AI vs. 空気をよまない大人たち(1)


曰く、シンギュラリティはおきないそうである。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち 著:新井 紀子国立情報学研究所教授の本を読んだ。奥付を読むと、2018/2/15発行で2018/3/27でなんと既に6刷りである。


私はこの本の印税は1円も受け取らないことを決めました。// 「教育のための科学研究所」に全額が寄付されます P.286

あとがきにこう書いてあってすごいなと思ったんだけど、印税を寄付扱いだと、税がエライコッチャになるんじゃないのとか、一般社団法人の代表理事だから職務著作になるのか?じゃあ寄付がわりの贈与とかできちゃうなとか、いらんことが気になった。

 

はてさて、本論にもどる。

AIは意味を解さないからシンギュラリティはおきないそうだ。だが、自分はこの本を読んでもそれでもシンギュラリティっておきるんじゃないという結論になってしまった。きっと、なにかを読めていないのだろう。

 

シンギュラリティアレルギー

マーケティング用語としてのAIやシンギュラリティに辟易して、アレルギーをおこす気持ちはわかる。最近ほんとひどい。AIの専門家として矢面に立たされ続ければ、シンギュラリティなどおきないと強弁したくもなるだろう。

 

「真の意味でのAI」の定義を自分自身よりも少しでも能力の高い「真の意味でのAI」をつくりだせることとし、その、厳密な意味での「技術的特異点」はこないと断言できるほどに、予断を持った未来しか見れなくなっているのは荒みすぎていると感じる。可哀想だ。数学では表せないからできないからという。では、世界は数学でできているという言葉はなんだったのか。

 

数学で定義できず、統計的手法しか「ものさし」がないので意味を理解できない。だから計算機が知性を獲得することはありえない。その上で、計算機でしかない機械が「真の意味でのAI」なることはない。まぁ、わかる。

だが、それでも、ある人工の知性体が自己より「能力の高い」複製体を作る未来は、そう遠くもないよね。
理由は後述する。

 

知性と計算機

AIは計算機ですから、数式、つまり数学の言葉に置き換えることのできないことは計算できません。では、私たちの知能の営みは、すべて理論と確率、統計に置き換えることができるのでしょうか。残念ですが、そうはならないでしょう。 P.118

はたして、AIが未来においても計算機上にあるという仮説は正しいのだろうか?

 

人間には知性があると仮定する。

現在までのところ人間が人間を工業的に生産することはできない。

しかし、倫理にさえ目をつむれば技術的、論理的には人工子宮や、3Dプリンターなどをつかって細胞の積層化技術など三次元組織体構築ができるようになったことなどをみてもわかるように、ある程度のところはできるようになってきていて、人間や、人間の脳機能のみを将来部品として再現することはそう遠くない未来にくるだろうことが予想される。

小脳をPEZYのスパコンで再現できたよみたいなシミュレートの話ではなく、生化学のほうね。ちょい前のSFよりも奇妙な段階に到達していて、ネズミの脳みそのなかに霊長類のタンパク質を再現したり、豚の中で人間の臓器をつくることもできるようになっているのを踏まえると、創作の世界だって、遠慮しちゃうような奇妙な現実に我々は生きている。

工業的に生産された人造人間は計算機なのであろうか?

これはおそらく否である。

人造人間は自分よりも賢い人造人間をつくることはできないだろうか?

これもおそらく否である。

では、人造人間には知性は宿り得ないと言えるのだろうか?

人間に知性があるとするのであれば、これも否定しきることも難しいんじゃないかな。

 

AIはノイマン型コンピューターで可動するものである前提は果たして必要なのだろうか?

量子コンピュータが登場し演算能力があがったところで知性の獲得にはなんの役立にもたたないと著者は考えるようである。しかし、有機化学合成や、無機、流体や粉体、遺伝子解析や、創薬なんかは、まさに組み合わせ爆発の世界で戦っていて、いままでえっちらと失敗を重ねることで、現時点でもっとも成功にちかいようなものをとりあえずの正解としてお金を時間と運に突っ込んできた世界である。演算能力の向上は、その繰り返しの速度を圧倒的にあげてくれることだろう。

 

のこぎりの性能向上について未来予測をしたところで、家が建つ予想にはなろうはずもない。のこぎりはあくまで、家を建てるための道具である。計算機も同様にただの道具にすぎない。

 

計算機は「真の意味でのAI」にはならないだろうが、AIをつくるのには十二分に役に立つ。

「真の意味でのAI」という目的達成のために「計算機」という道具に縛られすぎてはいないだろうか。無論、上記にあげたような人造人間もあくまで反例のひとつで、そのようなアプローチではないかもしれない。技術は複合かつ有機的に発展していくもので、ひとつの道具をとらまえてその道具の性能から未来に予断をもってしまうのは、ちと科学者としては寂しい。白いカラスは一匹いれば十分だ。

 

だって、人間は仕組みを完全に理解するより前に飛行機を飛ばしてしまう生き物なんでしょ。

 

 

2007年のアニメ、天元突破グレンラガンのメインシステムは敵大将の生首を生体部品として採用していて笑った。これを見ながらこのエントリーを書いたからこんな話しになった可能性は否定しきれない。10倍返しだ!

 

創作に意味の理解は必要か

直木賞を受賞するような小説を書いたり
新境地を開く楽曲を作曲したり
ピカソばりの傑作を描いたりする
意味を理解できないAIにそのようなことができるはずがない P.130

昨今の人工ダイヤモンドはいよいよもって鑑定士でも天然と人工物の区別がつかなくなってきたそうだ。

もし、何かに特化した「弱いAI」が、確率的に創作したものであっても、アウトプットを受け取る側の人間がその区別をつけられなくなったら、ではいったい本物と偽物の違いとはなんであろうか。出処や来歴?

訓練された人でも区別ができない精巧な偽物と本物の本質的違いとはなんであろうか。

マルセル・デュシャンの「泉」っちゅう便器をおいただけの前衛アートを見て、「○○は意味を理解できない」との作文に、○○にはいるのは、AIだろうかヒトだろうか、作者だろうか観客だろうか。正解は一意に決まるのだろうか。

もしかしたら、創作はオリジナルと、そのイミテーションのイテレーションなのかもしれないが、そんなことはオリジナルがつくれる側の人間がAIを書けるのだから、強いAIである必要すらないのではないか。

ここは弱いAIでもやがて到達できる領域なのではなかろうか。

うん。この項はまだ表現が難しい。まとめきれない。

 

AIは徹頭徹尾数学だけ?

「花子は太郎に好かれている」// その通りの意味を教える道具は少なくとも数学にはありません。// コンピューター上で動くソフトウエアに過ぎないAIは徹頭徹尾数学だけでできているのです P.138

計算機は意味を理解できないというが、ソフトウエアを記述するプログラムは意味を定義したり、動作を記述するための言語で、数学にはない時間変化に応答する方法も持ちあわせている。

 

一般的にBOTなAIをつくろうとしたら、

  • 外部環境などをスキャンする(センシング)
  • 取得できた情報に重み付けする(アルゴリズム)
  • 行動する(アクション、これがアクチュエータ/動作機構になればロボットになる)

簡単に言うと、これの繰り返しである。時間応答のなかで、外部環境の変化に応じて、振る舞いをアルゴリズムに従って変える。

この場合であれば「太郎」「花子」のオブジェクトを定義してあげて、太郎オブジェクトの花子への評価値に「好き」っていう状態を書き加えてあげればよい。

太郎.likes{花子}みたいに配列にぶっこんでいく書き方でもいいし、表現方法は山ほどある。

プログラム作成者ごとに、定義が違ったり、好きクラスを実装するのかとか、そのクラスが何を意味するのか、その後の動作もことなるので文面どおりの「その通りの意味」にはならないかもしれない。

でも、コンパイル(翻訳)も実行も必要ないなら、テキストをそのまま生で保持すればいいだけじゃ??ちゅうか・・・文面通りの意味ってなんだろう?

 

 

すこし横道にそれる。

かねてから思っているのだが、法律などは自然言語ではなく、なぜ論理型言語で書かないのだろうか。

霞が関言語、官僚言葉は比較的そのようになっているらしいが、コーディング規約のない、コード(法律)なんてクソコードだとおもう。不文律に従って成文化するなんてファンキーすぎやしないか。

コードがしっかりしていれば、裁判官や学者ごとのコンパイラによって解釈がわかれたりすることもないだろう。法律の継承関係や、定義がはっきりするから、附則ばかりの法律運用やめてリファクタリングもできる。

循環参照や日本の悪名高いダブルバインドされてて何もできないとかも、テストが書けて、顕在化できるしいいことづくめじゃないか。

法律が論理記述されれていれば、交通事故などぐらいであれば状況データや写真などを数枚食わせるだけでAIが裁判官をすることもできるようになるだろう。 そうなったときに、AIができないでことは、情状酌量の余地があるのかとか昨今はやりの感情を斟酌したり、忖度である。

 

制度なんてものは、数学のようにデジタルに定義できるようにつくっておいて、伸長が必要な情緒の部分は人間がやればいいのにと思う。

「AIってのは駄目だね、粋や酔狂もわからねぇ唐変木だ。」

ここからでいいんじゃないか。20年も経てば「あいつもだんだんわかってきたじゃねぇか」ってなるんじゃないの。だって、準備された教師データ群の比ではない量のデータが世界にはあって、フィールドにこそ神は宿るんだから。

 

 

他、リンクとか

・・・。長くなってるので、そろそろエントリーをわけようかな。

 

他、リンク。

一般社団法人 教育のための科学研究所
www.s4e.jp/

 

遺伝子操作によりマウスの脳を霊長類のように変異させることに成功
sign.jp/be8760e0


電気自動車と大局観


イギリスとフランスの政府は2040年までにガソリン車の新車の販売禁止を打ち出した。中国政府も同じような措置を検討しているそうだが、世耕経済産業大臣は「いきなり電気自動車にいけるわけでもない」として、大局については先送りする方針をとった。なんというか、兵の練度は高く戦術はあるが戦略がないと敵対国から評されたかつての日本の軍部のようである。

 

経産相「いきなり電気自動車にいけるわけでもない」
www3.nhk.or.jp/news/html/20170915/k10011140721000.html

 

「いきなりスマートフォンにいけるわけでもない」と同じような経営判断が国レベルでなされている危機感。燃料自動車の部品点数は全部で10万点ほどある。これらを部品を大手メーカーに納入している零細業者も多い。

対して電気自動車の部品点数はわずか100点ほどしかないという(*1)。部品メーカー従属産業はその仕事を失うだろう。もし、電気自動車に世界がシフトするのであれば、そのトレンドを無視するのはとても危険なことである。既存の自動車メーカーはシャーシ屋さんになりさがる可能性がある。

すべての工業製品、ソフトウエア製品の部品は汎用モジュール化する方向にトレンドがあるのは明らかだが、それを無視して先送りするのはあぶねぇ話しだ。戦術どころか戦略も、ひょっとするとどうしたいのかというビジョンも怪しいんじゃねぇか。

 

自動車の歴史

  • 1769年 自動車 誕生
  • 1777年 電気自動車 誕生
  • 1886年 ガソリン自動車誕生
  • 1900年 ガソリン自動車の量産化(この頃は蒸気自動車が主流)
  • 1908年 T型フォード(自動車大衆化)

燃料自動車よりも電気自動車のほうが歴史があるんだね。

日本でみてみると人力車は都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃から減少に転じたそうだ。紀元前からあった馬車を輸送市場から駆逐するのにガソリン自動車の登場から50年も必要としなかった。馬の寿命や、車夫の労働寿命を考えれば、衰退産業への新規流入が三世代続くこともないだろう。産業の置き換えに数十年も必要としなかったはずだ。

 

なぜ電気自動車か

ガソリンエンジンのエグゾーストノートが好きだという人は残るだろうし、現に石油発動機の愛好会のようなものもまだあるので、愛用する人は残り続けるだろう。

でも、これからが電気自動車なのは、自動運転などの電子制御が重要となり、それに必要なのがサーボーモーター(モーターの状態を検出でき制御できるモーター)だからだ。

駆動装置の総電気化には、バッテリーの蓄電技術だけでなく、ソフトウエア技術のブレイクスルーが必要なのだが、どちらも既に製品化される程度には練れてきている。そして、その技術は踏みあがりはパネェ勢いだ。

自動車より安全基準の厳格な飛行機で、アクチュエータが油圧式から電気式に切り替わりつつあるのは、なにも軽量化だけのためではない。燃料エンジンを電子制御しようとすると燃料注入量をコントロールするのは、アクセルを上手に踏めるロボットをつくるようなもので、昨今のソフトウエア技術を活かしきれないのである。燃焼度がどうなっているのかセンシングして、それを制御するなどせねばならず、複雑すぎるのだ。キープイットシンプル!

 

電気自動車の普及と予想

いま、日本の自動車台数、ハイブリット車台数、電気自動車台数をグラフにするとこんな感じ(*2)。電気自動車なんて雑魚もいいところ。

このうちEVだけ抜き出して、表示してみる。点線は近似式。

で、現在のEV車の販売台数推移の近似式を2040年まで伸展させてみる。

まあ、いまのペースなら2040年には110万台程度。結構のびる感じはするけれども、それでも市場の15%程度にしかならない。だが、近似式、現在の「y = 1113.4×2 – 4972.3x + 4204.5」これはあくまで電気自動車のラインナップがあまり揃っていない状態。なんのブレイクスルーも今後ないとした場合の伸展上だ。

 

だが、メーカーはそのような経営計画はしていない。

 

ルノー・日産、22年に完全自動運転/販売の3割 電動車に
www.nikkei.com/article/DGKKASDZ15I31_V10C17A9MM8000/

 

ルノー・日産、22年世界販売1400万台に 16年比4割増
www.nikkei.com/article/DGXLASDZ15HMM_V10C17A9000000/

 

ここから逆算すると、420万台。

日本の日産、三菱の3割というと、市場シェア14%の3割だから市場の4%ぐらい。24万台。

2022年に24台なら2040年に140万台ぐらいで、420万台ぐらいが流し込まれるなら2040年には3,000万台。
この数字だけ追えば「いきなり電気自動車にいけるわけでもない」という、言説にはある程度説得力がある。

 

いずれにしろ、まだ自動運転も日本では試験走行しかなされておらず、電気自動車向けのインフラ整備もなされていないので、あと5年ぐらいでどの程度社会環境に変革があり、その時の販売台数がどうなっているのかで、将来どうなるのか予測できるだろう。

いずれにしろ、電気自動車化による部品点数の変化は日本のものづくり偏重政策に重大な外部環境変化であり、テスラモーターズの登場からだけみても、いきなり市場環境が激変するかもしれないから大局的にはどうすべぇぐらいの先見性は欲しい。燃料バイクと電動バイクのほうがシェアのリプレイスとしては先行していそうなので、時間があったら調べたいな。

 

トヨタはテスラに手を出そうとして袖にされて、東芝とかNECがある駅に求人投下しているみたいだけど、ちと日本の自動車産業は足が遅いかもしれないね。というか日本の電機メーカーはソフトウエアに対して感度がにぶすぎるので、もうどうしょうもないのかもしれないけど。

政治のほうも、いくら政治が技術に遅行するといっても、ちょっと、心配になるレベル。

自動運転とかソフトウエア制御による環境判断の未来がこないわけはないので、いからインフラはそれに沿わしてつくっておかないと、古臭い耐久消費財に金を払い続けることになるぞ。ネットや電気をつかえないビルをいまから設計するようなもんだよね。

 

ロジスティクスの変化

かつては、人の足の移動距離に応じて宿場が整備され、それから電車による流通が整備され、そして現代はトラック流通網になっている。道路網はそれに添って整備されてきた。トラックが自動追従型の自動運転になったら?生活道路に、アシスト付き車椅子とか、小型モビリティが混在しだしたら?
生活道路のうち、この道は、電動モビリティ優先とかそういう、街設計は必要だよね。

いきなりはこないけど、くる気配はもう数十年ゆっくり前進してんだから、ゆっくりでいいから準備しようぜ。鉄腕ダッシュでソーラーカーが日本一周したのいつだよ。ドローンが宅配してくれる宅配網とか整備計画ぐらいはしてほしいなぁ。

 

参考

(*1)
電気自動車により変化する産業構造
allabout.co.jp/gm/gc/423948/

 

自動車誕生から今日までの自動車史(前編)
gazoo.com/article/car_history/130530_1.html

 

(*2)
日本における電気自動車のシェア!

日本における電気自動車のシェア!

 


現代祭事の合理性(その3)


お祭りには防災訓練、準備としての機能。神社仏閣には地域住民が避難でき、城としても使えるような立地の合理性があることをみてきた。その3では、技術の伝播、継承の場としての神社仏閣を考えたい。

 

日本を代表する出雲大社と伊勢神宮、諏訪大社間では掘立柱建物と、礎石・土台建物、高床建築や平屋建物などの建築様式の戦い、さらには稲作などの主食物の伝播の戦いであったとも考えることができるのだが主題からそれるので今回はおいておく。

今回は、神社が技術の伝播や継承に重要な役割があったのではないかという示唆だ。

式年遷宮のような露骨な伝承のことをいっているのではなく、注連縄や、鳥居のような些細な様式についてである。

 

 

建築構造物としての鳥居

なぜ鳥居が建てられるのかという問いに宗教的には結界で神威を封じる結界だとか、神様の領域の境界だという答えがあるかもしれない。だけども、それらの答えは現代科学のもとに生きているおっさんには、熟練技術者が新米に細かい説明がめんどくせぇし、言ってもわかんねぇだろうから「おまじないだから覚えとけ」って言い含められたのと似たようなものだとうがった見方をしてしまう。

 

現代につたわる鳥居には何パターンかあるが、あれはいったいなんなだろう?
共通要素はなんだ?
鳥居の最低限の共通要素は、「自立している2本の柱と、それを繋ぐ2本の梁があること」だと考える。
では、なぜそんなものを建てよう、建てたほうがよいと考えたのだろうか?

 

鳥居の種類、分類はいろいろまとめられてはいるが(※文末に引用あり)、なぜそのように種類が増えたのか、なぜそのような構造物が建てられるようになったのか「そもそも」の合理性を説き教えてくれるものはない。
なぜ鳥居を立てようと思い、それが様式として継承されてきたのか?

そういう宗教だからという答えは思考の放棄だ。

鳥居のようなものを建てたほうがよいと考えた故人が居て、それが継承されてきたからには、そこになんらかの合理性があったに違いない。日本人には見慣れてている鳥居だが、そもそもあれはなんだと考えたことあるだろうか??
調べても鳥居についてはあまり資料がないのが残念。
しかたないので仮説を立てる。

あれは、歴史の一点に登場した、稀代のウイザード級ハッカー(連中)がつくりだしたテクノロジーをロストさせないための「おまじない」ではないか。

 

なぜそのように考えたかというと、あんなシンプルな鳥居に、木造家屋をつくるのに必要な技術要素がてんこ盛に盛りのフラッグシップモデルになっているからだ。

 

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これは近所の八幡にある木造の鳥居だ。
メインの大鳥居は石造りなので木造の小さいほうを撮影した。
ちょっと装飾がゴテゴテしているが、まずはこの写真をじっくりみて、いったいこれはなんなのか考えてほしい。
木造6本足基礎石オス型屋根付き鳥居型。
土台、基礎石の上に柱が立てられていて、それに横木の梁を通していて、上はのっかる形で留めてある。おそらくホゾが掘ってあって組み上げてあるのだろう。
横梁が抜けないように楔(くさび)もみえる。金の円盤っぽいものは釘隠しだろうか?
木が腐らないように、切口が金属でカバーされていて、この鳥居に限っては屋根までもついていて、わーぉって感じ。雨仕舞用の水切りや、垂木(たるき)の鼻隠しっぽいものまでついててやり過ぎかっ!って感じもする。
でもね、こんな簡単な構造物に昭和ぐらいまでの木造建築物の主要要素の大部分を含んでいるんだよね。
鳥居は釘や留め金をつかわずに組み上げられ、柱だけで自立している。

つまり木造の鳥居を建てられるならそれを真似すれば普通の家の構造体も建てられることを意味する。
作りを真似るだけでよいものが、誰からも見える場所にあるところがミソ。
鳥居はそれだけで先輩職人の技を見て盗む、学ぶことができる見本現物だ。

 

文字も動画もなく、学校も徒弟制度もなかった時代。
技術を持っている職人が弟子を残さずその地域から移動したり、不慮の死などでいなくなるたびに、技術が当代のみでロストしてしまう。しかし、鳥居のような、このようにやればよいという見本、現物が残れば、それを見本教師とすることができる。

 

鳥居は風雨にさらされ痛みも激しく、家よりも頻繁に修理補修がなされる。はずだ。と思う。
傷んだ鳥居を立て直すたびに、構造が分解、リバース・エンジニアリングされて修繕した人物らに技術が伝播していく。余計な装飾がないので、構造を学ぶのに適した見本だ。
その構造は習熟訓練の教材としてもとてもよくできている。

 

鳥居を自立させるために、穴を掘ってそこに立てる掘っ建て建築様式や、添え足をつけて、基礎石建築どちらの方式をとるにしても、技術練度が低ければ鳥居を自立させることができないし、横棒(梁)を渡すことができない。
低い技術力ではすぐに倒れてしまうし、横棒も上にのせたりでっぱりに引っ掛けたりするだけではすぐ落ちてしまう。

日本は台風も地震もある地域だから石組みよりも倒れない木組み技術が必要とされた。
もし、見よう見まねで自立する構造物を建てられたとしても、技術力が低ければ小さな鳥居しか立てることができない。その本質がわかっていなければ割り箸ですら鳥居を構造物として再現することはできないだろう。

鳥居というシンプルなものを建ててみせるだけで、製造物の耐久テストをおこなうことで技術練度の公表もできる。

 

ちなみにこちらは正面の石造りの大鳥居。

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このサイズの石造りの鳥居を安全に自立させておくことができるのであれければ、杭打ビルも建てられるよね。

 

伊勢神宮でおこなわれる式年遷宮は技術をロストさせないための工夫らしい。
しかし、あれは大掛かりなピンきりでいったらピン側、トップノッチ連中のための技術の伝承だ。
民草、民衆の家屋を立てるのに最低限必要な木造建築の技術はどのようにおこなわれたか?
字が読めない人にでもわかるように、誰からも見えるようにするための教材としての鳥居だ。

もしかして鳥居はそれとは知られずに文字にも指導者にも頼らず技術者の伝承につかえるすげぇ教材システムとして機能してきたのではないか。

だとすれば、考えたやつすげぇと思うのである。
まっ、買いかぶりかもしれないんだけどね!

 

メス型鳥居

上で紹介した八幡の鳥居は下側の梁が飛び出ているのでオス型と呼んでいる。
でていないものはメス型と呼んでいる。個人的な命名。
子ども頃に不思議におもっておとーちゃんに聞いたことによると主神が男なら下の梁がでているオス型、女神だとメス型だと言っていたが真偽はわからない。
天照大神とか、弁財天とかはメス型なので、たぶんそれであっているような気もするけど、微妙に違う気もする。

こちらは今話題の築地市場場内の鳥居。

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石造り2本足自立掘っ建てメス型丸鳥居型。

水があるところの神様は女の神様が多いので、たぶん女神のような気もするけど、どうでしょうね。
魚河岸水神社かな。祭神は弥都波能売神(みづはのめのかみ)なので女神っすね。
最近の建築物は石造りなので、鳥居も石造りのものが多い。
コンクリートや、石材の加工技術がないと作れないが、2本足がたも恐らく昔はほとんどが木造であったものと考えられる。

 

2本足なので、穴を掘って埋めてまわりを固めることで自立をさせている。
電信柱のような建て方だね。

 

竪穴式住居の時代からつかわれてきた建築方法だ。
!!いまの、いままで縦穴式って書くんだとおもってたよ!!
縄文時代程度の建築技術でも自立した構造物をつくれる。

 
メス型の鳥居は下側の梁がとび出ていない。
釘やカスガイをつかわずにこの梁を留めるためには、ホゾ組の加工技術が必要になる。
上の梁も落ちないようにするためには同じ技術が必要だ。
梁を2本渡すことで、斜め方向の揺れで倒れることがなくなる。
もし、鳥居の梁が1本だったら構造体としてすごく弱いし、凸凹の受け側が逆になっても構造として安定しない。

シンプルな構造にして洗練されている。

 

豊洲に建造される神社の鳥居にはぜひ子々孫々のためメンテナンスのための地下ピットを盛り込んでほしい。

 

 

白木鳥居

こちらは福島県の大内宿にある高倉神社。藁葺きの建物群からもわかるとおり、タイムスリップしたような村。

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より原初の鳥居の構造を現代に伝えているように感じる珍しい白木タイプの鳥居だ。

木造2本足自立掘っ建てメス型白木丸鳥居型。
とても特徴的な鳥居で、どちらも左が根っこ部分の太さを残したままのせている。

内側から見れば左頭とかなのかな??

ホゾ組もより原始的で、太い柱に細い丸太の頭をそのままつっこんで組み上げているように見える。

 
余談だが、こちらの神社、内殿にあがっていくと鳥居が足6本のオス型になる。

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オス型、メス型の混在は珍しいなと思った。

 

朱塗り、黒塗り

同じく福島よりさざえ堂があるところの中腹の神社。厳島神社。

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一番最初に登場した鳥居と同型の6本足同型だが、こちらは朱塗り。

木造建築物は朱塗りなど塗装をほどこすことで、より腐食に強くなる。広島宮島の厳島神社の鳥居は、満潮になると海のなかに建つが、もしあれが白木だとあっというまに腐食してしまうだろう。

漆や柿渋や表面を炭化させたり木酢液をつけたりするだけで、腐食には強くなるので、そういう工夫、技術の集大成だろう。水場に近いところで、無垢の鳥居をたてておくことでアジャイルテストが繰り返された結果習得された技術かもしれない。

ここの祭神は市杵島姫命は弁才天と習合されていてどちらも女神だけど、こちらもオス型。やっぱオス型、メス型は主神の性別じゃないのかな??

 

朱塗りに対抗して、こちらは珍しい黒鳥居(黒門)
井の頭公園のはじっこにあるやつ。

写真が手元にないので、三鷹の観光案内所のホームページから


www.mitakanavi.com/spot/park/inokashira_benzaiten.html

枕木なんかと同じ木酢液による黒かな?それとも炭??

井の頭公園は弁財天なので女神だけど、オス型。やっぱり祭神の性別関係ないかも・・・。

 

鳥居の数が封じている社格だとか神威の強さを表しているとか聞いたんだけどほんとかね?
本殿にいくまでに鳥居の数が多いほうが強い神様だとかなんだとか。
伏見稲荷とかどんだけ強いんだよっていう。

 

ま、ちょっと主題とずれちゃったけども、今回いいたかったことは、鳥居は大工(見習い)に構造体技術を伝承するための合理性をもった見本だったんじゃないかなという仮説でした。
同様に注連縄とかも、藁で縄を編むものの技術見本。

できるだけ太くされていて撚りの構造がわかりやすいようになっている。

縄が伝承できるようになると、エリアログとなるご神木を切らせないための目印にできたり、一石数鳥だよね。
場所によっては、編み上げた縄でさらにそこから編んだワラジとかが奉納されていたりするでしょ?

そもそも御神体の鏡や剣なんかが、産業革命がおきるまでは最先端テクノロジーの塊。

 

そんなわけで、神社仏閣っていうのはそのご当地の技術展示会を常設しているコンベンション・センターだったのではないかなというのが、今回の仮説でした。仮説だけぶんなげて証明なしで終了。

どうかな?どうだろう??

 

参考

鳥居の構造



blog.livedoor.jp/takamimusuhinokami/archives/421685.html
魚河岸水神社遥拝所の概要
www.tesshow.jp/chuo/shrine_tsukiji_uogashi.html

 

福島県:歴史・観光・見所(ホーム)>飯盛山>厳島神社
www.fukutabi.net/fuku/iimoriyama/itukusima.html

 

井の頭弁財天(大盛寺・黒門)
www.mitakanavi.com/spot/park/inokashira_benzaiten.html