電気自動車と大局観


イギリスとフランスの政府は2040年までにガソリン車の新車の販売禁止を打ち出した。中国政府も同じような措置を検討しているそうだが、世耕経済産業大臣は「いきなり電気自動車にいけるわけでもない」として、大局については先送りする方針をとった。なんというか、兵の練度は高く戦術はあるが戦略がないと敵対国から評されたかつての日本の軍部のようである。

 

経産相「いきなり電気自動車にいけるわけでもない」
www3.nhk.or.jp/news/html/20170915/k10011140721000.html

 

「いきなりスマートフォンにいけるわけでもない」と同じような経営判断が国レベルでなされている危機感。燃料自動車の部品点数は全部で10万点ほどある。これらを部品を大手メーカーに納入している零細業者も多い。

対して電気自動車の部品点数はわずか100点ほどしかないという(*1)。部品メーカー従属産業はその仕事を失うだろう。もし、電気自動車に世界がシフトするのであれば、そのトレンドを無視するのはとても危険なことである。既存の自動車メーカーはシャーシ屋さんになりさがる可能性がある。

すべての工業製品、ソフトウエア製品の部品は汎用モジュール化する方向にトレンドがあるのは明らかだが、それを無視して先送りするのはあぶねぇ話しだ。戦術どころか戦略も、ひょっとするとどうしたいのかというビジョンも怪しいんじゃねぇか。

 

自動車の歴史

  • 1769年 自動車 誕生
  • 1777年 電気自動車 誕生
  • 1886年 ガソリン自動車誕生
  • 1900年 ガソリン自動車の量産化(この頃は蒸気自動車が主流)
  • 1908年 T型フォード(自動車大衆化)

燃料自動車よりも電気自動車のほうが歴史があるんだね。

日本でみてみると人力車は都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃から減少に転じたそうだ。紀元前からあった馬車を輸送市場から駆逐するのにガソリン自動車の登場から50年も必要としなかった。馬の寿命や、車夫の労働寿命を考えれば、衰退産業への新規流入が三世代続くこともないだろう。産業の置き換えに数十年も必要としなかったはずだ。

 

なぜ電気自動車か

ガソリンエンジンのエグゾーストノートが好きだという人は残るだろうし、現に石油発動機の愛好会のようなものもまだあるので、愛用する人は残り続けるだろう。

でも、これからが電気自動車なのは、自動運転などの電子制御が重要となり、それに必要なのがサーボーモーター(モーターの状態を検出でき制御できるモーター)だからだ。

駆動装置の総電気化には、バッテリーの蓄電技術だけでなく、ソフトウエア技術のブレイクスルーが必要なのだが、どちらも既に製品化される程度には練れてきている。そして、その技術は踏みあがりはパネェ勢いだ。

自動車より安全基準の厳格な飛行機で、アクチュエータが油圧式から電気式に切り替わりつつあるのは、なにも軽量化だけのためではない。燃料エンジンを電子制御しようとすると燃料注入量をコントロールするのは、アクセルを上手に踏めるロボットをつくるようなもので、昨今のソフトウエア技術を活かしきれないのである。燃焼度がどうなっているのかセンシングして、それを制御するなどせねばならず、複雑すぎるのだ。キープイットシンプル!

 

電気自動車の普及と予想

いま、日本の自動車台数、ハイブリット車台数、電気自動車台数をグラフにするとこんな感じ(*2)。電気自動車なんて雑魚もいいところ。

このうちEVだけ抜き出して、表示してみる。点線は近似式。

で、現在のEV車の販売台数推移の近似式を2040年まで伸展させてみる。

まあ、いまのペースなら2040年には110万台程度。結構のびる感じはするけれども、それでも市場の15%程度にしかならない。だが、近似式、現在の「y = 1113.4×2 – 4972.3x + 4204.5」これはあくまで電気自動車のラインナップがあまり揃っていない状態。なんのブレイクスルーも今後ないとした場合の伸展上だ。

 

だが、メーカーはそのような経営計画はしていない。

 

ルノー・日産、22年に完全自動運転/販売の3割 電動車に
www.nikkei.com/article/DGKKASDZ15I31_V10C17A9MM8000/

 

ルノー・日産、22年世界販売1400万台に 16年比4割増
www.nikkei.com/article/DGXLASDZ15HMM_V10C17A9000000/

 

ここから逆算すると、420万台。

日本の日産、三菱の3割というと、市場シェア14%の3割だから市場の4%ぐらい。24万台。

2022年に24台なら2040年に140万台ぐらいで、420万台ぐらいが流し込まれるなら2040年には3,000万台。
この数字だけ追えば「いきなり電気自動車にいけるわけでもない」という、言説にはある程度説得力がある。

 

いずれにしろ、まだ自動運転も日本では試験走行しかなされておらず、電気自動車向けのインフラ整備もなされていないので、あと5年ぐらいでどの程度社会環境に変革があり、その時の販売台数がどうなっているのかで、将来どうなるのか予測できるだろう。

いずれにしろ、電気自動車化による部品点数の変化は日本のものづくり偏重政策に重大な外部環境変化であり、テスラモーターズの登場からだけみても、いきなり市場環境が激変するかもしれないから大局的にはどうすべぇぐらいの先見性は欲しい。燃料バイクと電動バイクのほうがシェアのリプレイスとしては先行していそうなので、時間があったら調べたいな。

 

トヨタはテスラに手を出そうとして袖にされて、東芝とかNECがある駅に求人投下しているみたいだけど、ちと日本の自動車産業は足が遅いかもしれないね。というか日本の電機メーカーはソフトウエアに対して感度がにぶすぎるので、もうどうしょうもないのかもしれないけど。

政治のほうも、いくら政治が技術に遅行するといっても、ちょっと、心配になるレベル。

自動運転とかソフトウエア制御による環境判断の未来がこないわけはないので、いからインフラはそれに沿わしてつくっておかないと、古臭い耐久消費財に金を払い続けることになるぞ。ネットや電気をつかえないビルをいまから設計するようなもんだよね。

 

ロジスティクスの変化

かつては、人の足の移動距離に応じて宿場が整備され、それから電車による流通が整備され、そして現代はトラック流通網になっている。道路網はそれに添って整備されてきた。トラックが自動追従型の自動運転になったら?生活道路に、アシスト付き車椅子とか、小型モビリティが混在しだしたら?
生活道路のうち、この道は、電動モビリティ優先とかそういう、街設計は必要だよね。

いきなりはこないけど、くる気配はもう数十年ゆっくり前進してんだから、ゆっくりでいいから準備しようぜ。鉄腕ダッシュでソーラーカーが日本一周したのいつだよ。ドローンが宅配してくれる宅配網とか整備計画ぐらいはしてほしいなぁ。

 

参考

(*1)
電気自動車により変化する産業構造
allabout.co.jp/gm/gc/423948/

 

自動車誕生から今日までの自動車史(前編)
gazoo.com/article/car_history/130530_1.html

 

(*2)
日本における電気自動車のシェア!

日本における電気自動車のシェア!

 


現代祭事の合理性(その3)


お祭りには防災訓練、準備としての機能。神社仏閣には地域住民が避難でき、城としても使えるような立地の合理性があることをみてきた。その3では、技術の伝播、継承の場としての神社仏閣を考えたい。

 

日本を代表する出雲大社と伊勢神宮、諏訪大社間では掘立柱建物と、礎石・土台建物、高床建築や平屋建物などの建築様式の戦い、さらには稲作などの主食物の伝播の戦いであったとも考えることができるのだが主題からそれるので今回はおいておく。

今回は、神社が技術の伝播や継承に重要な役割があったのではないかという示唆だ。

式年遷宮のような露骨な伝承のことをいっているのではなく、注連縄や、鳥居のような些細な様式についてである。

 

 

建築構造物としての鳥居

なぜ鳥居が建てられるのかという問いに宗教的には結界で神威を封じる結界だとか、神様の領域の境界だという答えがあるかもしれない。だけども、それらの答えは現代科学のもとに生きているおっさんには、熟練技術者が新米に細かい説明がめんどくせぇし、言ってもわかんねぇだろうから「おまじないだから覚えとけ」って言い含められたのと似たようなものだとうがった見方をしてしまう。

 

現代につたわる鳥居には何パターンかあるが、あれはいったいなんなだろう?
共通要素はなんだ?
鳥居の最低限の共通要素は、「自立している2本の柱と、それを繋ぐ2本の梁があること」だと考える。
では、なぜそんなものを建てよう、建てたほうがよいと考えたのだろうか?

 

鳥居の種類、分類はいろいろまとめられてはいるが(※文末に引用あり)、なぜそのように種類が増えたのか、なぜそのような構造物が建てられるようになったのか「そもそも」の合理性を説き教えてくれるものはない。
なぜ鳥居を立てようと思い、それが様式として継承されてきたのか?

そういう宗教だからという答えは思考の放棄だ。

鳥居のようなものを建てたほうがよいと考えた故人が居て、それが継承されてきたからには、そこになんらかの合理性があったに違いない。日本人には見慣れてている鳥居だが、そもそもあれはなんだと考えたことあるだろうか??
調べても鳥居についてはあまり資料がないのが残念。
しかたないので仮説を立てる。

あれは、歴史の一点に登場した、稀代のウイザード級ハッカー(連中)がつくりだしたテクノロジーをロストさせないための「おまじない」ではないか。

 

なぜそのように考えたかというと、あんなシンプルな鳥居に、木造家屋をつくるのに必要な技術要素がてんこ盛に盛りのフラッグシップモデルになっているからだ。

 

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これは近所の八幡にある木造の鳥居だ。
メインの大鳥居は石造りなので木造の小さいほうを撮影した。
ちょっと装飾がゴテゴテしているが、まずはこの写真をじっくりみて、いったいこれはなんなのか考えてほしい。
木造6本足基礎石オス型屋根付き鳥居型。
土台、基礎石の上に柱が立てられていて、それに横木の梁を通していて、上はのっかる形で留めてある。おそらくホゾが掘ってあって組み上げてあるのだろう。
横梁が抜けないように楔(くさび)もみえる。金の円盤っぽいものは釘隠しだろうか?
木が腐らないように、切口が金属でカバーされていて、この鳥居に限っては屋根までもついていて、わーぉって感じ。雨仕舞用の水切りや、垂木(たるき)の鼻隠しっぽいものまでついててやり過ぎかっ!って感じもする。
でもね、こんな簡単な構造物に昭和ぐらいまでの木造建築物の主要要素の大部分を含んでいるんだよね。
鳥居は釘や留め金をつかわずに組み上げられ、柱だけで自立している。

つまり木造の鳥居を建てられるならそれを真似すれば普通の家の構造体も建てられることを意味する。
作りを真似るだけでよいものが、誰からも見える場所にあるところがミソ。
鳥居はそれだけで先輩職人の技を見て盗む、学ぶことができる見本現物だ。

 

文字も動画もなく、学校も徒弟制度もなかった時代。
技術を持っている職人が弟子を残さずその地域から移動したり、不慮の死などでいなくなるたびに、技術が当代のみでロストしてしまう。しかし、鳥居のような、このようにやればよいという見本、現物が残れば、それを見本教師とすることができる。

 

鳥居は風雨にさらされ痛みも激しく、家よりも頻繁に修理補修がなされる。はずだ。と思う。
傷んだ鳥居を立て直すたびに、構造が分解、リバース・エンジニアリングされて修繕した人物らに技術が伝播していく。余計な装飾がないので、構造を学ぶのに適した見本だ。
その構造は習熟訓練の教材としてもとてもよくできている。

 

鳥居を自立させるために、穴を掘ってそこに立てる掘っ建て建築様式や、添え足をつけて、基礎石建築どちらの方式をとるにしても、技術練度が低ければ鳥居を自立させることができないし、横棒(梁)を渡すことができない。
低い技術力ではすぐに倒れてしまうし、横棒も上にのせたりでっぱりに引っ掛けたりするだけではすぐ落ちてしまう。

日本は台風も地震もある地域だから石組みよりも倒れない木組み技術が必要とされた。
もし、見よう見まねで自立する構造物を建てられたとしても、技術力が低ければ小さな鳥居しか立てることができない。その本質がわかっていなければ割り箸ですら鳥居を構造物として再現することはできないだろう。

鳥居というシンプルなものを建ててみせるだけで、製造物の耐久テストをおこなうことで技術練度の公表もできる。

 

ちなみにこちらは正面の石造りの大鳥居。

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このサイズの石造りの鳥居を安全に自立させておくことができるのであれければ、杭打ビルも建てられるよね。

 

伊勢神宮でおこなわれる式年遷宮は技術をロストさせないための工夫らしい。
しかし、あれは大掛かりなピンきりでいったらピン側、トップノッチ連中のための技術の伝承だ。
民草、民衆の家屋を立てるのに最低限必要な木造建築の技術はどのようにおこなわれたか?
字が読めない人にでもわかるように、誰からも見えるようにするための教材としての鳥居だ。

もしかして鳥居はそれとは知られずに文字にも指導者にも頼らず技術者の伝承につかえるすげぇ教材システムとして機能してきたのではないか。

だとすれば、考えたやつすげぇと思うのである。
まっ、買いかぶりかもしれないんだけどね!

 

メス型鳥居

上で紹介した八幡の鳥居は下側の梁が飛び出ているのでオス型と呼んでいる。
でていないものはメス型と呼んでいる。個人的な命名。
子ども頃に不思議におもっておとーちゃんに聞いたことによると主神が男なら下の梁がでているオス型、女神だとメス型だと言っていたが真偽はわからない。
天照大神とか、弁財天とかはメス型なので、たぶんそれであっているような気もするけど、微妙に違う気もする。

こちらは今話題の築地市場場内の鳥居。

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石造り2本足自立掘っ建てメス型丸鳥居型。

水があるところの神様は女の神様が多いので、たぶん女神のような気もするけど、どうでしょうね。
魚河岸水神社かな。祭神は弥都波能売神(みづはのめのかみ)なので女神っすね。
最近の建築物は石造りなので、鳥居も石造りのものが多い。
コンクリートや、石材の加工技術がないと作れないが、2本足がたも恐らく昔はほとんどが木造であったものと考えられる。

 

2本足なので、穴を掘って埋めてまわりを固めることで自立をさせている。
電信柱のような建て方だね。

 

竪穴式住居の時代からつかわれてきた建築方法だ。
!!いまの、いままで縦穴式って書くんだとおもってたよ!!
縄文時代程度の建築技術でも自立した構造物をつくれる。

 
メス型の鳥居は下側の梁がとび出ていない。
釘やカスガイをつかわずにこの梁を留めるためには、ホゾ組の加工技術が必要になる。
上の梁も落ちないようにするためには同じ技術が必要だ。
梁を2本渡すことで、斜め方向の揺れで倒れることがなくなる。
もし、鳥居の梁が1本だったら構造体としてすごく弱いし、凸凹の受け側が逆になっても構造として安定しない。

シンプルな構造にして洗練されている。

 

豊洲に建造される神社の鳥居にはぜひ子々孫々のためメンテナンスのための地下ピットを盛り込んでほしい。

 

 

白木鳥居

こちらは福島県の大内宿にある高倉神社。藁葺きの建物群からもわかるとおり、タイムスリップしたような村。

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より原初の鳥居の構造を現代に伝えているように感じる珍しい白木タイプの鳥居だ。

木造2本足自立掘っ建てメス型白木丸鳥居型。
とても特徴的な鳥居で、どちらも左が根っこ部分の太さを残したままのせている。

内側から見れば左頭とかなのかな??

ホゾ組もより原始的で、太い柱に細い丸太の頭をそのままつっこんで組み上げているように見える。

 
余談だが、こちらの神社、内殿にあがっていくと鳥居が足6本のオス型になる。

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オス型、メス型の混在は珍しいなと思った。

 

朱塗り、黒塗り

同じく福島よりさざえ堂があるところの中腹の神社。厳島神社。

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一番最初に登場した鳥居と同型の6本足同型だが、こちらは朱塗り。

木造建築物は朱塗りなど塗装をほどこすことで、より腐食に強くなる。広島宮島の厳島神社の鳥居は、満潮になると海のなかに建つが、もしあれが白木だとあっというまに腐食してしまうだろう。

漆や柿渋や表面を炭化させたり木酢液をつけたりするだけで、腐食には強くなるので、そういう工夫、技術の集大成だろう。水場に近いところで、無垢の鳥居をたてておくことでアジャイルテストが繰り返された結果習得された技術かもしれない。

ここの祭神は市杵島姫命は弁才天と習合されていてどちらも女神だけど、こちらもオス型。やっぱオス型、メス型は主神の性別じゃないのかな??

 

朱塗りに対抗して、こちらは珍しい黒鳥居(黒門)
井の頭公園のはじっこにあるやつ。

写真が手元にないので、三鷹の観光案内所のホームページから


www.mitakanavi.com/spot/park/inokashira_benzaiten.html

枕木なんかと同じ木酢液による黒かな?それとも炭??

井の頭公園は弁財天なので女神だけど、オス型。やっぱり祭神の性別関係ないかも・・・。

 

鳥居の数が封じている社格だとか神威の強さを表しているとか聞いたんだけどほんとかね?
本殿にいくまでに鳥居の数が多いほうが強い神様だとかなんだとか。
伏見稲荷とかどんだけ強いんだよっていう。

 

ま、ちょっと主題とずれちゃったけども、今回いいたかったことは、鳥居は大工(見習い)に構造体技術を伝承するための合理性をもった見本だったんじゃないかなという仮説でした。
同様に注連縄とかも、藁で縄を編むものの技術見本。

できるだけ太くされていて撚りの構造がわかりやすいようになっている。

縄が伝承できるようになると、エリアログとなるご神木を切らせないための目印にできたり、一石数鳥だよね。
場所によっては、編み上げた縄でさらにそこから編んだワラジとかが奉納されていたりするでしょ?

そもそも御神体の鏡や剣なんかが、産業革命がおきるまでは最先端テクノロジーの塊。

 

そんなわけで、神社仏閣っていうのはそのご当地の技術展示会を常設しているコンベンション・センターだったのではないかなというのが、今回の仮説でした。仮説だけぶんなげて証明なしで終了。

どうかな?どうだろう??

 

参考

鳥居の構造



blog.livedoor.jp/takamimusuhinokami/archives/421685.html
魚河岸水神社遥拝所の概要
www.tesshow.jp/chuo/shrine_tsukiji_uogashi.html

 

福島県:歴史・観光・見所(ホーム)>飯盛山>厳島神社
www.fukutabi.net/fuku/iimoriyama/itukusima.html

 

井の頭弁財天(大盛寺・黒門)
www.mitakanavi.com/spot/park/inokashira_benzaiten.html


iコンピテンシ・ディクショナリと無意識的無能


情報処理試験やらでお馴染みのIPAさん「いまオシ」のiコンピテンシ・ディクショナリ(以下、iDC)のセミナー聞いてきました。オレが聞いてどうするという感じなのだけれど、聞いたというか、主催側なので・・・。

 

規模的に60人以上技術者を抱えている受託や派遣型のソフトハウスぐらいからは効果を発揮するんじゃないかなと感じました。業務上ISOとかPマークとかを取得しないといけないような会社にはいいとおもう。iDCはITスキル標準(ITSS)みたいな何かです。2014/7に試用版を公開して、2015/6に2015版を公開、ちょうど今頃に前年の取り組みや実績があがってきた感じです。

 

プレス発表 企業の目的に応じた人材育成に利用できる「i コンピテンシ ディクショナリ2015」を公開
www.ipa.go.jp/about/press/20150630.html

ここらへんは情報システムユーザースキル標準(UISS)、組込み技術者スキル標準(ETSS)などわちゃわちゃしているんですが、ここらへんがまとまってきた感じなんでしょうか?流行りもの感はぬぐえませんが、それだけ要望が強い分野でもあります。
iDCは主にタスクディクショナリとスキルディクショナリから構成されていて、業務遂行にあたりスキルセットを確認するためのチェックツール(というよりリスト)になっています。なんかIT系のヘッドハンターとかがヒアリングしながら値踏みしていくときのチェックしていくシートっぽいよね。

 

これをつかって抱える人材の弱点や強みの確認や、人材育成や教育にやくだてていきましょう。ということです。
印象としてはPMBOK(ピンボック/プロジェクトマネジメント標準知識体系ガイド)ぽいなーと。設計のときに相互互換は考慮したというようなことは言っていました。

 
ただ、なんかこういう評価項目がupWorks(oDesk/海外のクラウドソーシングのサービス)とかにあったら、外国の人、特にインド人とかは全部に◎をつけてゴリゴリっとアピール返してくるよね、と。そういうときどうしたらいいんだろうね?

学習には段階があって、よくいわれているのは、

1.無意識的無能:できないことがわかってない状態
2.意識的無能:できないことがわかっている状態
3.意識的有能:意識すればできる状態
4.無意識的有能:意識するまでもなくできる状態

とかになっているって言うじゃないですか。(たしか本当は5段階)
こういう自己申告によるチェックリストの場合、

「できないことすらわかっていない人物」と「できることを意識する必要もない人物」が、同じ自己評価になる可能性があるんですよね。

例えば、
Q「(戦略) 市場機会の評価と選定 > ビジネス環境分析手法 > ニーズ&ウォンツの把握」

無意識的無能くん「◎だろ、余裕ダシ!フンイキでびしばし伝わっし!いつもやってっし!!」
無意識的有能さん「☓かな。難しいんだよね。こないだも顧客の要望汲み取りきれなかったし…」
なんて具合いに、予想される成果から判断すると評価が逆転する可能性すらある。
そもそもできる子のほうが状況把握が正確なので評価が厳し目になる。
「できる子」は条件が出揃わない状況で安易にできるとか言えないもんですし。

 

それに、「できる」と言っても、アウトプットが金になるレベルとゴミにしかならないレベルは実際には混在する。そんで、業界や所属会社によってはゴミでも金にできたりするのが、またなんとも・・・難しいところ。
プログラミングも成果物と実績でしか評価できないという点では、小説家や作曲家とたいしてかわらないのだけれども、「漢字が書ける」「バイエルンが弾ける」を持ってして、同じスキルやタスクを処理できるものとしてあつかっていいものか?
正確にその部分だけを反復して市場で競争するわけではないから、外形評価も自己評価もとても難しい。
それに同じ作者だって名作と駄作は混在する。
定量的な何かがないと、スキルセットとしてはインディケーター(ものさし)の問題がつきまとう。
人間も負荷をかけてベンチマークをとることぐらいはできるけれども、やはり表層的にならざるを得ない。

「握力20Kgなのに大車輪ができるのはおかしい」とか、コンピテンシーディクショナリがビッグデータになるほどデータを貯めてスキルやタスクの相関が見えるようになっていけば、無意識的無能と無意識的有能の区別がつくようになるかな?

 

でもコワーキングとかコライティングとかの協創の未来を予想すると、寄与度がどうこうだとか、いばらの道になるかもしれないし、どうなんだろーねー。

人から評価されたり評価したりする世界から遠のいちゃってるので、鈍って答えが出ません。

 

どうおもいます?