が通じなくて苦労したということはほとんどない。相手が人間であれば言葉はなんとかなるものだ。それよりは、もっと違う困りごとのほうが多い。

 

 

生粋JAPには、英語の教科書の会話の流れはほんとうに意味不明。まさに英語できない人たちのココロの声を代弁してくれている。砂糖がベタついたからいったいなんなんだと。

 

日本では英語が小学生から必修科目になるらしい。プログラミングも必修化だそうな。

プログラミングも試験科目や指導されていたら嫌いになってただろうなと予感する自分がいる。

 
世の中には、日本語話者でも日本語が通じない相手がいる。

もし、試験でちょっとやらかしてしまったり、受験で苦手科目とかがあったとしても、まあ人生けっこう選択肢は豊富なもんだし、若くこれからの皆様には、ひろく大きな世界と未来を充分に楽しんでほしいのである。

 

受験生、風邪だけは引くなよ!

おいちゃんが言えるのはそれくらいだ。


知性と遺伝


知性と遺伝をからめて扱うときは気をつけなされぇとコメントをもらって、たしかにぃとおもったので、ちょいと書き書き。結論などない。
最近、相模原障害者施設殺傷事件(やまゆり園)で発生した、知的障害者の大量殺人事件もあったばかり。

トランプ、ドゥテルテ、ムカベとか世界もいろいろきな臭くなってきた。第二次世界大戦下でナチス・ドイツがおこなった優生思想に基づく民族浄化政策や、KKK(クー・クラックス・クラン)による白人至上主義団体など、遺伝を絡めると、わりと簡単に人類のタブーにたどり着ける。人類の暗部はすぐそこに今もある。

 

人種差別的偏見が認知力の低さに相関があると調査論文がでたのは皮肉なことであるが、そのようなやり過ぎジェノサイドも含め、過ちを繰り返すのも人類の本質の一部であると心するよりほかない。知能指数、IQなんちゅうものはそもそも年齢と比較しての発達をみるためのものでしかなく、同じスケールで計測できている段階でIQ80も120も単なる個体差にすぎない。同じモノサシの上にのっているものだ。

 

クジラとウシは兄弟

遺伝については世間的な認知度が人によって大きく異なるので、ちょっと遺伝的多様性について、ひいた所から書いていく。極端な例から詰めていくよ。
クジラもウシも同じ鯨偶蹄目である。

カラスはスズメ目で、犬はネコ目だ。

体重3キロ以下のチワワも体重100キロを超すセント・バーナードも同じイエイヌ亜種である。
羽生善治も吉田沙保里も同じホモ・サピエンス・サピエンス亜種で、どちらも日本人だ。
クジラは賢いから食べちゃだめだというが、遺伝的にはウシも同じ目なんだよね・・・。

カラスは賢いというが、遺伝的にはスズメさんのお仲間だ。チュンチュン。燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんやっていうけど故人が鴉と類さなかったのは慧眼だよね。
生物は進化や分岐の分類で、界>門>亜門>綱>下綱>目>亜目>下目>上科>科>亜科>族>亜族>属>種>亜種のようにわけられる。ヒトを簡易的な分類で見ると次のようになる。

界 : 動物界 Animalia
門 : 脊索動物門 Chordata
綱 : 哺乳綱 Mammalia
目 : サル目 Primates
科 : ヒト科 Hominidae
族 : ヒト族 Hominini
属 : ヒト属 Homo
種 : ホモ・サピエンス
亜種 :ホモ・サピエンス・サピエンス

現生人類はホモ・サピエンス・サピエンスのみ現存している。

黒人(ネグロイド)や白人(コーカソイド )、黄色人種(モンゴロイド)などは歴史的人種分類概念もあるが、これら外見上の肌の色や瞳の色は、単なるメラニン色素の量によるもので遺伝的にみると、約31億ある塩基配列のうち、わずか1~2ヵ所が異なっているに過ぎない。(と、現在までの科学では知られている。)

 

人類だいたい兄弟

身長は親子間で比較的つよい遺伝影響があるのは体験的にも実感があると思う。

背の高い親から生まれた子供は、背が高くなる可能性が高い。しかし、その身長の高さは子は平均に近くなることも知られている。

 

ちょっとこの理由を誰にでもわかるようにひとことで説明をするのがむずかしいのだけれども、これは分散の問題。偏差値で表現すると、たとえば身長偏差値75の親から生まれた子は、身長偏差値65ぐらいになって、さらにその子は55ぐらいになるというように、たしかに平均よりは高いけれども、より平均値、最頻値に近づく。

簡単な理由をあげると、交配しているからなんだけど、もし、遺伝で身長偏差値が85、95とどんどん離れる方向に動くなら、それは種の分化だ。遺伝的多様性は交配によってその種のなかでは収斂していく。

あと、江戸時代の平均身長が男性155~158cmなかったことからもわかるように、遺伝以外の環境要因も強く作用する。

 

遺伝由来の頭の良さ悪さが資質としてあったとして、同じスケールで測れる範囲であれば、そんなものは進化の系譜のなかでは個体差にすぎない。逆に突然変異種になってしまうぐらいの遺伝的変化が発生した場合は、そもそも同種と交配ができないか、交配してもその子がF1種や、ライオンと虎の子のライガーやロバと馬の子のラバのようにその子供が繁殖能力がなく結果絶えてしまう。

 

数個前のエントリーで破局噴火について書いたが、トバ・カタストロフ理論によれば、今から7万年前から7万5千年前に人類は大量絶滅をしている。その時に生き残れたのはわずか1,000組~1万組ほどの夫婦である。1万組が72億人の現在人口のオリジナルの版下だ。江戸時代末期に3千万人しかいなかったのが平成の1億2千万人のルーツである。なので、本質的には兄弟種で、遺伝的にはほぼ同じものといっていい。

 

だが、ほとんど同じであるからこそ些細なところを比較することができるのだ。そして同質でありすぎるが故にその些細な違いが目立つのだ。

 
ここでY染色体ハプログループをみてみる。


一番最初のA~Bタイプの分岐が20~26万年前。

Bタイプの分岐が60,000~65,000年前。

Kタイプの分岐が47,000年前。

東南アジア、日本人にも多い、Oタイプへの分岐が23,000~32,000年前

 

ヒトの繁殖間隔を仮に15年で1世代とすると、20万年で1万3千世代。6万年で約4000世代となる。
※縄文人の平均寿命は14.6歳、15歳まで生きたヒトでも男性16.1年、女性16.3年だそうな。

 

暗黒品種改良

京都大学で60年もの間、まったくの暗闇で育てられているハエが居るそうな。

暗闇に適応できないと死ぬ、適応できれば有利に繁殖できるとという過酷な環境下で約1400世代を重ねた結果、通常のハエと比べると約5%の遺伝変異があるという。もともとヒトの肌の色が違うのはメラニン色素の量の問題だ。人間は紫外線を浴びることでビタミンDを合成するが極地と赤道付近で日照量が異なるために外部環境に適応が必要だった。まあわずか数千世代前の話。

 

農業をはじめたであろう最古のギョベクリ・テペで約1万年前。縄文後期で紀元前4500年ごろ。縄文人と現世人類はせいぜい300世代ぐらいしかなく、ぶっちゃけ変化がおきたとは考えにくい。どうにも日本人は海藻を消化できる遺伝子を手に入れているぐらいの変異ぐらいかねぇ。

 

知性と遺伝を並べたのは、同じイエイヌ亜種のなかで同じ犬種でもバカ犬と、賢い犬がいる。同じ親から同時期に生まれた子達でも性格が異なる。躾の効き方も違う。愛玩動物だけでなく、サラブレッドや家畜などでも血統証明書管理され、人為的な選択、選び出しによる、掛け合わせ、品種改良がおこなわれる。

 

遺伝的資質がほぼ同じだからこそ些細な違いを比較できるのだ。

 

交配によって最頻値に収斂していくのが自然の摂理なら、その摂理になんとか抗おうとするのが品種改良だ。より賢い犬、より乳がでる牛、早く走れる馬、肉付きのいい豚。そうやって些細な差を大きくすることが求められた。

 

どの文明にも見られる本人の意思に関係ない縁談や身分制度などは、人類の品種改良の歴史でもある。文官は頭の良さに、武官は体力に、農民は胆力に、職工は器用さに、商人は財力とかに特化しようとし縁談を組み、あれこれしてきたんじゃないかな。まぁここらへんもまだまだ配慮を要する分野か。ちょっと暴論すぎたね。

 

現代社会は自由競争の名の下、賢く利他するものよりも敏く強欲なほうが機会を得る。

 

評価基準も記憶力や定型条件下での問答の応答速度であったりする。まあ、そのようなことが得意なヒトもいよう。だが、それは局所最適にすぎない。全員をそのモノサシに乗せ過ぎれば人類の家畜化だ。遺伝的同質化が極端に進むと、過剰最適しているようなもんで環境変化とかの外部要因で簡単に大量絶滅に陥る。とても危険なことだ。

高いIQを求めるのは、成長が早熟であることを求めるのと同義であるが、そればかりを求めて、いったいぜんたいどのような次世代を作りたいのだろうか。十把一絡げにそれぞれの長短を潰してまで遺伝的収斂を急ぐ必要はまったくないとおもう。遊びのぶぶんたいせつ。

 

選択による品種改良のほか、もっと直接的に遺伝子組み換えもできるように我々は手段を手に入れた。社会的モノサシ、評価基準が最終的に経済に帰結してしまうような軸1つ2つしかもたないのは、いささか危険すぎる。

 

まあ、なんども歴史は繰り返しているので、そうやってちょっと遠回りするのも人類。もしかしたら行き過ぎたらアルジャーノンがなんとかしてくれるかもしれないし、黒い頭のネズミが全部喰らいつくしちゃうかもしれない。
ま、なんとかなるさ(楽観)

 

参考

「IQの低さと偏見・人種差別主義の傾向に関連」カナダの研究チーム
news.livedoor.com/article/detail/6237319/

 

Bright minds and dark attitudes: lower cognitive ability predicts greater prejudice through right-wing ideology and low intergroup contact.
www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22222219

 

レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
肌の色について「個人差」と「人種による違い」の2点がどのようなメカニズムで起こってくるのか、についての資料を探しています。
crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000142944

 

トバ・カタストロフ理論
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%90%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95%E7%90%86%E8%AB%96

 

Y染色体ハプログループ
ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
暗黒バエ
ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%97%E9%BB%92%E3%83%90%E3%82%A8

 

縄文人の平均寿命、男女ともわずか14.6歳だった
karapaia.com/archives/51581310.html
レファレンス事例詳細(Detail of reference example) 江戸時代の男女の平均身長はどれくらいか。
crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000013899